今回ご紹介するのは「永遠の0(ゼロ)」(著:百田尚樹)です。
-----内容-----
「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。
そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。
終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。
天才だが臆病者。
想像と違う人物像に戸惑いつつも、一つの謎が浮かんでくる—。
記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。
涙を流さずにはいられない、男の絆、家族の絆。
-----感想-----
26歳の佐伯健太郎は司法試験を四年連続で不合格になり、現在は自信もやる気も失せてしまい毎日ぶらぶらしています。
母の清子は会計事務所を経営していて、父は10年前に病気で亡くなっています。
姉の慶子は30歳でフリーのライターをしていて、夏のある日健太郎に電話をしてきて、祖父のことを調べたいので手伝ってくれないかと言います。
祖母は最初の夫の宮部久蔵(きゅうぞう)を戦争で失っていて、二人の間に生れたのが清子です。
そして戦後に再婚しその相手が今の祖父、大石賢一郎で、健太郎・慶子と血がつながっているのは宮部久蔵です。
宮部は26歳で神風特攻隊で戦死した海軍航空兵でした。
6年前に亡くなった祖母の松乃も宮部のことは賢一郎にほとんど話しませんでした。
健太郎は暇な身なので慶子の頼みを引き受けることにします。
さっそく翌日、慶子と渋谷で会って昼御飯を食べながら話をします。
そこで慶子が「神風特攻隊ってテロリストらしいわよ」と言います。
「これは私の仕事の関係の新聞社の人が言ってた言葉だけど、神風特攻隊の人たちは今で言えば立派なテロリストだって。彼らのしたことはニューヨークの貿易センタービルに突っ込んだ人たちと同じということよ」
これはその新聞社の人が間違っていて、酷い決めつけをしています。
貿易センタービルにテロをしたイスラム原理主義の人達は平時に何の罪もない一般の人達を襲いましたが、神風特攻隊の人達は太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本を壊滅させようとするアメリカの艦隊と戦ったという大きな違いがあります。
主張内容から見てこの新聞社は朝日新聞がモデルだと思います。
健太郎が厚生労働省に問い合わせると、宮部の軍歴が分かります。
昭和9年に海軍に入隊し、最初は兵器員となり、次に飛行操縦練習生となってパイロットになり、昭和12年に支那事変に参加、昭和16年に空母に乗り真珠湾攻撃に参加、その後は南方の島々を転戦し、20年に内地に戻り、終戦の数日前に神風特別攻撃隊員として戦死とありました。
健太郎は厚生労働省から旧海軍の集まりである「水交会」の存在を教えてもらい、そこに問い合わせていくつか戦友会を教えてもらいます。
そして戦友会について「60年前のことをどれだけ覚えていられるだろう」と胸中で疑問を語っていました。
私は子供の頃、徴兵で兵隊になり太平洋戦争(大東亜戦争)を経験した祖父が戦争のことを語るのを何度も聞いていたので、60年前であっても鮮明に覚えているのではと思いました。
健太郎と慶子は埼玉県にある元海軍少尉、長谷川梅男の家を訪ねます。
長谷川は宮部のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と言い二人を戸惑わせます。
「わしはいつでも死ねる覚悟が出来ていた。どんな戦場にあっても、命が惜しいと思ったことはない。しかし宮部久蔵という男はそうではなかった。奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」
「わしが宮部を臆病者と言うのは、奴が飛行機乗りだったからだ。奴が赤紙で召集された兵隊なら、命が惜しいと言ったところで何も言わん。だが奴は志願兵だった。自ら軍人になりたいと望んでなった航空兵だ。それゆえわしは奴が許せん。」
私は最初、長谷川は宮部に恨みでもあるのかなというくらい酷すぎる言葉だと思いましたが、「自ら軍人になった」というのを見て一応主張の筋は通っていると思いました。
長谷川は昭和11年の春に海軍に入り、三年目に航空兵の操縦練習生になります。
昭和17年の秋、ニューギニアのニューブリテン島のラバウルに配属になり、そこに宮部がいました。
ラバウルからは「ガダルカナル島の戦い」に連日出撃していて、激しい戦場で出撃のたびに多くの未帰還機が出ました。
しかしそんな戦場でも宮部はいつも無傷で帰ってきました。
ある日長谷川はガダルカナル上空の戦場で、戦場から遥か離れた場所にいる宮部の零戦(零式艦上戦闘機)を見て「臆病者め」と憤ります。
また宮部は「生きて帰りたい」と言っていたとのことです。
長谷川はもしその言葉を直接聞いたら宮部のほうが上官ですがその場で殴っていただろうと言います。
話を聞いた帰り道、二人は宮部が臆病者だったと知りがっかりします。
翌週、健太郎一人で四国の松山にある元海軍中尉、伊藤寛次(かんじ)の家を訪ねます。
伊藤は宮部のことを「優秀なパイロットだった」と言います。
長谷川とは違った評価になっていて、これは宮部の簡単には撃墜されない慎重な飛び方が勇猛で命知らずな長谷川が見ると臆病に見え、長谷川ほど命知らずではない伊藤が見ると優秀に見えるのではと思います。
伊藤と宮部は真珠湾からミッドウェー海戦まで半年以上同じ戦場で戦い続け、二人とも空母「赤城」の搭乗員で階級は一飛曹でした。
伊藤は零戦は素晴らしい飛行機だったと言います。
スピードがある上に小回りも利き、格闘性能がずば抜けていたとのことです。
また当時の単座戦闘機の航続距離が数百キロだったのに対し零戦の航続距離は桁外れで三千キロを楽々飛んだとありました。
戦闘機の空母への着艦はとても難しく失敗して海に落ちる人もいるのですが、宮部の着艦は物凄く上手でした。
伊藤が「見事ですね」と声を掛けると宮部はとても控え目に答え、それを見て宮部の人柄を好きになったとありました。
宮部は空戦もかなりの腕前で、赤城に来る前にいた中国大陸では敵機を十機以上も撃墜していました。
健太郎や慶子が話を聞きに行った人達の回想によって段々宮部のことが分かっていきます。
真珠湾攻撃で宮部は第一次攻撃隊の制空隊、伊藤は艦隊の直衛(敵の攻撃機から母艦を守るために艦隊上空で護衛)になります。
真珠湾攻撃は戦果を挙げ、母艦の護衛で参加できなかった伊藤が「俺も死ぬ時は、十分な戦果を挙げて、満足して死にたいな」と言うと、宮部は「私は死にたくありません」と言います。
「私には妻がいます。妻のために死にたくないのです。自分にとって、命は何よりも大事です」
当時伊藤は軍人として宮部の言葉を肯定することはできなかったとありました。
司令長官の南雲忠一(ちゅういち)中将率いる機動部隊(空母部隊)は太平洋を席巻します。
制海権についての次の言葉は印象的でした。
今や制海権を取ることが出来るのは、最強の戦艦を持っている国ではなく、最強の空母を持っている国でした。これはそれまでの軍事常識を打ち破るものでした。
これを世界に証明したのが、開戦劈頭(へきとう)の真珠湾攻撃です。航空機の攻撃だけで戦艦を一挙に五隻も沈めてしまったのです。この瞬間、何百年もの間、制海権を巡る戦いの主役であった戦艦は、その座を空母に譲ったのです。
海の主役が戦艦ではなく飛行機だという象徴的な戦いがもう一つありました。
それは真珠湾の二日後、マレー半島東沖で英国の誇る東洋艦隊の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を航空機攻撃で沈めた戦いです。チャーチルが後に「第二次大戦でもっともショッキングな事件だった」と言った海戦です。
イギリスの戦艦を航空機攻撃で沈めたのは以前ネットで読んだことがあります。
私は戦艦の時代に引導を渡した真珠湾とマレー半島沖の戦いが両方とも日本の戦いだというのがとても印象的です。
これは当時の世界を白人至上主義が支配し、白人以外はゴミ同然の存在で植民地にして奴隷にして問題ないと考えられていた中で、アジアで唯一白人の支配に対抗できる力のあった日本の姿を象徴しているような気がします。
ただし対抗できる力があったため邪魔な存在として様々な圧力を掛けられ、最後は戦争になり潰されてしまいました。
昭和17年5月、ミッドウェー海戦が起こります。
世界海戦史上初の空母同士の戦いで、そこから今日まで空母対空母の戦いは日米以外にはないとのことです。
ミッドウェー海戦で日本海軍は「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の空母四隻を一挙に沈められてしまいます。
あの日のことは、六十年以上たった今もよく覚えています。まさに海軍にとって、いや日本にとって最悪の日でした。もちろん、それ以上にひどい敗北はその後何度も繰り返しました。しかしすべてはあのミッドウェーから始まったのです。
ミッドウェー海戦は指揮官の司令のまずさで負けた戦いで、南雲長官の司令が酷過ぎでした。
敵の空母艦隊が目の前にいるのに南雲長官は飛行甲板上の攻撃機の爆弾を「陸上用爆弾」から「魚雷」への換装を命じます。
これは陸上用爆弾では敵空母に損傷を与えても沈めることは出来ないから命じました。
ところがその少し前、まだ敵の空母艦隊が見つからなかった時に南雲長官は「魚雷」から「陸上用爆弾」への換装を命じています。
その換装が終わってすぐに敵の空母艦隊を見つけたため慌てて「魚雷」に戻そうとしたのですが、この時宮部が珍しく苛立ちます。
「一番の目的が空戦なら雷装のまま敵空母発見の報を待つべき」「こうしている間に敵が来るかも知れない」と言っていました。
宮部の予感は的中し、雷装が終わる前に敵の空母艦隊にもこちらの存在を発見され、先手を取られて襲撃され空母四隻を沈められる大打撃を受けます。
ポンコツな司令長官がポンコツな司令を出すと、軍は上官の命令が絶対なため従わなくてはならず、それは負けるだろうと思います。
読んでいて司令を出す人の重要さを凄く感じました。
伊藤から話を聞いた後、慶子が仕事先の新聞社の記者と一緒に食事をしないかと言ってきます。
冒頭で慶子が言っていた新聞記者のことで、高山隆司という38歳の男でその人が二人の調査に関心を持っているとのことでした。
高山は来年は戦後60年の節目の年で、新聞社として戦後を振り返る特集をいくつも企画していて、特にカミカゼアタックは是非総括しなければならないテーマだと言います。
そして神風特攻隊とイラスム原理主義の自爆テロは同じだと言います。
「戦前の日本は、狂信的な国家でした。国民の多くが軍部に洗脳され、天皇陛下のために死ぬことを何の苦しみとも思わず、むしろ喜びとさえ感じてきました」とあり、イスラム原理主義のテロリストがイスラムの教えのために喜んで自爆するのと同じだという主張です。
私はこの主張は違うと思います。
特攻を喜びと感じるようなことはなく、死ぬのは恐ろしいですが、アメリカが一般の国民へ空爆するのを前に、自身の家族などを危機に晒すアメリカ軍を少しでも食い止められるならと、どうにか気持ちを整えて特攻していったのだと思います。
高山は宮部の海軍時代を訪ねる健太郎のことを記事にしたいと言いますが健太郎は少し考えさせてくれと言います。
高山に会った週末、二人は都内の大学病院に入院している元海軍飛行兵曹長、井崎源次郎を訪ねます。
井崎は海軍の航空兵になり昭和17年の春にラバウルに行きます。
ラバウルが南太平洋の最前線の基地でした。
井崎の次の言葉は印象的でした。
空の上では、階級は何の意味も持ちません。経験と能力、それだけがものを言う世界です。
しかし海軍では海軍兵学校出身(エリート)の士官(少尉以上の階級のこと)ばかりが重んじられ、中隊以上の編隊を組む分隊長には必ず海軍兵学校出身の士官がつきます。
実際には士官より経験も豊富な下士官(兵曹)の搭乗員の方が腕も判断力もあるのに、いくら腕があっても下士官は絶対に中隊以上の分隊長にはなれないです。
分隊長のまずい判断で危機になったことは枚挙にいとまがないとあり、海軍兵学校出身の士官の重用は海軍のまずい部分だと思います。
太平洋戦争初期の零戦の力は圧倒的で、敵戦闘機には「ゼロとは空戦をしてはならない」という命令が出ていました。
連合国軍が零戦に苦戦したことについて井崎は次のように語ります。
多分に日本という国を侮っていたということもあるでしょう。航空機というものはその国の工業技術の粋を集めたものです。三流国のイエローモンキーたちに優秀な戦闘機が作れるわけがないと思っていたのでしょう。
「三流国のイエローモンキーたち」という言葉に当時の「白人至上主義」が現れていて、白人達はアジア人を黄色い猿呼ばわりして馬鹿にしていました。
この白人至上主義のもとにインド、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム、シンガポール、フィリピン、マレーシアなどのアジア諸国を植民地支配し、非道の限りを尽くしていました。
ところが黄色い猿と馬鹿にしていたはずの日本が当時のアメリカやイギリスの最新鋭戦闘機を上回る戦闘機を作ったことで苦戦することになりました。
真珠湾とマレー半島沖の戦いで戦艦の時代に引導を渡したのが日本であるのとともに、白人達にアジアの意地を見せたのもまた日本だったのだと思います。
昭和17年7月、宮部がラバウルにやってきます。
同じ小隊でニューギニア南部のポートモレスビーに出撃して敵戦闘機との戦いになった時、井崎は宮部の圧倒的な強さに驚きます。
ただし宮部の慎重過ぎる飛び方は臆病者だと隊で話題になっていました。
宮部が井崎に生き延びることの重要さを言う場面があります。
「たとえ敵機を討ち漏らしても、生き残ることができれば、また敵機を撃墜する機会はある。しかし一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」
「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」
この言葉を見て、勇猛さだけが重要なのではないと思いました。
井崎がこの後の空戦でも生き延びることができたのはこの時の宮部の言葉のおかげとありました。
ある日宮部が井崎に家族の写真を見せてくれます。
そこには妻の松乃とともに、生れたばかりでまだ会っていない娘の清子の姿もあり、宮部は
「娘に会うためには、何としても死ねない」と強く決意します。
ガダルカナル島の戦いが始まります。
ガナルカナルこそ搭乗員にとって本当の地獄の幕開けだったのです。とあり、いよいよ日本軍が苦しくなっていきます。
当時日本軍はアメリカとオーストラリアの連絡線を断つためにガダルカナル島に飛行場を作り、不沈空母として南太平洋に睨みを利かそうとしていました。
ところが未開のジャングルを切り開きようやく滑走路を作った途端、アメリカ軍の猛攻撃を受け完成したばかりの飛行場を奪われてしまいます。
アメリカ軍は滑走路が出来るまでずっと待っていて、ずる賢いですが労せず飛行場を手に入れられるこのやり方は戦いで勝つには有効なのだと思います。
昭和17年8月7日、ガダルカナル島への出撃命令が出ます。
宮部は井崎に「今度の戦いはこれまでとは全く違ったものになる。零戦が戦える距離ではない」と言います。
ガダルカナル島までは片道560浬(かいり)あり、行くのに三時間以上かかり、帰りの燃料を考えるとガダルカナル上空で戦闘できる時間は十分少々しかないです。
最初の出撃メンバーには宮部も井崎も選ばれず、出撃していった味方の帰還を待つのですが、未帰還機が多数出る大惨事になります。
次の日は二人とも出撃しますがガダルカナル島には空母三隻をはじめ無数の艦艇と戦闘機が待ち構えていて、ラバウルからの出撃だけで勝つのは絶望的な状況でした。
ガダルカナル島の戦いはわずか二日で150人も搭乗員を失ってしまい、特に一流の腕を持った人達が多数失われたのが深刻でした。
ラバウル航空隊がガダルカナル島でアメリカ軍と戦った翌月、大本営は飛行場奪還のために、ろくに敵情偵察もせずに銃剣以外に大した装備も持たない9百人余りの陸軍兵士を送り込みます。
ところがアメリカ軍海兵隊の兵士は1万3千人もいて大砲や機関銃などの重装備で待ち構えていたため、日本軍はあっという間に全滅してしまいます。
全滅の報を受けた大本営はそれならと送り込む兵隊を5千人にしますが、日本軍が送り込む兵力を増やしてくると予想したアメリカは兵士を1万8千人に増やして待ち構えていて、またしても壊滅させられてしまいます。
この兵力を小出しにする作戦について井崎の言っていた言葉が印象的です。
これは兵力の逐次投入と言ってもっとも避けなくてはいけない戦い方です。大本営のエリート参謀はこんなイロハも知らなかったのです。
アメリカが重装備をした大部隊で待ち構えているため、兵力を小出しに逐次投入したのでは投入するたびに壊滅させられ、アメリカ軍には大した打撃を与えられずに日本軍の兵士だけがどんどん減っていってしまいます。
採るべき戦術は総力を挙げた大部隊を送り込むことです。
アメリカ軍の司令を出す人はこのことを知っていて、宮部と井崎が出撃した時も空母三隻(この時使用可能だった全ての空母)をはじめ総力を挙げた大部隊で待ち構えていました。
大本営のエリート参謀はミッドウェー海戦での南雲長官と同じで、やはり司令を出す人がポンコツなのは非常にまずいです。
飛行場奪還には敵航空部隊の撃滅が必要でラバウル航空隊がその任務を負います。
この頃、アメリカは無傷の零戦を手に入れることに成功し、徹底的にテストして弱点を見つけ出します。
そして弱点を徹底的に突く戦法を編み出しラバウル航空隊は苦戦を強いられます。
さらにガダルカナル島まで片道三時間以上の距離を移動して、戦い、また三時間以上かけて戻るのが連日繰り返され、戦いは過酷を極めます。
やがて半年間の激戦の末、大本営はガダルカナル島の飛行場奪還を諦め、島に残る兵士を駆逐艦で収容し撤退します。
戦いの犠牲は陸軍、海軍ともに甚大で、海軍航空部隊の熟練搭乗員も大半が失われてしまいます。
井崎から話を聞いた帰り道、慶子が宮部のことを「おじいさん」と言っていたのが印象的でした。
最初は「おばあちゃんの最初の夫」と言っていてよそよそしかったのが、次第に宮部のことを「もう一人の祖父」と見るようになったのが感じられました。
井崎から話を聞いた3日後、健太郎と慶子は高山が言っていた「神風特攻隊は喜びを感じていた」について話します。
この時慶子が「私は違うと思う。おじいさんは特攻に行く時も決して喜びなんか感じなかったと思う。高山さんは間違っていると思う」と言っていました。
最初は高山の言葉のままに「神風特攻隊はテロリストと同じ」と言っていた慶子が、宮部のことを調べ当時を知る人の話を聞いていくうちに気持ちが変わり始めているのが分かりました。
健太郎と慶子は和歌山に住む元海軍整備兵曹長、永井清孝の家に行きます。
永井はラバウルで零戦の整備兵をしていました。
出撃した搭乗員が全員帰ってくることは滅多にありません。朝、元気で笑っとった人が夕方にはもうこの世におらんということは普通のことでした。
これは淡々と書かれていましたがその場面を想像したら辛くなりました。
出撃前、最後に見せた表情が心の中に思い出されるのではと思います。
宮部は飛行機の整備状態に敏感で、特に発動機に神経質でした。
わずかでも違和感を覚えるとすぐに整備兵のところにやって来るため、整備兵の中には露骨に宮部を嫌っている人もいました。
永井も宮部が他の搭乗員から臆病者と言われているのを知っていましたが、宮部の人間性は好きでした。
昭和17年の秋、兵舎の前で整備兵が碁を打っていると、艦隊司令部参謀の月野少佐が碁を見にきます。
月野少佐は碁を見ながら次のように言います。
「山本長官は将棋がたいそう好きらしいが、碁は知らんらしいな。もし碁を知っていたら、今度の戦争も、違った戦い方になったと思うな」
山本長官とは山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官のことで、月野少佐の言葉は山本長官の戦術を批判しているように聞こえるため整備兵達は戸惑います。
さらに月野少佐は次のように言います。
「将棋は敵の大将の首を討ち取れば終わりだ。たとえ兵力が劣っていても、どんなに負けていても、敵の総大将の首をはねれば、それで終わりというものだ」
「しかし今度の戦争は、敵の王将を取れば終わりという戦ではない」
空母(王将)以外の大規模艦隊や武器輸送船団などにも目を向けなければならないのを言っているのではと思います。
宮部が永井に自身の身の上を語ります。
父が商売が上手くいかなくなり自殺し、母は病気で亡くなりたった半年で天涯孤独の身になり、金もなく身よりもなく頼る親戚もない身の上で何をしていいのかわからず、海軍に志願したとありました。
宮部は今の一番の夢を「生きて家族の元に帰ることです」と言います。
永井はこの言葉に凄く失望します。
小説を読む私は望んで海軍に入ったのではないなら「生きて家族の元に帰りたい」と言うのもやむ無しではと思いますが、永井は実際に軍にいる者として、他の隊員の士気に影響するこの発言はさすがに慎むべきと見るのだと思います。
昭和18年の終わり、ラバウルに「グラマンF6F」と「シコルスキー」という零戦の性能を上回る非常に強力な敵戦闘機が現れます。
零戦は次第に追いつめられていきます。
永井は健太郎と慶子に話を終えた後、宮部は何よりも命を大切にする人だったのに、そんな人がなぜ特攻に志願したのかと言います。
これはとても気になる謎でした。
健太郎と慶子は岡山の老人ホームを訪ね元海軍中尉、谷川正夫の話を聞きます。
岡山に行く途中、健太郎は高山が言っていた宮部調べを記事にしたいという話は断ると言い、これは良かったと思いました。
自身の「神風特攻隊はテロリストと同じ」の主張を織り混ぜて妙な書き方をされるより断ったほうが良いです。
また慶子が高山にプロポーズされたと言います。
返事は少し待ってくれと言ったとあり、どうするのか気になりました。
谷川は宮部と中国の上海の第12航空隊で一緒でした。
谷川は宮部を「非常に勇敢な恐れを知らない戦闘機乗りだった」と言っていてこれは意外でした。
昭和16年の春、二人とも内地に呼び戻され、宮部は空母「赤城」、谷川は空母「蒼龍」の乗員になります。
ミッドウェー海戦の後、谷川は改造空母「飛鷹(ひよう)」に乗りガダルカナル奪回作戦に従事します。
しかしガダルカナルを奪回することはできず、谷川は次のように語ります。
半年にわたる戦いで、ミッドウェーの生き残りの搭乗員の大半はソロモン(ソロモン諸島)の空に散った。貴重な熟練搭乗員の八割方はそこで失われたと思う。
帝国海軍は取り返しのつかないことをやってしまったのだ。
読んでいてしんみりしました。
熟練搭乗員になるには何年もかかり、その貴重な人達の八割方が失われるのは致命的です。
苦しくなったラバウルを語っている時に名前の出た西澤廣義という人は印象的でした。
実在した人物で零戦に乗る凄腕のエースパイロットで、
アメリカ軍からも非常に高い評価を受け現在も国防総省に西澤廣義の写真が飾られているとのことです。
敵であっても尊敬されるのは凄いことです。
西澤らの奮戦でラバウルは持ちこたえますが多勢に無勢でさらに制海権も取られていて補給が上手くいかず、これ以上無理にラバウルを攻略する必要はないと見たアメリカ軍は一気に北上してサイパンに攻め込みます。
昭和19年の初め、谷川は比島(フィリピン)に配属になり、空母「瑞鶴(ずいかく)」の搭乗員になりそこで宮部と再会します。
二人はアメリカ軍の戦闘機が強靭な防弾板を貼り搭乗員の命を大事にしていることに関心します。
日本の零戦は格闘能力は非常に高いですが防弾板がなくたった一発の流れ弾で搭乗員が命を失うこともあります。
さらにアメリカ軍は空襲に来る時は必ず道中に潜水艦を配備し、帰還できずに海に不時着した搭乗員を救出しています。
これは熟練搭乗員の重要さを知っていたアメリカの司令を出す人と、知らなかった日本の司令を出す人の差だと思います。
昭和19年6月、アメリカ軍がサイパンを猛攻します。
ここは戦前から日本の統治領で、日本人町があり、多くの民間人も住んでいた。それにサイパンを取られたら、新型爆撃機B29の攻撃に本土がさらされる危険もある。だからこそ日本軍はここを絶対国防圏としていたのだ。
ついにB29の名前が登場し、どんどん追い詰められているのが分かります。
海軍の空母から攻撃隊が出撃しますが待ち構えていたアメリカ軍の大部隊の前にほとんどがやられてしまいます。
谷川と宮部は何とか難を逃れ二人とも空母「瑞鶴」に着艦します。
しかしこの時空母「大鳳(たいほう)」と「翔鶴」が魚雷攻撃で沈められていました。
海軍はこのマリアナ沖海戦で戦力の大半を失い、敵のサイパン上陸部隊を止めることはできませんでした。
アメリカ軍は次にフィリピンのレイテ島を攻撃します。
フィリピンがアメリカ軍の占領下に入れば石油などの資源の輸送経路が絶たれてしまいます。
この戦いを前に、アメリカ軍に「特別攻撃」を行うことが伝えられます。
最初に上官が「志願する者は一歩前へ出ろ!」と言った時は誰も動かず、これはやはり十死零生(必ず死ぬという意味)の特別攻撃と聞かされては死への恐怖で簡単には動けないと思います。
関行男大尉率いる「敷島隊」五機による特攻は成功し、護衛空母を三隻大破させる大戦果を挙げます。
また関行男大尉について、「戦後の民主主義の世相は、祖国のために散華した特攻隊員を戦犯扱いにして、墓を建てることさえ許さなかった」とあり、これは酷いと思いました。
大本営やミッドウェー海戦の南雲長官のまずさなどを批判するなら分かりますが、日本を守るために命を捨ててまで戦った人達に対しこれはあまりに酷すぎる仕打ちです。
レイテ沖海戦で海軍は陽動作戦が成功し、アメリカ艦隊が全滅を覚悟するほどの千載一遇の勝機を得ます。
しかし艦隊の指揮を取っていた人のまずい判断でこの勝機を逃してしまいます。
陽動作戦で海軍の艦隊にも被害が出ていて、またしてもあまり戦果を上げられずに戦力を失ってしまいます。
数日後、谷川は発動機の不調で着陸したフィリピンのニコルス基地で宮部に再会します。
その翌日、ニコルス基地でも上官が「特別攻撃に志願する者は前へ」と言います。
これは事実上の命令で、上官からこのように言われれば前に出るしかなく、谷川も前に踏み出します。
するとただ一人宮部だけがその場から動かずにいて谷川は驚きます。
上官が激怒しても宮部は頑として動きませんでした。
翌朝、宮部は谷川に決意を語ります。
「俺は絶対に特攻に志願しない。妻に生きて帰ると約束したからだ」
その後谷川は山口県の岩国で終戦を迎えます。
「宮部が特攻で死んだと知ったのは、かなり経ってからだった」とありました。
健太郎と慶子に話を終えた後、谷川も宮部はなぜ特攻したのかを気にしていました。
次に健太郎と慶子は千葉県に住む元特攻隊員で元海軍少尉、岡部昌男に話を聞きに行きます。
その道中、慶子は高山からのプロポーズを受けると言います。
岡部は宮部は素晴らしい教官だったと言います。
宮部は昭和20年の初め、筑波の練習航空隊に教官としてやってきます。
階級は少尉になっていました。
岡部は飛行課予備学生(大学出身の士官)でした。
恐ろしいことに岡部達は本人には知らされず特攻用の搭乗員として教育されていました。
宮部は言葉遣いは丁寧ですが岡部達になかなか合格点をくれない教官として有名でした。
ある時岡部が不満を言うと宮部は戦場の恐ろしさを語り、「岡部は今戦場に行けば確実に撃墜される」と言います。
しかし上官からは「とにかく今は搭乗員が足りず、一人でも多くの搭乗員が欲しいから、余程のことがなければ合格点をつけるように」と言われています。
また宮部は岡部に次のようにも言います。
「わたくしは出来ることなら、皆さんには死んで欲しくありません」
昭和20年2月の終わり、岡部達は全ての教育課程を終えます。
すると一枚の紙を渡され、そこには「特攻隊に志願するか」という質問が書かれていて、翌日に提出するように言われます。
岡部は悩んだ末に「志願します」に丸印を書きます。
この時何人かは「志願しない」にしたのですが、上官に個別に呼ばれ説得を受け「志願します」にさせられます。
昭和20年3月、沖縄特攻作戦が始まります。
4月、岡部の同期の予備士官の中から16名の名前が特攻隊員として発表され、その中に親友の高橋芳雄の名前がありました。
5月の初め、沖縄出撃のために宮部の誘導で九州の国分基地に飛び立ちます。
高橋の
「行ってくるよ」という言葉に岡部は言葉が出ません。
必ず死んでしまうため「気をつけて」とは言えないです。
凄く辛い見送りになると思います。
宮部はそのまま国分基地に残り、特攻機の直掩機(ちょくえんき、護衛のこと)として何度も出撃し、終戦間際に特攻で亡くなったとありました。
慶子が「特攻に際して、どのように自分の死を納得させたのか」と聞くと、岡部は「自分が死ぬことで家族を守れるなら、喜んで命を捧げようと思った」と言います。
さらに次のようにも言っていました。
「たとえ自分が死んでも、祖国と家族を守れるなら、その死は無意味ではない、そう信じて戦ったのです。戦後の平和な日本に育ったあなた方には理解出来ないことはわかっています。でも、私たちはそう信じて戦ったのです。そう思うことが出来なければ、どうして特攻で死ねますか。自分の死は無意味で無価値と思って死んでいけますか。死んでいった友に、お前の死は犬死にだったとは死んでも言えません」
時折テレビや新聞などで「神風特攻隊は犬死にだった。何の役にも立たなかった」といった主張をする人がいますが、私にはそうは思えないです。
神風特攻隊の命と引き換えの攻撃は、家族を殺そうとするアメリカ軍を少しでも食い止めたいという思いとともに、日本を守れる可能性を少しでも上げたいという思いもあります。
日本のために命と引き換えに戦ってくれた人達に、どうして「お前は犬死にだ」などと言うことができるのでしょうか。
批判をするなら特攻を考えた人や命じた人にするべきだと思います。
白人至上主義が世界を支配していた当時にあって、日本の戦いは列強の植民地にされていたアジア諸国を勇気づけ、白人による植民地支配の終わりへとつながりました。
これは日本が戦後植民地にされずに済んだことにもつながります。
ゆえに私は「日本のために戦って下さりありがとうございました」と感謝の気持ちを持っています。
それが今の時代を生きる日本人として、日本のために戦ってくれた先人達への、最低限の礼儀だと思います。
次に健太郎は元特攻隊員で元海軍中尉の武田貴則の話を聞きに白金のホテルに行きます。
ラウンジでお茶を飲んでいると、遅れると言っていた慶子が何と高山を連れて現れます。
高山は取材ではなくあくまで個人的なお話に同席させてもらうと言いますが、どんどん武田を不快にさせることを言います。
私は高山の狙いは怒らせて話を引き出すことだと思いました。
そして「特攻隊員はテロリストだ」と言い武田を激怒させます。
高山が「特攻隊員の遺書を読めば殉教的精神は明らか」と言った時の武田の言葉は印象的でした。
「当時の手紙類の多くは、上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。戦争や軍部に批判的な文章は許されなかった。また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許されなかったのだ。特攻隊員たちは、そんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書いたのだ。それは読む者が読めば読みとれるものだ。報国だとか忠国だとかいう言葉にだまされるな。喜んで死ぬと書いてあるからといって、本当に喜んで死んだと思っているのか。それでも新聞記者か。あんたには想像力、いや人間の心というものがあるのか」
高山の新聞社のモデルは朝日新聞と思われ、そして朝日新聞の記者なら人間の心はないと思います。
朝日新聞の記者は日本を貶めるためなら捏造記事を書くこともいとわない人達です。
神風特攻隊をイスラム原理主義のテロリストと同じにしたい高山にとって、遺書の行間を読む気など最初からないのだと思います。
高山が帰った後、武田が新聞社の姿勢について印象的なことを言います。
自分こそが正義と信じ、民衆を見下す態度は吐き気がする。
特攻に反対した人物として海軍の美濃部正少佐のことが語られていました。
昭和20年2月の連合艦隊の沖縄方面作戦会議の席上、主席参謀から告げられた「全力特攻」の方針に真っ向から反対しました。
当時、上官の命令に逆らえば死刑もあり得た中でこれは凄いと思います。
武田も岡部と同じく予備学生として筑波の練習航空隊にいました。
そして武田も「宮部は素晴らしい教官だった」と言います。
ある日、武田の親友の伊藤が急降下訓練で地面に激突して亡くなります。
すると上官が「死んだ予備士官は精神が足りなかった。そんなことで戦場で戦えるか!」と罵倒します。
この時宮部が殴られながらも抗議し伊藤の名誉を守ってくれます。
武田は感激し、自分が特攻に行くことでこの人を守れるならそれでも良いと思ったとありました。
そして九州に向かう零戦に乗り込む宮部に「どうかご無事で」と声をかけると、宮部は「わたくしは絶対に死にません」と言っていました。
次に健太郎一人で元海軍上等飛行兵曹、景浦介山の話を聞きに東京の中野の家を訪ねます。
景浦は宮部のことを「俺は奴を憎んでいた」と言います。
宮部が特攻出撃した時、景浦は直掩機として飛んでいました。
景浦は宮部の存在自体が無性に嫌いでした。
景浦は非常に勇猛だったため、宮部が生きるか死ぬかの戦いのただ中にあって家族のことを何より考えているのが気に入らず、それでいて抜群の腕を持った戦闘機乗りだというのも気に入りませんでした。
ある日景浦が宮部に突っかかると次のように諭されます。
「景浦一飛は宮本武蔵を気取っているようだが、武蔵は生涯に何度か逃げている。それに、もう一つーー武蔵は勝てない相手とは決して戦わなかった。それこそ剣の極意じゃないか」
これは勇猛に突進するだけが戦いではないということで、大事なことだと思います。
昭和20年6月の末に沖縄はアメリカ軍に完全占領されます。
その前から日本の都市部にはサイパンから連日ようにB29爆撃機が飛来し空襲されていましたが、3月に硫黄島が取られてからは零戦を遥かに上回る高性能戦闘機のP51も護衛としてやってくるようになり、この爆撃機と戦闘機を合わせた大編隊を前に日本になすすべはありませんでした。
俺たちは必死で戦ったが、毎回、邀撃(ようげき、迎え撃つこと)に飛び立った我が軍の戦闘機は無惨に墜とされた。
P51もグラマンも平気で低空に舞い降りて、地上のあらゆるものを銃撃した。建物、汽車、車、そして人間。奴らは逃げまどう民間人を平気で撃った。おそらく日本人など人間と思っていなかったのだろう。動物でもハンティングする気分で撃っていたに違いない。
景浦は終戦の少し前、鹿児島の鹿屋(かのや)基地に行けと命じられます。
鹿屋から出る特攻機の直掩が任務で、そこで宮部と一年半ぶりに再会します。
宮部は少尉になっていましたが、頬はこけ、無精髭が生え、様子が変わっていました。
次の日の朝、出撃する特攻隊の直掩隊になった景浦は特攻隊の中に宮部の姿があるのを見て驚きます。
景浦が声をかけると宮部は「景浦が援護してくれるなら、安心だ」と言ってにっこり微笑み、零戦に向かって歩いていきました。
8月の終わりに健太郎は慶子に飲みに誘われ、高山が間違いを認めて反省していると教えてもらいます。
人間の心を取り戻してくれたのなら良かったと思います。
また健太郎は来年もう一度司法試験に挑戦することを決意します。
二人は鹿屋基地で通信員をしていた元海軍一等兵曹、大西保彦(旧姓村田)の話を聞きに鹿児島に行きます。
特攻機は特攻の瞬間を自身でモールス信号で伝えさせられていました。
「敵戦闘機見ユ」の場合は「ト」を連続して打ち、いよいよ突入の際は「ツー」を長く伸ばして打つと「我、タダイマ突入ス」の意味になります。
通信員はこの音を聞きながら戦果確認をしないといけませんでした。
音が消えた時は特攻隊員の命が消えた時で、その時の胸中を次のように語っていました。
心に釘か何かを打ち込まれるみたいな感じでした。
これはゾッとしました。
毎日のように音が消えるのを聴くのはとても辛かったと思います。
大西は宮部の人間性が好きでした。
しかし特攻隊の直掩任務を続けるうちに宮部の心は苛まれていきます。
沖縄戦の後半から宮部は雰囲気がはっきり変わったとありました。
ついに宮部にも特攻の出撃命令が出ます。
この時、宮部が一人の予備士官に「飛行機を代えて下さい」と頼みます。
宮部の飛行機は零戦五二(ごうにい)型、予備士官の零戦は旧式の二一(にいいち)型で、昔ラバウルで乗っていた二一型に乗って行きたいと言っていました。
そして飛行機を交換して出撃しますが、何と最初に宮部が乗るはずだった飛行機がエンジントラブルで喜界島に不時着します。
もし宮部が飛行機を代えてくれと言わなければ助かっていたのは宮部かも知れませんでした。
最後、その人物に話を聞きに行き、宮部が何を考えていたのかが分かります。
宮部は飛行機の整備に敏感なので、乗る予定の零戦が発動機の不調で不時着になり特攻せずに済むであろうことを見抜きます。
しかし宮部はかつて筑波で教官をしていた時、飛行機を交換した人物に敵機の奇襲から命を救われたことがありました。
あれほど「家族のためにも死ぬわけにはいかない」と言っていた宮部が助かるかも知れない飛行機を他の人に譲るのはかなり辛かったのではと思います。
しかし命を助けられた人物に恩を返したのは宮部らしい最後だったと思います。
沖縄戦の後半は志願の形も取らなくなり、通常の命令として特攻が行われました。
上官の命令には従わなくてはならず、必ず死ぬと分かっている中で特攻隊員達は最後までよく戦ったと思います。
ほんの少しでも日本の戦いについて「よく戦った」といったことを言うと「軍国主義」「戦争賛美」と言い出す人がいますが、私は特攻隊員達はよく戦ったと思います。
「日本のために戦って下さりありがとうございました」と感謝するのは日本人として先人達への最低限の礼儀だと思います。
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