今回ご紹介するのは「イノセント」(著:島本理生)です。
-----内容-----
やり手経営者と、カソリックの神父。
美しい女性に惹き寄せられる、対照的な二人の男。
儚さと自堕落さ、過去も未来も引き受けられるのはー。
あふれる疾走感。
深く魂に響く、至高の長編小説。
-----感想-----
島本理生さんの作品は以前は読んでいたのですが近年は悲しい雰囲気の恋愛小説を書かれることが多く、近年の私は暗い雰囲気や悲しい雰囲気の小説は好まないため、しばらく島本さんの著書から離れていました。
この作品は4月下旬に広島駅前の福屋10階のジュンク堂書店を訪れた時に見かけました。
島本理生さんによる内容紹介があって、そこには「何度も救おうとしてできなかったものを初めて救えた小説です」とありました。
この言葉が興味を惹きました。
もしかしたら辛く悲しい内容ではないのかも知れないと思い、さらにサイン本が置いてあったため久しぶりに島本さん作品を手に取ってみることにしました。
冒頭の舞台は函館で、「2011年 冬」から物語は始まりました。
最初の1ページ目から文章に島本さんらしい独特の落ち着きがありました。
真田幸弘という男が教会に行くために雪の積もる八幡坂を上っていてふと振り返ると、栗色の長い髪の女が坂を上ってきていて二人は遭遇することになります。
女は徳永比紗也(ひさや)と言い、比紗也は23歳でお腹に子供がいて、妊婦が1月に函館一人旅をしていることに真田は驚きます。
比紗也は本当は彼と来るはずだったが向こうに仕事が入ってしまったため一人旅になったと言っていました。
真田は普段は東京で会社を経営して仕事をしていますが取引先の会社が函館にあり、挨拶に来ていました。
比紗也の「真田さんは言葉が通じる人ですね」という言葉が印象的でした。
これを見て、比紗也は言葉が通じない人と向き合ったことがあるのだと思いました。
二人とも教会に行こうとしていたので一緒に行き、その後は海鮮居酒屋で夕飯を共にしていました。
真田の会社は色々なことをやっていて、日本酒の試飲会などイベントの企画もやっているとのことです。
また比紗也の出身は仙台とありました。
二度と会うことはないと思われた二人ですが年が明けるとまた会うことになります。
年が明けた2012年の春。
如月歓は34歳でキリスト教カソリックの修道院で神父をしています。
ある日病院の回転ドアで手を挟まれそうになったところを黒髪ショートヘアの女性に助けてもらいます。
紡という赤ちゃんを抱いていて、真田と遭遇した時とは雰囲気が違いますがこの女性は比紗也かも知れないと思いました。
その後すぐに比紗也の語りがありこの女性が比紗也だと分かりました。
この小説は真田幸弘、如月歓、徳永比紗也の三人それぞれの語りがあります。
比紗也は何らかの事情で旦那と別れたらしく、シングルマザーになっていました。
現在は都内の西武新宿線沿いの美容室に勤めています。
また、紡が言葉を喋れるようになり保育園にも通っていることから、2012年春からさらにもう何年か月日が経ったことが分かりました。
ある日比紗也はお客の誘いで国産ワインと音楽イベントを掛け合わせた形の婚活イベントに参加することになるのですが、それは真田が手がけていたイベントでした。
そのイベント会場で真田とキリコという大学時代からの友達が話している時、二人は38歳とありました。
やがて真田と比紗也が再会します。
紡はもうじき3歳になるとあり、2012年春から3年経っていること、比紗也は26、7歳になったことが分かりました。
真田は比紗也に興味を持ち、もう一度会えないかと期待して「子どもの顔も見てみたい」と言いますが、比紗也はそれなら家に来てご飯でもどうかと誘い、三人でご飯を食べることになりました。
ただし真田が高い肉を買っていくことが条件でした。
真田と比紗也の会話の中で比紗也が「もし事件とか事故が起きたら、そのときに私を悪者扱いする人たちがたくさんいるかもしれないから、そうではない姿を見てもらうために真田を呼んだ」と言っていました。
こんな理由で人と親しくなる人は珍しいと思いましたし、比紗也はだいぶ変わったところのある人だと思いました。
真田は比紗也のつかみどころのなさに違和感を抱きます。
また比紗也は「もう一生男の人とは付き合わない」と言っていて何があったのか気になりました。
歓は生れつき脳の形状が変わっていて、それが原因で頭の中で自分に話しかけてくる「声」が聞こえます。
歓はある日ボランティアの美容師に髪を切ってもらいます。
この美容師が比紗也で二人は再会することになりました。
真田と比紗也が道を歩きながら話している時、シングルマザーである比紗也に対し真田が「産んですぐの頃はどうしていたのか」など、色々と聞いていました。
比紗也は「事情のある女の人たちが住める、シェルターにいたから」と言っていて、やはり比紗也にはかなりの事情があるのだと思いました。
また、真田は無神経に余計なことを聞きすぎな気がしました。
歓は「以前助けてもらったお礼がしたい」と言い比紗也と修道院の近所にある蕎麦割烹に行きます。
洒落た雰囲気のお店を選ぶ真田とは対照的なお店選びなのが印象的でした。
その帰り道、聞こえてきた頭の中の「声」に気分が悪くなりしゃがみ込んだ歓に比紗也は音楽を聴かせて落ち着かせます。
そのおかげで頭の中の声は止みました。
「如月さんの事情とは違うかもしれないけど、私もつらいときには、嫌なことを考えないように音楽をずっと聴いていた」という比紗也に歓は「僕が守りたいです」と言います。
「あなたが僕を救ってくれたように、比紗也さんを守りたいです。孤独や苦しみから」
真田と歓という対照的な二人が比紗也と関わっていくことになります。
神父は悩める者の告白を聞きます。
ある日歓の前に女が現れ「告白を聞いてほしい」と言います。
告解室に行き女性の告白を聞いた歓は絶望的な心境になります。
その女性はかつて12歳の時カソリック系の中学校で歓によって酷い目に遭わされた女性だったのです。
歓はその時の後悔から神父になったのですが、女性が目の前に現れたことによって自分がもうすぐ全てを失うことを悟ります。
真田は比紗也との距離が縮まったと思っていますが比紗也は真田に冷めていました。
「女を失望させる言葉」というのが興味深かったです。
比紗也が風邪を引いて会うのが無理になった時、真田が「ちっとも気にしてないから」と言ったのですが、この言葉の響きに女を失望させるものがあるとのことです。
たぶん比紗也的には「ゆっくり休んでね」とだけ言ってほしかったのではと思います。
また比紗也は歓の「僕があなたを守りたい」という言葉を本気には受け止めておらず、歓のほうは本気ですが比紗也には気持ちが届いていなかったです。
真田は色々なことを無神経にずけずけと聞きすぎだと思いました。
誰しも聞いてほしくないことはあるもので、比紗也は露骨に表情が硬くなるなど表に出るのですが真田はあまり気にせずに聞いていました。
見た目は洒落ていても心の機敏には鈍感な印象を受けました。
歓はカソリック系の中学校に通っていた当時、頭の中の「声」に囁かれるがままに色々な悪いことをしていました。
また後輩の一年生、窪鈴菜に恋をし、歓は次第に鈴菜のストーカーになっていきます。
そのストーカー行為がある女子にばれ、その女子こそが告白を聞いてほしいと歓の前に現れ罪を糾弾した女性です。
ユダヤ教とキリスト教の違いは興味深かったです。
旧約聖書を信仰するのがユダヤ教で新約聖書を信仰するのがキリスト教とのことです。
真田の大学時代からの友達のキリコは猪瀬桐子と言い、金融関係の仕事をしています。
そのキリコが比紗也と話した時、真田はやめておけと言っていました。
「真田君はたしかにいいところもあるけど、あなたのことを理解しきれるとは思えない。良くも悪くも女を女としてしか扱えない人だから」
これに対して比紗也は「キリコさんの価値が分からない真田さんは、たしかに女を女としてしか扱えない男だ」と胸中で思い納得していました。
キリコは少なからず真田に好意を持っているのですが真田のほうは友達としてしか見ていません。
またキリコは真田のことを真に理解してくれる貴重な存在なのですが真田にはその良さが見えていませんでした。
キリコは真田にも比紗也はやめておけと忠告します。
比紗也が持つ雰囲気に異様なものを感じていて、「真田君には背負い切れないものがある気がするのよ」と言っていました。
これは友達としてと好意を持っている人に対しての両方の感情から真田の身を案じて忠告したのだと思います。
歓の「僕があなたを守りたい」という言葉を本気には受け止めていない比紗也ですが、実は心の奥底では歓に救ってほしいと思っています。
そんなことを考えながら真田と話していた時、「こんなふうに言ってくれないか」と期待を込めて言った言葉に対し真田が見当違いな言葉を返してきたのを見て、やはり真田は心の機敏に鈍感だと思いました。
比紗也と活発に関わっているのは真田ですが最後に一緒になるのは歓のほうなのではと思いました。
この二人の差について、比紗也は胸中で次のように語っていました。
如月さんが相手なら、と比紗也は考えた。性別を超えて同じ重さを共有できたかもしれない。でも真田とはどこまでいっても男と女で、内面をさらけ出すことはいっそう傷つくかもしれない危険をはらんでいる。
やはり重い内容のことを話せるとしたら歓のほうなのだな思いました。
物語が進むと比紗也の父親が出てくるのですが、この父親が最悪でした。
間違いなく比紗也の重い悩みごとの一端はこの父親だと思いました。
比紗也のメールを見た歓が比紗也を助けに来てくれます。
比紗也の父親が現れたことによって起きた騒動に真田も巻き込まれるのですが、その姿を見たキリコが真田にかけた言葉は印象的でした。
「自分に関係ないと思えば、人間はどこまでも無責任に優しくなれるの。真田君はね、究極、負う気がない……じゃないね。負うっていうことがどういうことか本質的に分かってないんだと思う」
生半可な覚悟で比紗也と関わり結果騒動に巻き込まれたことへの苦言であり、真田の身を案じた言葉でもありました。
キリコは凄く真剣に真田のことを考えてくれていて、真田にはキリコのような友達のありがたさを実感してほしいと思いました。
騒動によって苦境に立たされた比紗也と紡の全てを歓が引き受けます。
歓は二人を女子修道院にかくまってあげました。
二ノ宮シスターの雰囲気についての、「正しさという緊張感を纏いながらも優しさがこもっていた」という表現が良いと思いました。
もうひとつ、歓と比紗也が話している時の次の言葉も印象的でした。
乾いた地面を擦るように葉が転がっていく。かさついた音が響いた。秋の音ですね、と彼女が漏らした。
この「秋の音」というのも良い表現だと思いました。
芥川賞に数回ノミネートされている作家さんなので文章に純文学の雰囲気があります。
歓と比紗也はお互いのことを打ち明けて行きます。
比紗也には内面にかなり空虚になっている部分があり、歓も戸惑っていました。
比紗也の内面の空虚さには東日本大震災が少なからず関わっていました。
キリコは真田と比紗也を「似たところがある」と評していました。
どちらも素直ではないところがあり、「素直になることは、べつに負けることじゃないのにね」という言葉は印象的でした。
真田も歓と同じく比紗也を助けに飛んでいく場面がありました。
真田も比紗也も行動が高校生のようで、たしかにそういう部分は似ていると思いました。
また真田と比紗也と紡がディズニーランドに行って帰る時、「ゲートへと向かう人々は、夢を見終えた後というよりは、夢が叶った後のように高揚している」という描写が凄く良いと思いました。
まだ比紗也の父親のことが解決していないのに物語が良い形になるのかと思ったら、やはり父親が絡んできました。
まさかの展開があり余談を許さない状況になります。
最悪な父親と話している時の歓の胸中での言葉は印象的でした。
人の心は弱く、うつろいやすい。真田だって、比紗也だって、自分だって。完璧な平穏も完璧な人間もこの世にはない。悪魔が用意した誘惑に引っかかり続けるのだ。いつまでも人間に期待してくれる神を裏切って。それでも許してくれる神に甘えてすがりながら。
たしかに人の心は弱くうつろいやすいです。
比紗也にもどうしてそこでそっちに行ってしまうんだと思う場面がありました。
それでもその弱さと向き合いながら最後にはまた前を向いてくれていたのは良かったです。
何より島本理生さんの作品で最後が明るく終わってくれたのが良かったと思います。
「何度も救おうとしてできなかったものを初めて救えた小説です」とあったように救いのある明るい終わり方でした。
久しぶりに島本理生さんの作品を読んでみてやはり良い文章を書く人だと思いました。
ほかの暗くない作品を機会があれば読んでみたいと思います。
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