昨夜、公開講座「学校での事故・事件とどのように向き合うか」の3回目がおわりました。
4回連続の公開講座のうち、私からのレクチャーの部分3回が、これでひととおり終わったことになります。
今回の講座では、まず12月23日が桜宮高校バスケットボール部主将の自死事件から4年目だ、だからどうしても今日「指導死」の話をしたかったのだ・・・ということを冒頭で話をしました。
それから、今回は「指導死」を入口にしながら、文科省が積極的にすすめる子どもの自殺予防教育の概要と、「それがほんとうに効果を発揮するためには、実は『指導死』が起きないような学校における教員と子どもの関係を実現しないといけないのでは・・・??」という話をしました。
要するに子どもが教員を含む周囲のおとなに自分のつらさを訴えたり、教員がおちついて子どもの悩みを聴くことができるような環境を整えていくということ。そういうことなしには「自殺予防教育」なんてできないわけですが、「それって『指導死』の起きづらい学校をつくるってことに重なるのでは?」ということですね。
また、学校での重大事故・事件や災害のケースと、自殺のケース。この両者には、たとえば事後対応のあり方の問題や、個々の教職員の不適切な対応の背景にある学校の実践や教育政策の矛盾、あるいは保護者や地域社会の人々の意識などの「土壌」の問題をも含めた調査・検証作業を行い、そこから改善を行っていく必要があること。要するに子どもとともに教職員(さらには保護者や地域社会)も変わっていく道筋を探る必要がある・・・ということ。
それと、我が子が自ら命を絶った遺族たちの出会い、語り合いがなければ、「指導死」という現象に気づき、それを社会的に訴えていくことはなかったのではないか、ということ。
要するに「専門家」と称する人々以上に当事者自身がいろんな課題に気づくことが多々あること。また、その当事者の課題への気づきをきちんと誰かがすくいとって、学問的に位置づけなおしていく仕事をしなければいけないこと。そんなことも、水俣病の例や過労死の例などを交えながら、質疑応答の場面で話しました。
そんなわけで、私からの公開講座でのお話は、一区切りです。
ちなみに実際の当事者の話を聴く予定の来月の最終回は、京都市内の小学校でのプール事故でお子さんを亡くされたご遺族の方に登壇をお願いしています。