今回ご紹介するのは「大きな熊が来る前に、おやすみ。」(著:島本理生)です。
-----内容-----
私と彼の中にある、確かなもので、悲しみを越えて行こうー
新しい恋を始めた3人の女性を主人公に、人を好きになること、誰かと暮らすことの、危うさと幸福感を、みずみずしく描き上げる感動の小説集。
切なくて、とても真剣な恋愛小説。
-----感想-----
島本理生さんはこれまでに四度芥川賞の候補になっています。
「リトル・バイ・リトル」「生まれる森」「夏の裁断」は読んでいて、今回残る一つの「大きな熊が来る前に、おやすみ。」を読んでみました。
「大きな熊が来る前に、おやすみ。」
語り手は短大卒業後に保育士をしている珠実(たまみ)です。
珠実は会社員の徹平と暮らし始めてもうすぐ半年になります。
珠実は子供の頃から眠りが浅く、父からは「早く寝ないと、大きな熊が食べに来る」と言われていました。
父の母(珠実の祖母)が北海道の田舎で育ち、そこは頻繁に熊が出て人が死んだりもしていたため、悪い子供は熊が来て食べられると脅されたとのことで、父はその話を父の母から聞いていました。
そして珠実は徹平の雰囲気に父を重ねています。
短大時代の先輩の吉永という女性と会って徹平とのことを話していた時、胸中で「徹平のことは好きだが、エネルギーのある愛情ではなく、自分から真っ暗な深い穴に潜っていくような気持ちで毎日を過ごしている」と語っていました。
毎日不安を感じながら過ごしているのだなと思いました。
また次のようにも語っていました。
彼と私は基本的に考え方や性格がすべて微妙に二十度ぐらいずれていて、だから日常会話の細かいところで突っかかることも多く、石だらけの舗装されていない道を歩いているみたいで、二人でいることはまるで我慢比べのようだとたまに思う。
二十度ぐらいというのが印象的で、これがまるで正反対な性格ならお互いを珍しがって上手くいくか、きっぱり別れるかになると思います。
しかし二十度ぐらいのずれは不快だったとしても我慢できなくはないため、毎日のように考えのずれを感じながら我慢して過ごしているのだと思います。
珠実は徹平と初めて会った日に考えの違いが原因で暴力を振るわれました。
それ以降暴力はないですが、珠実は突然暴力を振るった徹平のことをずっと考えています。
島本理生さんの作品では女性が暴力を受けることがよくあり、こだわりがあるのだと思います。
珠実は母からの電話に出た時、「お父さんは元気?」と言います。
しかし父は既に亡くなっていて、何と父が亡くなってからも母から電話が来ると毎回これを聞いています。
珠実は子供の頃父に暴力を振るわれていて、母がそのことを知っていて知らないふりをしていたのではと思っています。
なので本人は「父が入院していた時、母に電話で父のことを訊いていたからクセになっている」と言っていますが、母を戸惑わせたい思いがあるのかも知れないです。
しかし「父を否定する自分にとって、母を信頼することは命綱のようなものだ。それを失いたくない私は、母に対する疑問を圧し殺す。」と語っていて、母まで否定したくはないため「知らないふりをしていたのか」とは聞けずにいるようです。
珠実が「せっかくの休みだし、公園でも行こうか」と言うと徹平は「行ってどうするの」と言い、これは話の腰を折る酷い言葉だと思いました。
よく「どうもしないけど、気分がのんびりするかと思って」と言ったと思います。
珠実が日常の忙しなさについて興味深いことを語っていました。
私は時々、意図的に徹平や自分の時間の速度を落とさなきゃいけないと感じる。日常の忙しなさは無意識のうちに体内の速度も上げていくので、気が付かないうちに、疲れているのだ。
これはそのとおりで、たまには気を休めたほうが良いです。
珠実が熱っぽいので病院に行くと、もう少しで妊娠三ヵ月ですと言われます。
しかし徹平が喜ばないことを確信し絶望的な気持ちになります。
家に戻り一度休もうと思い寝ると夢を見ます。
夢の中で珠実が徹平に似た雰囲気の男性に子供ができたことを言うと男性は凄く喜んでくれ、珠実はああ良かった、幸せで良かったと胸をなで下ろします。
これは珠実の願望が夢に現れています。
徹平が喜ばないことを確信し絶望していましたが、喜ぶ姿が見たいとも思っていて、その願望が叶う光景が夢に現れました。
この夢の話は臨床心理学者のジークムント・フロイト(精神分析学の創始者)やカール・グスタフ・ユング(分析心理学の創始者)の「夢分析」に登場します。
「夏の裁断」を読んだ時に島本理生さんは特にフロイトの本をたくさん読んでいるのではと思いました。
子供ができたと言うと徹平は寝室に行って鍵をかけてしまいます。
珠実はその姿に愕然として家を出て行きます。
しかしふと徹平が「珠実に会ってから子供の頃のことをよく思い出すようになった」と言っていたことを思い出します。
徹平はその記憶を思い出したくなくて蓋をしていますが、珠実は蓋を開けるようなことをよく聞きます。
そして珠実があまりにまっすぐに徹平を見て語りかけてくるため、今からでも記憶と向き合わないといけない気になると語っていました。
珠実が思い直して家に帰ると、徹平も子供が好きなことが分かります。
しかし小さい時に知的障害者の弟が肺炎で亡くなり、徹平は弟を力で押さえつけて冷たく接していたため、そんな自分が子供を好きになって良いのかと苦悩していました。
徹平の本当の気持ちが分かり、生まれてくる子供を大事にしてくれる予感がして良かったです。
「クロコダイルの午睡」
語り手は霧島という大学の電子工学科の女性で、霧島のアパートに男友達が集まって後期試験の打ち上げを行います。
そこに都築新(つづきあらた)も来ることになり霧島は不機嫌になります。
男友達が集まると都築は「ユニットバスが狭い。もっと良い部屋を借りたほうが良いのでは」と言い霧島を不機嫌にさせます。
都築の家はお金持ちで、節約の感覚がないようです。
部屋での打ち上げの翌日、ずっと寝ていた都築はお昼頃みんなが帰ってからやっと起きます。
霧島に作ってもらった親子丼を食べながら、都築は部屋がぼろい、服装が適当だなどと失礼なことを言います。
そして霧島の料理が美味いからまた食べに来ても言いかと言います。
内向的で生真面目な子供だった霧島は小学校時代、クラスに女の子の友達はほとんどいませんでしたが、近所の男の子とはたまに遊んでいました。
両親の不仲で霧島はどことなく暗い雰囲気を持つ子になっていました。
夏に近所の男の子と遊んでいた時の夏の雰囲気の描写がとても良かったです。
近付いてはまた遠ざかっていくような蝉の声。雑草が揺れるたび、光が一方からもう一方へ水のように流れていく庭。
これを見て蝉の鳴き声が幾重にも折り重なり、ある蝉が鳴き終わると一瞬全体の鳴き声が遠ざかったように感じ、別の蝉が鳴き始めるとまた全体の鳴き声が近付くように感じるのが思い浮かびました。
都築が頻繁に夕飯を食べに来るようになります。
どうして頻繁に来るのかと聞くと「一人で家にいても暇なんだもん」と悪びれもせずに言います。
都築には恋人がいて、恋人がいるのに霧島のところに来るのはいかがなものかと思いました。
都築は昔家族で伊豆のワニ園に行きワニを見て、ワニが好きになりました。
そして自身のことをワニに似ていると言う人がいれば惚れると言います。
都築が自身の彼女、打ち上げの時にも居た櫻井、霧島の四人で原宿でご飯を食べようと言います。
いつも黒いセーターを着ていて服が適当と言われたのが気になっていた霧島は、待ち合わせ時間よりも早めに原宿に行き新しい服を買います。
しかし多少派手にはなったものの今回も黒色のニットで、都築にまた似たような服を着ていると言われ、かつての恋人にも同じようなことを言われていたのを思い出します。
中でも軽蔑しながら言った「本当に君は化石みたいな子だね」は印象的で、当時の恋人の言葉は霧島の心に重い傷を残したのではと思います。
四人でご飯を食べている時、霧島は都築の彼女の山本遥の爪が長く伸び綺麗にマニキュアが塗られているのが目に留まります。
霧島はこういった爪が嫌いで料理に支障があり非実用的と考えています。
遥が親のことを「同窓会で遅くなって終電を乗り過ごしたら、カラオケボックスまで迎えに来たんだよ。本当に、ウザい」と言うと霧島は次のように思います。
私は、この子のことが嫌いだ。それも彼女だけが嫌いなんじゃなく、彼女に代表されるような、苦労もせずに与えられた平和の中で平気で文句を言える、そういう育ちの子たち、すべてが憎いのだ。
遥は親が心配して迎えに来てくれるのがどれだけありがたいことか分かっていないのだと思います。
そして霧島は両親の不仲で高校生の時から一人暮らしをしているため、ありがたいことを理解できずに文句を言う遥のような人が嫌いなのだと思います。
櫻井が霧島に、都築が彼女がいるのに霧島の部屋にご飯を食べに行くのはおかしいと言います。
これがまともな感覚だと思いました。
霧島は心の底では遥のような美しく手入れされた爪やお洒落な服を着こなすことを羨ましいと思っています。
そして都築を通して、そういった自分には決して手に入らない世界を垣間見てしまうのを怖がっていたことに気付きます。
都築が一緒に水族館に行かないかと言います。
一緒に行くことにした霧島は爪にマニキュアを塗り、さらに服を買いに出掛けます。
自転車で洋服屋に向かっている時の描写が印象的でした。
必死でペダルをこいだせいか、頬の内側が渇いてきて、夜空にくっきりと浮かんだ三日月は切り絵のようだった。
最後に「夜空にくっきりと浮かんだ三日月は切り絵のようだった。」とあるのが純文学の作家さんだなと思いました
これは必死でペダルをこいでいて夜空を見ると月だけに目が行き、浮かび上がって切り絵のように見えたのだと思います。
霧島はホットカーラーを買って髪の毛も巻きます。
明らかに自身を美しく見せようとしていて、都築のことが好きになってきたのではと思いました。
水族館の中のレストランでお昼ご飯を食べている時、都築が「自分は相手のことを思いやるのが苦手だから、気付かずに無神経なことを言っていたらごめん」と言います。
単に無神経なだけの人ではないのだと思いました。
水族館の帰り、霧島は都築にご飯を作ってあげることにします。
しかし「無神経なことを言っていたらごめん」と言っていた霧島がまたしても無神経なことを言い、今度は霧島の怒りが限界になります。
まさかあんな恐ろしい展開になるとは思わなかったので驚きました。
無神経過ぎる発言は時として命に関わるのだと思いました。
「猫と君のとなり」
語り手は大学四年生の志麻(しま)です。
中学校のバスケ部の顧問だった先生が亡くなり、通夜で後輩の荻原(おぎわら)と再会します。
二人は別々の大学で、荻原は獣医学部の三年生です。
志麻は就職が決まっていて、荻原は獣医になろうとしています。
通夜の後に元部員達は居酒屋に行き、そこで荻原が酔い潰れたので志麻が助けて部屋に連れてきます。
志麻はバスケ部時代の荻原を気の弱い子と見ていましたが、翌朝目を覚ました今の荻原はとても明るく話します。
そして荻原は昨日志麻に好きだと告白していました。
志麻が外を歩いた時の景色の描写が良かったです。
見慣れた街は雨で視界が霞んで、雨に濡れた桜の枝の先から花びらが落ちて、ちぎり絵のように歩道に張り付いていた。
「ちぎり絵のように」がまさにそのとおりで、雨で桜の花びらが散るとそんな雰囲気になります。
志麻は大学の一年先輩の春野という女性に荻原のことを相談します。
話の中で昨年の志麻は身の危険を感じていたとあり、何があったのか気になりました。
荻原は明るく朗らかに話しますが朗らかに失礼なことも言います。
そして頻繁に連絡してくるようになります。
荻原が志麻の夢を見たと言います。
「今朝、ひさしぶりに部活の夢を見ましたよ。僕がシュート外して叱られてると、大人になった志麻先輩が、なぜかおしるこを作ってもってきてくれました」
これを聞いた志麻は「分かりやすいにも程がある。フロイトもがっかりだ。」と語っていました。
この言葉を見てやはり島本理生さんはフロイトの本と縁が深いのだと思いました。
荻原はバスケ部時代に志麻が仔猫を助けたのを見て好きになり、さらに実家の動物病院を継ごうと思いました。
また志麻が前に付き合っていた人は猫が嫌いで、ある日志麻が帰宅すると飼い猫のまだらが虐待されていました。
さらに志麻にも暴力を振るい、志麻はまだらを連れて友達の家に逃げます。
このことがあったため荻原にはまだらを愛してあげてほしいと思っています。
「猫と君のとなり」は現在の彼氏から暴力を振るわれたり、怒りで恐ろしい展開になることはなく、穏やかな物語でした。
三つの作品には語り手の女性が暴力か暴言を受ける、現在の彼氏もしくは気になっている人とのことを相談する相手がいるなどの共通点があります。
過去にあった恐ろしい出来事は忘れることができず、三人とも記憶が蘇ると胸が苦しそうでした。
心理学の夢の話が二度登場したのも印象的で、「夏の裁断」とともに島本理生さんのこだわりや培ってきたものがよく現された作品のような気がします。
そして純文学の作家さんらしくこれはという文章表現が見られたのも良かったです
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