一般に人間と動物の違いは、知恵持っているか、いないかによるといえる。最も動物もある程度の知恵を持っているものだが、それは生理的に生きていくための単純な知恵であって、人間のような複雑な知恵ではない。
それに人間には「思い」がある。「心」である。
動物にもこの思いという感情がないことはないが、悲しみに喜びに怒りに懐かしさもあるだろうが、恨みや憎しみといった怨念があるとは思えないし、未来への思いや志や信念といったものは持っていないだろう。
人間には動物と違って、そういう思いや感情がある。それが知恵というものを持っていることによって、行き着くところを知らない。
それ故にキリストは「禁断の木の実を食べた人間の迷い」と語っている。また釈尊も「人の思いはどこへでも行ける」と語り、その「思いを整える」ことを教えた。
このキリストと釈尊の言葉は、思いというものが自由ではなく限界があり限度を知り節度を知るべきことを教えるべきものだといえるだろう。
私達は事々に自由を叫んでいる。「行動の自由、表現の自由・・・・」とーーーーーーーーー。
しかしそれは自分の都合を、相手に押し付けること以外の何物でもない。相手の都合を無視した、こじづけしたものである。だから対立して、諍いが絶えない。都合を押し付けて自由に成ろうとして自由を求めるがために、かえって不自由に縛られてしまっている。
もし私達人間が本当に知恵を持っているなら、自由の限度とか限定とかをわきまえるべきである。
そうすることによって釈尊が「思いを整えることによって得がたき自由を得る」と言われたように、本当の意味での自由が得られることになるだろう。