
今回ご紹介するのは「偶然の祝福」(著:小川洋子)です。
-----内容-----
キリコさんはなくし物を取り戻す名人だった。
息も荒らげず、恩着せがましくもなくずっとーー。
伯母は、実に従順で正統的な失踪者になった。
前ぶれもなく理由もなくきっぱりとーー。
リコーダー、万年筆、弟、伯母、そして恋人ーー失ったものへの愛と祈りが、哀しみを貫き、偶然の幸せを連れてきた。
息子と犬のアポロと暮らす私の孤独な日々に。
美しく、切なく運命のからくりが響き合う傑作連作小説。
-----感想-----
この作品は七つの短編による連作になっていました。
語り手は小説家の「私」で、小さな息子と犬のアポロと暮らしています。
冒頭、「これが私の、失踪者との最初の出会いだった。」という言葉がありました。
「私」は今までに何人もの失踪者を見てきました。
「私」が19歳の時にはついに自身の身内である父方の伯母まで失踪しました。
自身の前から失踪する人が多いことについて、「私」は次のように語っていました。
もしかしたら自分は、特別に選ばれた人間なのかもしれないと思うことがある。失踪者たちのためにある役割を果たすよう、神様に任じられた人間ではないかと。
それぞれの短編ごとに、私の前に現れそして消えていった人達とのことが描かれています。
「私」は小説で生計を立てていますが、初めて文芸誌に採用された小説は盗作で書いたものだったとあり驚きました。
「私」の弟は21歳で亡くなっています。
弟が亡くなってから、「私」には次々と悪いことが起きます。
最後には交通事故に遭い、全治三ヶ月の重傷を負います。
退院してからもリハビリの専門病院に通うことになります。
そこに向かう電車の中で「私」は同じく専門病院に通う女性と知り合います。
女性は弟が入院しているため毎週火曜日に面会に行っています。
「私」も毎週火曜日がリハビリのため、二人は病院に着くまでの間話をするようになります。
女性との当たり障りのない話はそれまで悪いことが次々と起こっていた「私」を元気づけてくれました。
ある日「私」が女性に弟のことを訪ねると、女性の弟は左腕を耳の横につけるような形で真っ直ぐ上に伸ばしたまま、元に戻らなくなって精神科病棟に入院していることが分かります。
読んでいくと「母親の期待に応えよう」という思いがプレッシャーとなり心を蝕み、それが「左腕を真っ直ぐ上に伸ばしたまま元に戻らない」という身体的症状となって現れているのは明らかでした。
女性から弟の話を聞いた日、「私」は小説を書き始めます。
それは女性から聞いた弟の話そのままの内容でした。
女性とは弟の話を聞いて以来一度も会っておらず、「私」の前から消えていきました。
「私」の家には昔、キリコさんというお手伝いさんがいました。
「私」が11歳から12歳になるまでの一年足らずの間しかいなかったとあり、なぜ短期間で姿を消してしまったのか気になりました。
「私」はリコーダーを吹くのが上手く、小学校の学芸会で100人の5年生の中からただ一人選ばれ、メヌエットのソロを吹くことになります。
ところが学芸会前日にリコーダーがなくなりどこを捜しても見つからなく、「私」は愕然とします。
これは「私」が選ばれたことに嫉妬した誰かが隠したのではと思いました。
「私」の母親は「新しいのは買いませんからね」が口癖の人で、リコーダーがなくなったことを言っても買ってはくれませんでした。
この事態を助けてくれたのがキリコさんで、一晩のうちに新たなリコーダーを調達してきてくれました。
「私」はお礼にと、ノートに書きためた物語から一番のお気に入りを色画用紙に清書し、リボンで綴じてキリコさんにプレゼントします。
キリコさんは物語を読んで喜んでくれ、「私」は「生まれて初めて人を喜ばせた、私の物語」と語っていました。
ある日キリコさんの自転車の籠に、買い物をしているうちに紙袋に包まれた三個のジャムパンが入っている事件が起きます。
「私」の母親は気味が悪いから捨てなさいと言いますが、二人は母親に内緒で食べることにします。
これはよく食べたなと思いました。
私は知らないうちに籠に入っているようなパンは怖くて食べられないです。
そしてパンを誰がキリコさんの自転車の籠に入れたのか気になりました。
「私」から見てキリコさんを形容するのにふさわしい表現は、「なくし物を取り戻す名人だった」とありました。
「私」が何かをなくして困った時、必ずキリコさんが助けてくれます。
しかしこの短編の題名は「キリコさんの失敗」とあり、そんな頼りになる人が何を失敗したのか気になりました。
キリコさんもまた「私」の前から姿を消すことになります。
「私」は公園で小説を読んでいる男に話しかけます。
男が読んでいるのは「私」 が書いた小説で、普段見知らぬ人に用もないのに話しかけることなどない「私」もその時は興味を引かれて話しかけました。
話しかけると男は読んでいる小説が自身にとっていかに大事なものかというのを力説し始めます。
さらに「私」が書いた小説をデビュー作から全部揃えていて、その全部をどこでも読めるよう、ポケットのたくさんついたコートを着てそれぞれのポケットに小説を入れています。
この時点でこの男は尋常ではないなと思いました。
男は小説の作者が「私」であることも知っていて、「僕はあなたの弟だ」と名乗ります。
しかし「私」の弟は既に亡くなっていて、この男は何を言っているのだろうと思いました。
そして男はどこにでもついてくるようになり、「私」がつきまとわないでくれと言っても「どうぞ怒らないで。ご迷惑はお掛けしません」と言っていて話が通じないです。
男はストーカーのように見えました。
こんな失踪しそうにない男でも最後には「私」の前から消えていったのが意外でした。
「私」が飼っている犬のアポロが病気になります。
どしゃ降りの雨の中、ベビーカーに乗った息子とアポロとで隣町のペット病院を目指しますが、途中でアポロが力尽きて歩けなくなってしまいます。
そんな時、偶然車で通りかかった獣医師の男が助けてくれます。
まれに、その場にいてくれると助かる人が現れる偶然が起こることはあるなと思います。
男とはこの時一度会ったきり、二度と会うことはありませんでした。
息子がまだお腹の中にいた頃、「私」は南の島に行きます。
雑誌社から旅行記を頼まれていたのと、それとは別に南の島で小説を執筆しようとしていました。
さらに物語が進んでいくとこの島には「私」の不倫相手の指揮者の男がいることが明らかになります。
男は妻子持ちで、「私」が妊娠した途端に逃げていきました。
「私」は旅行記と小説の執筆だけでなく、逃げた男の姿を見にこの島に来たのだなと思いました。
「私」がかなり淡々と胸中を語っているところに、既にこの男とは二度と会うことがなくなるのを悟っている様子が現れていました。
最後の短編で「私」は一時的に言葉が出せなくなります。
きっかけになる病気はありましたが、逃げていった男のことなど、これまでに起きた出来事が精神状態に少しずつ影響を与えている気もしました。
やがて「私」がもう一度言葉を話せるようになった時、今まで「私」の前から消えていった人達とのことを受け止め、息子とアポロとの「今」を楽しく生きていけるようになった気がします。
この作品は淡々とした語りで進んでいきましたが、その淡々とした中にも起伏がありました。
静かな雰囲気の「私」の中にも当然感情があり、ワクワクする時もあれば失望する時もあるというのが物語全体を通して現れていた気がします。
そして生きていく中では消えていく人だけでなく新たに現れる人もいるので、「私」には新たに現れる人達との縁をぜひ大事にしてほしいと思います。
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