そもそも、聖神仙仏が人を救い、人を悟りの彼岸に導くのに、私心があるのだろうか。
それは私心が無いのであり。
聖神仙仏が人を救い、人を悟らせるのに、自分の為にすることがあろうか、それは無いのである。
では、皆が香や供物、玉串を聖神仙仏を礼拝するのは何の為であろうか。
それは聖神仙仏と言われているから、礼拝するのではなくて、聖神仙仏は無私無為出来るあったので、これを尊敬して礼拝するのである。
そもそも、これによって分かる様に、聖神仙仏が聖神仙仏となったのは、この無私無為の二句に尽きるのである。
無私無為は先天の至善の本性に基づくものである。
この至善の本性は、いつも知らず知らずのうちに自然に現れて来る。
たとえとして、一つの例を挙げよう。
子供が今まさに井戸に落ちようとする時、これを見たならば、賢いた愚かにかかわらず、また親に恩義があろうと、無かろうと、必ず急いでこれを救うのである。
その何も考えず自分、直ちにおもむいてそれを救うのが、先天至善の本性なのである。
この先天至善の本性に目覚めれば、惻隠の心(慈悲心)は考えたり、努力したりしなくても、思わずして湧き起こってくるのである。
もしも目覚めた萌(きざ)しを育て、成長させるならば、人はことさらに修行しようとしなくても、自ずから聖神仙仏となることが出来るのである。
道は仁と義であり、慈もまた仁と義であり、この仁と義とは、人として当然すべきことである。
人として当然言うべき事を言い、なすべき事を為して、個人的に計らいや私心を差し挟まない事が大切である。
それは無私無為して、はじめて、純粋な天理が働いて来るのである。
もし物事を為しても、そこに私心があり、自分の為にする事が隠されているならば、それは人欲を行う事となる。
為しても為したと、言う意識が無いのと、為して自分が為したと言う意識が残るのと、私心が有って為すのと、私心が無くて為すのと、その差については自ずから明らかである。
最高の境地に至るには、空の一字を頼りとするのである。
空の意味するところは無私無為に由来するのである。
空のなる者は最高の境地に到り、空で無い者はどうしても最高の境地に到る事は出来ない。
大道は空の中にあり、各人は最高の境地に到ろうとするならば、無私無為によってその基礎を確立する事が出来るのであるから、よくその趣旨を味わうのである。