人が生きている時は、立派な衣服を身に着けても満足せず、どんなご馳走を食べても満足せず、立派な大邸宅に住んでも満足せず。
それが、死に至った時に始めて世間の富貴がすこしも自分と関係なく、世俗の功名がすこしも自分とかかわりがないということがわかるのである。
ああ、人生、この世において生を受け、寿命の長短は同じではなく、生まれて数ヵ月にして死ぬものあり、或は数年にして死ぬものあり、或は数十年にして死ぬものあり。
昔から七十年は古来、稀であるといわれている。最高の長寿を得ても百年にすぎない。
人間よりこれを見れば、時間的に長短の区分あり、長命と短命のちがいがあるが、神よりこれを見れば、数ヵ月も、数年も、数十年も、数百年も、同一で一瞬の間である。
世の中の生を受けているものにして、死の時を迎えないものはないのであり、始めのあるものは、終わりに尽き果てる日を迎えないものはないのである。
そこで、どうして寿命の長短を問題にして、物のためにふりまわされ、精神を肉体の奴隷として酷使する必要があろうか。
この世の中のすべて一切の形あるものは、終わりを尽き果ててしまうので、永遠に存在することはできないのである。
天地日月鬼神は、宇宙の中で最も悠久にしてきわまることがないものである。
それでも、十数万年の後には混沌に帰することを免れないのである。
人間は天の高く明らかなことには及ばず、大地の博く厚いことにも及ばず、鬼神(陰陽のはたらき)の盛んなる徳に及ばないのである。
それが天地日月鬼神と同じく、その悠久を望んでみても、道でなければ、どうしてこれを致すことができるであろうか。
故に昔の儒者は、道を以て志と為し、仏教では、道を以て帰するところとなしている。
その道を以て志となす者は、その用は己を修めて民を安んずることができ、その道を以て帰するところとなす者は、その用を施して己を利し他人を利することができる。
今の儒者はそうではないし、仏教も又、以前には及ばないのである。
その他においては、更にその本を知ることはできないのである。
儒を学ぶ者は、その道を謀りて食を謀らず、道を憂いて貧を憂えず、の戒めにそむき、更に十六字の薪伝(人心惟れ危く、道心惟れ微かなり、惟れ精、惟れ一、允とにその中を孰れ。)を全く顧えりみず、文字の枝葉末節のみを追究して、功名を取得する上での手段となしている。
仏教を学ぶ者も、その色(有形のもの)は本来、空であり、仏法は心の中にあるという主旨を忘れて、更に仏の真諦を昧(くら)まし、祈祷の末節にあくせくして、ただ、天国に上ることを望んでいる。
その他の道教、キリスト教、回教においても、例外ではありえないのである。
これが、道の今日において存立することができず、災害が降るゆえんであり、刧の生じるてくるゆえんであり、世界が乱れて回復することができないゆえんである。
故に災刧を弭化して以て今の世を救うには、道の渡化を以てしなければ、その功を為すことはできないのである。
吾が道の、いまにありて教派を別たず、中外を分けず、普(あまね)くその化を渡(すく)わんとするゆえんは、もし、このようにして、世を渡化するのでなければ、各教の争いは止むことがなく、それで又どうして人と我とのさかいをなくすことを望むことができるであろうか。
故に先ず五を合して六に統べ(五教を合して大道に統べる)、道の未を知っている者にはその本を得るようにし、道の統(すべて)を明らかにしている者には、その源を尋ねるようにさせるのである。
これが各教を化して共に融合させるもので、実に災刧をつくる本とするところに関しているのである。
先ず、その本を化せば、その末は自から化される。
世間の人は、これを悟って人と我の垣根をとりのぞき、形色の空を空とし、しかる後に、道の妙にあるものは、その妙境を致すことができるのである。
道の玄にあるものは、玄の途(みち)に合するのである。
修める者は、これを明らかにすれば、進むことができる。
これに不明であって、いぜん、世の色相にとらわれて着する者は、終(つい)には道の真の主旨を得ることは出来ないのである。
このように道修の功候において、その定を求めようとする者は、一切を空と見なすのでなければ、功を為すことはできないのである。
諸子は、この形色の形色たるゆえん、妙空の妙空たるゆえんを悟りて後に、その真実のところの、空にして空ならざるものを修養して、自ら得るところがあるのである。