天地の間において、最大の能力を持っているものの中で、赤子にまさるものはないのである。
その赤子というのは、猛虎といえどもこれを損なうことはできず、飢えた鷹といえどもこれに害を加えることはできないのである。
これは、一体どうしてであろうか。
思うに赤子は無心にして、天性そのままの姿である。
何の思慮分別もなく、私利私欲を貪ることもなく、また、死を畏れず、名誉や地位など欲することもなく、それは、天真爛漫な先天の太和の気によるものである。
すべて、修道する人が能(よ)く、この点から研(きわ)めて、悟れば、 無心の妙用を知ることができるのである。
人が成道(道を成就し悟りを開くこと)できない由縁のものは、それは、無心ではなく、それは、有心だからである。
そこで有心であれば、我、私があり、我私があれば、相対の時限におちて、自分の垣根をつくり、そこで他人と、自分との垣根がある以上、ただ、利益を図るだけで、人に損を与えても顧みることなく、どうしても利己的とならざるを得ず、私慾が生じてくればあれこれ悪巧みして、いろいろな策略を弄し、天性の良心をとことんまで、くらますことになる。
そこで欲を貪って徳を積むことがない以上、また、どうして、道をひろめ、大道を成就させることができるであろうか、できないのである。
そこで真に道を修める者は、最初に人と我との相対的な時限の垣根を取り去って、複雑な人間関係から超越して、自らの身をおさめて世に適応し、現実の差別にとらわれず、これを平等にみて、貴い人と賎しい人を分け隔てることなく、物事に対応した時には、無我無私(我がなく私心がないこと)の態度で応じ、物事に対応しても公平無私にして、ありのままの姿で蔵(かく)すことなく、過ぎ去ったことは、心に留めず、来ない先のことを、あれこれと心配しない。
すべてのことに対し、みな無心を以てこれに対処するのである。
無心とは無私であり、無私であれば内心は清浄であり、内心が清浄であれば、心は純白無垢で汚れなく、渾然たる天理(道心)そのものが働くのであり、これを玄徳というのである。
玄徳とは形がなく跡がなく見ることができず、また聞くこともできず、この玄妙なる境地に到達してこそ、はじめて、日月の輝きとその明を等しくし、春夏秋冬の四季とその運行を同じくし、鬼神とその吉凶を同じくすることが出来、造化(大自然の働き)もこれを損なうことは出来ないところの偉大な働きをするのである。
これはその赤子のような無心の力によって、はじめて、達成することが出来るのである(大人物は赤子の心をうしなわずとある)。
もし、一度無心となれば、万物ですらこれを傷(そこ)なうことは出来ないのである。
ましてや、道徳を我が身に体得した人物は、そこには本体の主宰があり、またその働きがあり、体と用を兼ね備えたところの無心の境地というのは、一切の邪魔や祟りは、これに近づくことは出来ないのである。
今日の時節において道をこの世に伝えるのに、試みに問うてみるが、無心の二字について、かつて、これを指摘したことがあろうか。
現実にはすべてが有心で物事をなすように、慣らされているので、無心で事をなすということはめったにないのである。
もし人間関係において一言でも意見が合わなければ、怒って紛争するようでは、どうして、道の器ということが出来ようか。
思うに諸子等が道慈の功用に気をつける者は、必ずこれを悟るのである。
この済(すく)いの舟である慈航に乗ることが出来なければ、後には恐らく、済いの舟はもう来ないであろう。
修道する人たちは、これを銘記して努めるべきである。