釈尊の悟りの内容は、縁起を基本としながらも他の三つの事柄も重要なこととなしている。他の三つの事柄とは、
その一つは、変化する、ということである。物や物事や事柄は、いつでもそのままの状態にあるということは無い。保持しない。常に、変化していくものなのである。
このことを仏教用語では「無常」という。
その二つ目は、自意識を持たないことである。自我を持たない。固定したことに、捉われない、執着しないことで、それによって「その一」の変化が現れることになる。
この自意識を持たず自我を持たないことを、仏教用語では「無我」とも「空(空性)」ともいう。
その三は、変化し、自意識を持たず自我も持たないとなれば、テンでバラバラになってしまう。そうならないこととして、相関的依存性を持っている。
普通に依存すると言うということは、他への依存ばかりでしかない受動的なものでしかないが、能動的なものも併せ持つものである。
これを例えとして言うなら、私達が生きるためには空気や水や食糧に、完全に依存しなければならないということで理解できるだろう。
この三つのことは単独では存在できず、相関関係の元に縁起によって存在している。その事を「あざなえる縄の如し」といったが、本当にそういうものだといえるだろう。
そしてこの四つのものを私達の身近な世界に当てはめて見ると、私は最初に述べたように専門家でないので詳しい事は判らないが、私達が実存するこの世は物質で出来ているが、この物質の基本となる原物質の素粒子(ニュートリノとかクォークとか名付けられている)、この素粒子の性質とか性格にピタリと当てはまるようなのである。
素粒子は瞬間的にしか存在できないと言われるが、それが他の素粒子と縁を持って結びついて変化し、物質の形として存在感を現してゆく。そしてそれが液体ともなったり固体ともなったり気体ともなり、さらに生命ともなり精神作用も生み出し、心をも築いてゆく。
これが世界観の、実体である。
私達の生きている世界は、常に変化を求め、その定まらない変化の行く先のために固定観念でいることは出来ない。そしてそれを孤立して通すのではなくて、他との関わりの中で歩んでゆく必要があるだろう。
しかし私達は、自分がかわいい。今より、良くなりたい。悪くなりたくない。
そのために、正しくこの世の世界観を見る眼を、眩ませている。