ここで、このブログ「青い鳥の世界へ」の主旨とも言える、思いと願いを述べておきたい。
「青い鳥の世界へ」とこのブログのタイトル名にあるように、このブログはメーテルリンク作の「青い鳥」の童話にちなんでいる。ご存知のようにメーテルリンク作の「青い鳥」の童話は、幸せの青い鳥を求めてチルチルとミチルが旅をし、この幸せの青い鳥のいる所は外の外部の世界ではなく、内部の内なる内面の世界だという物語である。
「青い鳥の世界へ」のブログは、青い鳥の童話がここで終わり終結しているのを踏まえて、それを発展展開させていこうという試みで挑んでいる。
そのための前提としなければならないことは、私達が産れ生きている「この世」という世界が、どういう世界かを見詰めた上で、いわば一つの世界観に立った上で、人の生き方というものを見付けていかなければならない。
「この世の世界観」については折があったら述べるとして、人が生きるにしても一人で生きる訳ではなく、又人だけが生きるわけではないし、こうした人が生きるためには、生きるための環境をも見据えなければならない。
一般に私達は自分を主とし、他を従属と見なしてしまっている。この自分を主として、他からのの幸せを求めることの愚かさを指摘しているのが「青い鳥」の童話だろう。それは又、自分が幸せになるに価する人間かどうか、問いかけることでもある。
「青い鳥の世界へ」のブログは、人が一人で生きているのでも、人だけが生きているのではないという思いに立ち、その上で鳥は鳥らしく生きているように、水は水らしく生きているように、全てのものがそれらしく生きているように、私たちも人らしく生きようという思いと願いを持っている。
私はまだそれ程の年齢ではないが、まともな身体ではない為、いつまで続けられ語り述べられるか判らないが、しかし今更とも遅いことでもないと思い続けたい。
祈りの聖夜(イブ) 2007/12/11
一
清きこの夜の 静けさに
豊かな鐘の音 鳴り響き
祈るに祈る 甲斐も無い
心貧しき 身なれども
ここにぬかずき 祈ります
二
緑の梢に 降る雪に
白き白雪の 清らかさ
晒すがままの うつし身を
悔いの思いを 胸にして
頭をたれて 祈ります
三
一つ一つに 願いこめ
七色のツリー 取り囲み
救いの御子を 祝いつつ
老いも若きも 今集い
みんなで歌って 祈ります
四
更けるイブの夜 静やかに
我が身は一人 在りとても
いつも寄り添う 側人の
光り輝く 御姿に
胸に手合わせ 祈ります
とかく私達は、知識や教養を永遠的に永久的に永続的にしたい、あるいはしようというきらいがある。それが書画や映像として保存されているけれども、しかし元々この知識や教養は、その人一代限りのものでしかない。
それを他の人が受け継ぐとなると一から始めなければならないし、その一から始めても、それぞれの個性により独自性があるため、なぞれば同じ知識や教養が得られるものではない。
しかし人はこうしたことに関わらず、先人からの知識と教養を吸収しようとして、そのために墓石や碑石、文書や文芸物や建造物などを保存して、それを崇拝することによって吸収しようとしてきた。だが独自性に立脚した知識と教養を持とうとしないものであるために、墓石や碑石といったものは用を成さず、いたずらに所を占領して緑地ばかりか人の住まうところを奪うまでにもなっていくことだろう。
これは釈尊の言葉だが、釈尊が説いた仏教の教えは、正法、蔵法、末法と移って行くと語っている。
釈尊の教えが、意味としても正しく受け継がれてゆくのが正法の時代、教えだけが受け継がれてゆくのが蔵法の時代、文書としてしか残され受け継がれていない時代が末法の時代と言い、それぞれ五百年と見られている。
知識と教養も、形だけ受け継がれてゆくか、それとも全体の意味を理解した上で受け継がれて行くかで、知識と教養の善し悪しが定まってくる。
上辺だけなぞるだけの知識と教養ではなく、六感により身体全体で習得する知識と教養を身につけたい。
それを他の人が受け継ぐとなると一から始めなければならないし、その一から始めても、それぞれの個性により独自性があるため、なぞれば同じ知識や教養が得られるものではない。
しかし人はこうしたことに関わらず、先人からの知識と教養を吸収しようとして、そのために墓石や碑石、文書や文芸物や建造物などを保存して、それを崇拝することによって吸収しようとしてきた。だが独自性に立脚した知識と教養を持とうとしないものであるために、墓石や碑石といったものは用を成さず、いたずらに所を占領して緑地ばかりか人の住まうところを奪うまでにもなっていくことだろう。
これは釈尊の言葉だが、釈尊が説いた仏教の教えは、正法、蔵法、末法と移って行くと語っている。
釈尊の教えが、意味としても正しく受け継がれてゆくのが正法の時代、教えだけが受け継がれてゆくのが蔵法の時代、文書としてしか残され受け継がれていない時代が末法の時代と言い、それぞれ五百年と見られている。
知識と教養も、形だけ受け継がれてゆくか、それとも全体の意味を理解した上で受け継がれて行くかで、知識と教養の善し悪しが定まってくる。
上辺だけなぞるだけの知識と教養ではなく、六感により身体全体で習得する知識と教養を身につけたい。
道路特定財源、揮発油税の暫定税率論議を見ていると、現実に即していない空論を論じていると思える。
道路財源の維持といっても、車社会のためとか企業誘致による経済活性化とは言うものの、それが高齢者や障害者や病弱者などの、いわゆる生活弱者のためになるかというと、そこからずれた議論になっている。
廃止にしても、その後の財源確保をどうするが、よく判らない。
こうした議論に関してよく言われているが、税支出の見直しを徹底させる必要がある。今の私には詳しいことはよく判らないが、しかし今日次々と発覚している税の無駄使い、裏金化、談合、贈収賄などを見ると、税の支出検査監督が充分に機能していないからだと見られる。
そして現在の税の支出検査体制は、会計検査院による事後の検査でしかない。支払いが適切であるかどうかという事前検査が、もし会計検査院などによって行われたなら、こうした税の無駄使いのようなことが行われることはないだろうと思われる。
今の学生の中には、親から学費を貰いながら、それを遊興費などに使ってしまう者がいるそうである。そのため学校から未納付の連絡を受けてびっくりしてしまう親のような状態が、税の無駄使いといえるだろう。
しかし、これ以上言うことは、詮無い。人の在り方、そのものなのだから。
今は道路特定財源論議、暫定税率論議が、空論だといっておきたい。
道路財源の維持といっても、車社会のためとか企業誘致による経済活性化とは言うものの、それが高齢者や障害者や病弱者などの、いわゆる生活弱者のためになるかというと、そこからずれた議論になっている。
廃止にしても、その後の財源確保をどうするが、よく判らない。
こうした議論に関してよく言われているが、税支出の見直しを徹底させる必要がある。今の私には詳しいことはよく判らないが、しかし今日次々と発覚している税の無駄使い、裏金化、談合、贈収賄などを見ると、税の支出検査監督が充分に機能していないからだと見られる。
そして現在の税の支出検査体制は、会計検査院による事後の検査でしかない。支払いが適切であるかどうかという事前検査が、もし会計検査院などによって行われたなら、こうした税の無駄使いのようなことが行われることはないだろうと思われる。
今の学生の中には、親から学費を貰いながら、それを遊興費などに使ってしまう者がいるそうである。そのため学校から未納付の連絡を受けてびっくりしてしまう親のような状態が、税の無駄使いといえるだろう。
しかし、これ以上言うことは、詮無い。人の在り方、そのものなのだから。
今は道路特定財源論議、暫定税率論議が、空論だといっておきたい。
秋の紅葉 2007/11/29
一
空は曇りの 山紅葉
人世の旅路に 疲れてた
運命(さだめ)の厳しさに 泣いていた
慰めてくれる 山紅葉
しみる紅葉に 支えられてた
二
和やかな広場の 里紅葉
乳母車の赤ちゃん 手振ってた
母子より沿い 笑っていた
豊かさあふれる 里紅葉
落ちる紅葉は ほお笑んでた
三
みんな元気な 川紅葉
ボール転げて 弾んでた
みんなでかけっこ 走っていた
楽しさあふれる 川紅葉
川辺の紅葉に 陽は落ちた
四
雲間の光りに 色立つ紅葉
胸に織りなす 錦絵に
夢にも描く 明日の世界
時の流れに 身を任せ
紅葉は希望を 教えてくれた
知識と教養の行き着く先には、限界がない。限りないといって、よいほどである。
それ故に前変でも述べたように、私たちにとって好ましいものばかりに終わらない。むしろ、この知識や教養の為に泣かなければならず、悲しまなければならず、苦しまなければならず、他の人と争うことともなる。それは私達が、知識や教養として受容すべき範囲を超えた知識や教養を持とうとすることから生じている。
このために私達は、受容すべき知識と教養の範囲を限定しなければならないし、せざるを得ない。
何によって、限定するか。
それは理性と知性と感性を超えたもので、全てのものに対する「愛」である。または「慈しみの心」である。
即ちそれは信仰であり、宗教であり、信心ということになる。
この信仰や宗教や信心は、単に偏ったものであっては意味を成さない。自分にも良く、人にも良く、全てのものにも良きものでなければならない。
知識と教養は、この自分にも良く、人にも良く、全てのものにも良きものという範囲に収まった知識と教養である時、知識と教養としての意味を持ってくる。
それ故に前変でも述べたように、私たちにとって好ましいものばかりに終わらない。むしろ、この知識や教養の為に泣かなければならず、悲しまなければならず、苦しまなければならず、他の人と争うことともなる。それは私達が、知識や教養として受容すべき範囲を超えた知識や教養を持とうとすることから生じている。
このために私達は、受容すべき知識と教養の範囲を限定しなければならないし、せざるを得ない。
何によって、限定するか。
それは理性と知性と感性を超えたもので、全てのものに対する「愛」である。または「慈しみの心」である。
即ちそれは信仰であり、宗教であり、信心ということになる。
この信仰や宗教や信心は、単に偏ったものであっては意味を成さない。自分にも良く、人にも良く、全てのものにも良きものでなければならない。
知識と教養は、この自分にも良く、人にも良く、全てのものにも良きものという範囲に収まった知識と教養である時、知識と教養としての意味を持ってくる。