昨今、汚染米、中国食品の毒となる添加物など様々な「食」に対するニュースが世間を騒がせ、食に対する信用が揺らいでいます。食に限らず、私たちは何を信じて良いのか分からない世界になってきています。
東洋医学は東洋哲学思想の考えを元にしており、これを簡単に言ってしまえば、人も大自然の一部であるということです。自然、宇宙の中の仕組みがそのまま体の中に反映するということでもあります。また、その逆もしかり。
その大自然のシステムの大きな役割をなすのが『食物』であり『食事』です
さて、ここで『食物』について考えてみましょう
終戦直後の絶体絶命ともいえるこの食糧不足の窮地を救ったのは、連合国軍総司令官・マッカーサー率いる占領軍が配付したララ物質(LARAは公認アジア救済連盟の略。食糧としてはおもに脱脂粉乳。ほかに衣類など。無償)やケア物質(CAREは海外援助救援協会の略。食糧としては缶詰、菓子、コーヒー、紅茶、砂糖など。他に日用品類も。無償)ガリオア基金(GARIOAは占領地救済政府基金の略。アメリカの軍事予算から支出された援助基金)により緊急輸入された小麦粉、トウモロコシ、コーリャン、脱脂粉乳、砂糖などの食料(ガリオア基金による救援物資は、当初、無償と思われたがのちに貸与であり、有償とされました)だけではありませんでした。
それよりもむしろ、農家の便所の肥溜の下肥と、牛馬の糞尿、敷ワラの厩肥(堆肥)の存在の方が大きかったのです。六百万戸の農家の庭先には、汲み取り式便所の糞尿を貯めて醗酵させる肥溜(かめ)が必ず一つか二つはありました。(容量は1000~1500リットル)。そればかりではありません。農家以外の一般住宅や寮、商店や工場、学校や病院、役所や会社などの便所も、契約農家がリヤカーや荷車に肥桶を積んで回り、対価を払って定期的に汲み取っていました。対価と言っても量の少ない一般の住宅の場合、季節の野菜などで済ませ、量の多いところには金銭があてられました。集められた糞尿は、コンクリート製の大きな肥溜に貯留して醗酵させました。
それに加えて、四百万頭前後いた農耕用牛馬の畜舎には、厩肥を貯めておく堆肥小屋が併設されていました。この肥溜と堆肥小屋に蓄積された膨大な量の有機肥料によって、終戦直後の日本人は、最悪の飢餓地獄から救われたのです。
ちなみに一頭の牛馬から排泄される糞尿の量は、人間の十倍以上になります。そこに敷ワラ(山間部では野山の刈草、平野部では稲ワラ)が混じるのですから、たいへんな量の有機肥料ができるのです。
人間の十倍以上の労働力を提供してくれる農耕牛馬は、同時に良質な有機肥料の提供者でもあったのです。人間の下肥は、15~20倍に薄めて夏場は畑の作物の肥料に、冬場は水田の裏作の麦の肥料として使われました。
牛馬の堆肥は、田畑にばら撒いたあと、土の柔らかい畑では人間の鍬で、硬い水田では牛馬が引く犂(スキ)によって土と混ぜられました。この大量の有機肥料があったお陰で、米も麦も野菜も収穫することができて、一千万人が餓死しないですんだのです。
昭和30年頃までの日本の農業の肥料事情は、この延長戦上にありました。この他にも、薪やワラを燃やした煮炊き用の竈(かまど)の灰も肥料になりました。落ち葉や雑草なども集めて積んでおいて醗酵させた堆肥も使われました。脂を搾ったイワシやニシンを干した江戸時代から続く乾燥肥料の干鰯(ほしか)、大豆や菜種油の搾りかすも有用でした。水田に自生させておいたレンゲ草も土壌の改善に役立てていました。
『餓死 迫る日本』 小池松次 著より
長くなりましたが、つい少し前の日本の農業の一風景が説明されています。戦後の奇跡的な復興を影で支えていたのは、このような有機肥料を利用して育てた、栄養たっぷりな食物だったのかと感動さえ覚えました。
これこそ自然の恵みをそのまま頂く、自然の大循環に逆らわない、人の体に優しい農業の本来の姿なのではないかと思います。現在、肥料のほとんどは輸入であり、そのほとんどが無機肥料による化学肥料です。これは、石油や石炭、天然ガスなどを原料にして水素を発生させ、大気中のチッソとその水素を高圧反応させて硫酸アンモニウムや塩酸アンモニウム、尿素などにして肥料化しているのです。
もし化学肥料が使えなくなったら、現在の日本の農業は全く機能しなくなります。これに石油がストップした日には、食物自給率はゼロに近くなるのではと危惧してしまいます。
自然の法則、大自然大宇宙の原理をもう一度見直す時が来ているのではないでしょうか。とくに食物や生物は大自然の一部であり、その流れに、システムに従ってこそ人間にとっても活力源となり、病気にならない体ができてくるのではないかと考えます。
東洋医学は東洋哲学思想の考えを元にしており、これを簡単に言ってしまえば、人も大自然の一部であるということです。自然、宇宙の中の仕組みがそのまま体の中に反映するということでもあります。また、その逆もしかり。
その大自然のシステムの大きな役割をなすのが『食物』であり『食事』です
さて、ここで『食物』について考えてみましょう
終戦直後の絶体絶命ともいえるこの食糧不足の窮地を救ったのは、連合国軍総司令官・マッカーサー率いる占領軍が配付したララ物質(LARAは公認アジア救済連盟の略。食糧としてはおもに脱脂粉乳。ほかに衣類など。無償)やケア物質(CAREは海外援助救援協会の略。食糧としては缶詰、菓子、コーヒー、紅茶、砂糖など。他に日用品類も。無償)ガリオア基金(GARIOAは占領地救済政府基金の略。アメリカの軍事予算から支出された援助基金)により緊急輸入された小麦粉、トウモロコシ、コーリャン、脱脂粉乳、砂糖などの食料(ガリオア基金による救援物資は、当初、無償と思われたがのちに貸与であり、有償とされました)だけではありませんでした。
それよりもむしろ、農家の便所の肥溜の下肥と、牛馬の糞尿、敷ワラの厩肥(堆肥)の存在の方が大きかったのです。六百万戸の農家の庭先には、汲み取り式便所の糞尿を貯めて醗酵させる肥溜(かめ)が必ず一つか二つはありました。(容量は1000~1500リットル)。そればかりではありません。農家以外の一般住宅や寮、商店や工場、学校や病院、役所や会社などの便所も、契約農家がリヤカーや荷車に肥桶を積んで回り、対価を払って定期的に汲み取っていました。対価と言っても量の少ない一般の住宅の場合、季節の野菜などで済ませ、量の多いところには金銭があてられました。集められた糞尿は、コンクリート製の大きな肥溜に貯留して醗酵させました。
それに加えて、四百万頭前後いた農耕用牛馬の畜舎には、厩肥を貯めておく堆肥小屋が併設されていました。この肥溜と堆肥小屋に蓄積された膨大な量の有機肥料によって、終戦直後の日本人は、最悪の飢餓地獄から救われたのです。
ちなみに一頭の牛馬から排泄される糞尿の量は、人間の十倍以上になります。そこに敷ワラ(山間部では野山の刈草、平野部では稲ワラ)が混じるのですから、たいへんな量の有機肥料ができるのです。
人間の十倍以上の労働力を提供してくれる農耕牛馬は、同時に良質な有機肥料の提供者でもあったのです。人間の下肥は、15~20倍に薄めて夏場は畑の作物の肥料に、冬場は水田の裏作の麦の肥料として使われました。
牛馬の堆肥は、田畑にばら撒いたあと、土の柔らかい畑では人間の鍬で、硬い水田では牛馬が引く犂(スキ)によって土と混ぜられました。この大量の有機肥料があったお陰で、米も麦も野菜も収穫することができて、一千万人が餓死しないですんだのです。
昭和30年頃までの日本の農業の肥料事情は、この延長戦上にありました。この他にも、薪やワラを燃やした煮炊き用の竈(かまど)の灰も肥料になりました。落ち葉や雑草なども集めて積んでおいて醗酵させた堆肥も使われました。脂を搾ったイワシやニシンを干した江戸時代から続く乾燥肥料の干鰯(ほしか)、大豆や菜種油の搾りかすも有用でした。水田に自生させておいたレンゲ草も土壌の改善に役立てていました。
『餓死 迫る日本』 小池松次 著より
長くなりましたが、つい少し前の日本の農業の一風景が説明されています。戦後の奇跡的な復興を影で支えていたのは、このような有機肥料を利用して育てた、栄養たっぷりな食物だったのかと感動さえ覚えました。
これこそ自然の恵みをそのまま頂く、自然の大循環に逆らわない、人の体に優しい農業の本来の姿なのではないかと思います。現在、肥料のほとんどは輸入であり、そのほとんどが無機肥料による化学肥料です。これは、石油や石炭、天然ガスなどを原料にして水素を発生させ、大気中のチッソとその水素を高圧反応させて硫酸アンモニウムや塩酸アンモニウム、尿素などにして肥料化しているのです。
もし化学肥料が使えなくなったら、現在の日本の農業は全く機能しなくなります。これに石油がストップした日には、食物自給率はゼロに近くなるのではと危惧してしまいます。
自然の法則、大自然大宇宙の原理をもう一度見直す時が来ているのではないでしょうか。とくに食物や生物は大自然の一部であり、その流れに、システムに従ってこそ人間にとっても活力源となり、病気にならない体ができてくるのではないかと考えます。