ここのところ、パソコンが2台、プリンターが1台不調で困っております。
私は、リクエストにより家電製品も販売致しますので、良く聞く「電化製品は、一つ壊れると、次々と具合が悪くなるニャア↑」 と言われれば、言われるたびに内心「シメシメ」と思うことしきりである。 それが、いざ自分の身にことが降りかかってくれば、厄介な事になる。 早速、息子より 「風呂終わったら、僕にパソコン貸してな~」 と言われてしまった。
今晩は、ニュースを一瞥する時間が有るかどうか・・・・ ?。
なので、 成田空港のでたらめさを指摘するブログを紹介して終わりにしたい。
**** 成田空港とは何だったのか? より以下転載 ****
立地条件の悪さは初めから分かっていました。 そこで成田に空港を作るよりも羽田拡張が合理的だとの意見は、開港前からあったそうです。 でも羽田拡張は技術的に無理だというので、不便な成田に空港を作ったのでした。
ところがこれがとんでもないウソでした。
羽田拡張計画は、成田空港建設と同時期に、並行して進められていたのです。
いまから28年も前に、鎌田慧氏がそう書いています。
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1976年秋の閣議では、羽田にもうひとつ滑走路を作ることが決定された。3200メートルあるから、ジャンボが発着するにはなんの不自由もない。羽田拡張計画は、なにもその頃から始まったことではなく、政府に72年当時からすでにあった。こっちのほうが、成田に作るよりも安くつく計算だった。滑走路2本つくって、である。
「壮大なるフィクション」『靴をはいた巨大児』1981年
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72年と言えば成田開港の6年も前で、用地獲得の真っ最中。まともな滑走路もなく、反対運動が盛んに行われていた時代です。 その時点で一方では羽田拡張計画を進めながら、成田現地では「羽田空港は拡張できないからここしかないのだ」という説明で、無理押しの建設計画が推進されていたことになります。
これは開港前に書かれたものですから、後知恵ではありません。
作られる前から、見える人には見えていたことになります。
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羽田は5年間でパンクする、ということがしきりにいわれていた。新空港が必要だ、といわれてからすでに15年たっていた。三里塚にその位置が決定されてからでも、もう12年になる。それでも羽田はいっこうにパンクしそうにない。とすると、「成田空港」とはなんであったのか、が疑問になる。 同書
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たしかに疑問です。
「開港にいたる経緯で犠牲者の)血も流れた」と森田知事は言いますが、どうして不便な空港を作るのにそんな無理を通したのでしょうか。
蒲田氏に先行すること6年、1975年に本多勝一氏が書いています。
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「成田」は本当に必要だったか。羽田空港を検討してみると、それはウソであることがわかった。しかも奇妙なことに、その「必要性」から出発した計画よりはるかにせまく、かつカネのかかる空港として成田は造られた。要するに、造りさえすればよかったのだ。政治資金だの利権だのの力学関係によって成田にもっていかれただけではないのか。「必要論」はその上に砂上の楼閣として建てられたにすぎない
**** 以上 下記より転載 ****
http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20091014
何処が狂ってしまったのか、 いつかは分析される事でしょうが、私に言わせれば其の日本国の、頭が腐ってきたから手足の隅々まで「バイキン、ガン細胞・・・」が行き渡って、体全体がおかしくなったと言う事なのだろう。
このまま、思想、心情の違う外国人の比率を増やしたり、頭を選ぶ選挙権を与えたりしたら、日本はとんでもない方向に進み、今よりもっとおかしくなってしまうだろう。