鎌倉、大倉山の片すみに槿の群生があり、その花がちょうど開花の時期を
迎えています。純白の花びらに底紅をもつ宗旦槿と呼ばれるその花は華やかな
花姿に似ぬ、妙なる寂しさをまとっています。それは「朝開暮落」の花名が
示すとおり、朝に花開き夕べに散る「ひと日花」の宿命を理解する、私ゆえの
哀しみでしょうか。
「咲き初める 宗旦むくげ」
夏の夕べ、ひと日という短い生涯を全うし散っていく花の風姿。
「槿花一朝の夢」を語るにふさわしい、儚さと気品に満ちています。
短く儚いゆえに、生の限りを懸命に燃やした若者達の真摯な思い。
その思いは争乱に明け暮れた源平の昔より、どんな時代の闇の中でも、
それぞれに光彩を放ちながら時代の青春を貫いてきました。それは、
祖国に留まり理不尽なロシアの侵略に対して、闘いを挑むウクライナの
青年たちの想いに重なります。
大倉山から眺める鎌倉の街並みは、炎暑の余韻を留めながら、夏の
夕映えの中で淡いセピア色に染まっています。
七里ガ浜からの潮騒も聞こえてきそうな静寂の中で、むくげの花は今、
まさにその花弁を閉じようとしています。
一日と言う短くも、かくも典雅さに溢れた花の一世。夏の夕映えの
中で静かにその花弁を閉じるむくげの花は、風雅さを押し包むように
萎んでいきます。
「宗旦むくげ」
朝に開き、夕べに散る槿花の紡いだ夢は、儚さそのものかもしれません。
しかし、それは遠い戦乱の世も含めて、今、ウクライナで、そしてガザで死と
隣り合わせの生を懸命に、健気に生きる人々の燃焼の証でもあり、一瞬を
永遠に重ねることを悟った、凛とした気品と志の証でもあると思っています。
素敵な写真を拝見して花の持つ強さを感じました。
有難うございます。
早々にコメント頂きありがとうございます。
おっしゃる様に、宗旦むくげは艶やかさとともに一抹の寂しさもまとい
心に寄り添ってくれる花との印象があります。
千利休の孫にあたる宗旦が愛でたことから名付けられたとも言われています。
写真に目を留めて頂きありがとうございます。あの花の持つ風姿には中々
せまれていませんが・・・。
この時期、同じ夏の花の仲間の芙蓉よりも少し早めに咲く木槿はポエットMさんが仰るとおり、私達にいろんなことを考えさせり教えてくれるようですね。
色もその姿もいろいろある中で私もこの宗旦槿から感じるものが一番多いですね。
僅か一日の短い命が私たちにその懸命な姿と共に古来世の中の絶えぬ争いの中で平和や命の大切さを教え続けてくれてもいるのだとポエットMさんの言葉からも感じました。
物言わぬ花がこんなにも私たちの心を揺さぶるのかと思うとその力の大きさを改めて知った思いです。
いつも心に沁みるコメントを頂きありがとうございます。
1948ofさんのコメントへも書かせて頂きましたが、宗旦むくげは千利休の
孫にあたる宗旦が愛でたことから名付けられたとも言われています。
豊臣秀吉が、利休から召し上げた茶道具を宗旦を名指しして返したことから、
伯父の道安ではなく宗旦が利休の後継者と目されるようになったとも
言われています。宗旦は侘び茶の精神を究極まで追求し2畳の広さの茶室を
晩年に建てたことでも知られています。
ひと日花の槿を愛おしみ、黄金の茶室を立てた秀吉に対して少なからぬ
「否」とする、強い思いがあったと勝手に解釈しております。
おっしゃる様に「物言わぬ花がこんなにも私たちの心を揺さぶる」ことに
改めて感じるものがあります。
これからもよろしくお願い致します。
Shouさん、おはようございます。
浅間山明鏡止水です。
短歌投稿します。
「詞書」源氏物語や紫式部日記・紫式部集には和歌(巻名歌等)が沢山ありますが、その和歌の返歌を口語短歌で提出します。返歌は源氏物語の内容や進行に合わせてではなく、短歌に沿った言葉・単語や自然・地名からヒントをもらい詠みます。今週は源氏物語巻名歌から2首、紫式部集より1首の計3首提出しますのでご指導よろしくお願いします
源氏物語巻名歌・28夕霧(ゆふぎり)
歌の背景
光源氏五十歳。物の怪に悩んだ御息所は娘の女二宮(落葉宮)と小野の山荘に移る。夕霧は山荘まで訪れ、陀羅尼を唱えたりする女二宮の様子に思いをよせ一夜の宿りを乞う歌を詠む。
「山里の あはれを添ふる 夕霧に 立ち出でむ空も なき心地して」
「山賤(やまがつ)の 籬(まがき)をこめて 立つ霧も 心そらなる 人はとどめず」 女二宮
返歌
「まめ人の 堅物男 真剣で 抑えられない 恋物語」
「大将は 小野の山里 足しげく 宮さま口説くも 心許さず」
紫式部集・28
「春なれど 白嶺(しらね)のみゆき いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな」
返歌
「越前で過ごした月日時間こそ 暮らしにふれて裏付けされる」