住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

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若者よ…死に給うこと無かれ

2015年08月03日 | 日記

  村山地域で最近、『干支』の二回りも迎えて無い若者が、又、一人命を落とした。
本人の気持ちはさぞかし無念であったろうと思うが、その親御さんの気持ちを思えば、尚の事、ただただ涙があふれるばかりで言葉も無い。

  筆者の兄も自ら死を選んだ訳であるが、人生の2/3を過ぎた者と将来の有る若者の可能性を比べたら、兄を弁護する訳ではないが、天と地ほどの違いが有る。
どういう理由が有ったのか、詳しい事情は知る由ももないが、その子供さんは困ったときは、親にも話さず自らで解決しようとする子供さんだったようである。 その人一倍『心』の優しい気持ちが原因でない事を希望するが、優しさが命取りの何らかの原因の一つだったのだろうと云う思いは拭い切れない。  返す返すも、残念この上ない事である。




  筆者は若いころ、死についていろいろと考えたことが有る。
どういう経緯でその人物の名前と知ったのか、詳しい記憶は無いが『自殺』と云う事柄を読み進めた結果であったのだろう。  その昔、華厳の滝で命を落とした『藤村操』という少年が居た。
彼の回りには、広大な宇宙と、滔々と流れる歴史だけが見えて、神の立つ位置、或は親しい人の顔が、見えなかったのではないかと、今でも思っている。
  
 ファウスト等、読み解くまでも無く、人間は常に『見えざる手』、所謂、神と共に有り、その掌の中で生かされているという事を、或は言葉を変えていえば、『人間』…人と人とに間(空間)があり、神の掌の中でその孤独に耐えるよう、試練の中に生きて居るというようなものであろう。

  それにしても、人間界で起こる事象は全て、神の御意思に沿って営まれているという事を、『両親』が或は『祖父母』が、(当事者に向かっては不遜ではあるが)その道を見失ったときに、人間自身の驕りが親類縁者の一人一人に現れて来るのではないだろうか・・・。  その絶望の淵から、事件の後、残された者たちが再び『神』への敬虔な祈りを再開させ、再び『神の道』へ、引き戻されるのではないだろうか・・。


  我々人間は、神を見失ったときに、ある種の犠牲を払って再び、神の道を見出しそこに戻り、その真実に従い敬虔に生きるという事は、よくある事であるが、本来その悲劇に至る前に、謙遜に生きることに気付く事がベターなのだろう・・・。  謙遜が神の意思、この人生も神の試練だと気付いて力強く生きてほしいと云う思いは強くなるばかりである。

  ウィキペディアには、『藤村操』…彼の絶命の辞も記載が有り、或は、彼の死に対して記述と違った見方をする人も、多く居られるのでは無いのではないかとも思う。 
     ***以下転載***
   悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、
   五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
   ・・・・・・・・・・・・・・・
     ***以下  略 *** 
 しかし、残された者たちへの慰めの言葉も、いたわりの言葉もそこから見つけられない事は、どなたも共通しているのではないだろうか・・・。


  人がこの世に生まれる時、自分の意思に関係無く『両親の喜び』の中で生まれる事が多い。
自分の死ぬ時くらい、自分の意思を貫き思い通り死にたいものだと、多くの人は思うだろうが、大抵の人は思った通りにはいかないのが常であろう。  ここに、見えざる手すなわち『神』と云う事を入り込ませなければ、人生に納得の行く答えは見つかるものでは無い。
酷い話になれば、『「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ」 人生には意味など何もない。』と云う極論を平気でひけらかす者も出て来るが、これが、貧困格差の結論なのかも知れない。




  先日酒田港に入港したイージス艦、『あたご』に乗船して来た。
前に書いたかもしれないが、兄は一時東京の自衛隊に入ったことが有った。
その時に、こんなに美味しいものが世の中に有るという意味か、或は違う意味か知らないが、チャーハンの様な缶詰の非常食を、田舎の父母に送ってきたことが有った。
私ら、弟、妹たちはその見かけとは裏腹な、非常に美味しい味であったと記憶している。

  そんな、いろんな思いが重なって、イージス艦前で売っていた『海軍カレー』を、しこたま買って来た。 おいしかった。  日本の国全体の食生活が贅沢になっているのだろうか・・・、死ぬほど美味しいというところまで、或は、もう一回食べたいと思うほどのところまで、気持ちを高めてくれる食べ物には、なかなか行き当たることはない。


  言いたいことが、どこかに吹き飛んでしまいそうだが、『若者よ、親より先に逝くな!!』、実際、これは親にならないと、解らないだろう。

  手に余る問題が有ったら、ただただ『神に祈り、その重い荷物を神に預けなさい』、さすれば、どうすれば良いかの神による啓示が、心の中に現れて来る。  恐れる事は何もない、初めからシナリオも結論も決められているのだ、『神』でしっくりこなければ、墓前でも良いし、仏前でも、ご先祖様でも良かろう。 
 あるいは、尊敬する人だったらどうするか、或は、自分の『父』だったらどういう解決をしただろう・・・と、思い至っても良い。 ただ、無心で『真実』と会話する事だろう。

  自分と同じ『無念』の思いを持つ人が一人でも少なくなるように、後に続く人々の為にする『努力』、50、60歳くらいまでやってみて、その上で、『刀は折れ、矢が尽きた』のなら、その時には止むを得ない。  自分の人生に終止符を打っても、神の許しが有るのではないだろうか・・・・・。

  

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