子供のとき、『里見八犬伝』と言う本を読んだ事が、かすかに頭の片隅に有る。
八個の玉『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の元に生れた武人が『勧善懲悪』を成し遂げた話で、詳しい筋は全く頭の中には無い。 物語の本筋は、ウィキに拠れば中国の『水滸伝』に倣ったと言うことらしいが、歴史のチョチョ切れ文明国である中国では、その内容を知っている一般人は一人も居ないのではないか・・・ 。
中国の政策的理不尽さは、過去の中国の歴史に照らしても、余りにも酷いと言わざるを得ないが、日本人は最悪のシナリオを頭に入れておいても、決してそれが無駄と言うことにはならないのではないか・・。 土の中で蠢いていた残留孤児を育ててくれた漢民族、個人的には情け深い民族でも、集団となれば事情が変わる(終戦以来の反日教育の賜物だろうか?)。
いきなりでは有るが、合衆国はヨーロッパからの移住者が入り始めてから、人種のルツボと化し多民族国家という現代に至った。 其処では、多数派が正義、力の強いものが正義、自分を正当化するに長けた民族が、正義となって行った。 そういう事情は、彼らが新しい土地を目指して旅立ったヨーロッパに於いても、昔からの当然の物事の解決法であった。
日本では、つい最近まで自分の行いが、自己弁護の仕方によって『正義』となる『ディベート』などと言う技術などは、知る由も無かった。
日本に於ける問題の解決法は、相互の『あ、うん』の呼吸で、互いの心意気を慮ったり、気遣ったりして問題を解決する事が、主流であった事と思われる。 それが、お互い長い間住み続けた地域での歴史的関係や、その問題発生時の力関係を暗黙の了解の中で、認めると言う事であったのあろう。 それが、自分の住む地域の『仲間(人)に問題を委ねる』と言うことであった、すなわち倭人と言う謂われなのだろう。
ちょうど、家族の問題を戦前の『家長』である『オヤジ』に判断を任せるように・・ 。 家長は、母の『慈しみ』を持って判断を下すことが、多く有ったのだろう、『グローバリズム』或いは『金銭万能主義』の前までは・・。 そしてその考えの基本になっていたのが、おしんの『信』、『信頼』と言う言葉ではなかったのではないだろうか。
― 軋む廃屋・限界集落 ―
民主党の姿勢を今更取り上げるまでも無い、『ウソ』に塗れた政治は、ここ30年来、自民党の天下りや世襲問題、税金の囲い込み、細かい事を上げればキリが無く、その根本には『人間の不信』が大きく横たわっていたのではないか・・・ 。
国際化が進むこれからは、何を考えているのか解らぬ『タヌキ』や『ゴリラ』を見るような眼で、外国人を観察し、心から信頼できない事は悲しい事ではあるが、これが現実である。
そして、国内的にも日本人の目先の事だけしか考えられない、多少『ズル賢い』タケナカボー大臣の様な、国籍不明の『キツネ』や『カワウソ』類の人間が、多くなってきている。
実の子が、母親を信じる事が出来ない世にあっては、それも当然の時勢と諦めるべきか・・ 。 ある意味、動物社会よりも『信頼感』が無くなったということ。
後世には背中で教えるという以外、確かな方法は無いということ・・・。