シュルイのブログ「エコ魂」

スケールの大きい小心者のこの私。地球の未来を憂いて早四半世紀。地域活性と持続可能な社会を目指す日々を綴ります。

グレタさんを見てモチベーションを上げた

2019年12月29日 | 持続可能な社会
今年最後のブログは私が一番関心のあるコトを。
環境問題について。
人々がこの先も”普通に”暮らせる「持続可能な社会」に変えたい。
今の人類の暮らし方は「持続可能な社会」に繋がるものではないから。
普段、不自由なく暮らしていても度重なる異常気象を目の当たりにして
もはや安心して生活できる環境ではない事は誰もがわかっている。

それなのに石油よりも多くのCO2を排出する石炭火力発電所を増やそうとしている日本政府。
小泉進次郎が環境大臣になり何かが変るかもと期待していたが
今のところガッカリするばかり。

人々の関心を集めたり、共感を得るために
温暖化防止の取り組みは必ずと言って良いほど「無理をしないで改善していこう」
みたいな事が謳われてきたが、その結果が今の状態である。

「無理をしない」と「努力をしない」を履き違えている。
内容にもよるが、時には無理も必要だし。
クレイジーキャッツは大好きだけど
「♪そ~のうち何とか、な~るだ~ろう~~」とはならないだろう。
そんな風に思っている限り、自体は悪化するだけだ。

グレタさんが怒りながらスピーチをしているのを見て、大人として恥ずかしいし
環境問題に関心があると良いながら何も出来ていない事も恥ずかしい。

恥ずかしいといえば、友達の車に乗っているときに流れていた「セシウムと少女」という曲。
「セシウム」という言葉が示す通り、原発がテーマなのだけど
「十万年経ったら僕ら も少し賢くなってるのかな
 十万年経ってもまだ 恥ずかしいままなのかな」
という歌詞があり、様々な問題を解決できるほど、
人間は賢くないのかもしれないと初めて思ってしまった。

ほんの狭い身の周り、自分や近しい人が、今日や明日を楽しく、ラクに過ごすための工夫はするけれど
もっと広くて長い視野で同様のことを考えられるかというと、必ずしもそうではない。
もしかしたら人間というか動物の本能としてそれは当然の事なのかとも思ったりする。

技術は発展してるのに、何故か地球環境は良くならないし
誰もが平和が良いよねと知っているのに戦争は無くならない。

そんな単純じゃないよと言われそうだけど
複雑にしてるのは誰がなんのためにしてるのかを考えなくては。

それに自分が荷担してるかもしれないと疑う事も必要だと思う。
安いからいう理由で選んでいる商品は、すぐにゴミにはならないだろうか?
「今年はコレが流行です」と次々に新しい服やバッグを買うのは
実は”買わされている”のではないだろうか?

誰がなっても同じだからと投票して選ばれた人は
広い視野で物事を考えられる人だろうか?

もやもやと考えていることを順序立てて説明するのは難しく
そもそも深くわかっていない部分もありまくりで
そんなところも恥ずかしく思いながらも、
来年も持続可能な社会に向けて行動や発信を続けていきたいと思います。

どうぞよろしく。