仏教の三昧宝王論の中に十項目がある。
それは修行の上で覚り導きになるので、皆と共に討論してみよう。
1 「身体に無病を求めない。」
身体に病がなければ、貪欲が生じ易い。
此の一句については、いろいろな解釈がある。
自分(黙真人)が思うに身を修める事を考えた場合、欠点が無いことを求めないで、欠点のあることを求めるべきである。
有形の身体の欠点や無形の心が、外の物に幻惑される欠点には、その原因を求めて、自ら悟り、自覚してこれを改めることである。
自ら、自分に欠点がないと思ってはならない。
欠点のあるところを知らなければ、過ちのあるところを明らかにすることは出来ない。
これを知らずに改めなければ、どうして能(よ)く、善に返り日に日に、新たになることができようか。
その病苦を以て、良薬となすのも、同じような修行の法門である。
2 「世に処するのに、苦難の無い事を求めない。」
世の中に苦難が無ければ、必ず気持ちが驕り高ぶり、ぜいたくになる。
試みに富貴の家柄を見てみるのに、子孫の人たちは、多くが艱難辛苦を知らない。
思うにいまだ、艱難を経験したことが無ければ、世の中に艱難が存在することを知らない。
一旦社会に出た場合、わずかな違いで大きな過ちを犯し易い。
修行の上から言えば、艱難を経験しなければ、正しい成果を得ることは出来ないのである。
3 「心を究めるのに、障碍(しょうがい)の無いことを求めない。」
心に障碍が無ければ、修行の段階を踏まなくなる。
心に障碍の無い者は終(つい)には自分を完全無欠だと思い込んでいるが、実はそうではないのである。
それは、いまだに試練を体験していないからである。
そこで心の中には必ず障碍を持ち、その障碍を克服するように時時刻刻、練磨させるのである。
それは、自分の心中が艱難に遭遇して、果たして不動であるか、否か、また能(よ)くあらゆる誘惑に負けず、心の純潔を保持することができるか否かを見るのである。
4 「善い行いをして、魔の無いことを求めない。」
行うには魔が無ければ、誓願を堅持することが出来ない。
魔の難を受けなければ、円霊氣胞を成就させる事は出来ない。
済仏さまは、羅漢(悲しみの輪廻から脱却し、悟りを開いた存在。人に生まれ変わる必要が無い。)の身を以て、世に降り、人を渡(すく)い世の中を感化したのである。
それでもなお、八度の魔の難儀を体験したのである。
その他聖人、神人、仙人、仏などや、各教の教主が受けたところの魔の難は甚だ大きいので、霊的な成就も実に偉大なのである。
しかし、一般の人は魔に邪魔されると、即ち、退いて挫折し、最初の誓願を忘れて、おろそかにし、魔の為に邪魔されて、魔による試練に堪えられないのである。
5 「事を企画するのに、成功し易い事を求めない。」
事が成功し易ければ、その志は軽視されて慢心となる。
そうすると、天下の事すべての事が、このように成功し易いと、思い込むようになる。
したがって大災難に偶(あ)うことによって、これを克服しこれを成功させる事が如何に至難の業(わざ)であるかを体験して、その慢心を改める事が出来るのである。
かりに修行の上から言えば、若し偶然に進歩があったとすれば、それは大いなる功徳を成就させるのも容易であると信じ込むようになる。
また、それは逆に聡明の二字に惑わされて失敗するのである。
6 「友人との交際は、自分の利益のある事を求めない。」
その交際が自分に利益があれば、道義を失い損なうのである。
現代の人が交際を求めるのは、皆、自分に利益があるか、否かがその価値観の根本である。
そこで、道義とは如何なるものであるかを知らない。
皆、利益のある所を利用して、付き合っている。
そこには、更に真理も誠も道理も、存在しないのである。
ひとたび、利用価値が無いと見るやこれを相手にせず。また、それこそ、仇敵となって憎み合うのである。
勿論、父子、夫妻、兄弟、姉妹なども、皆敵となる可能性もある。
それは何とも悲しいことではなかろうか。
7 「人生に於いて順調快適であることを求めない。」
人が順調で快適ならば、心は必ず矜(おご)る。
現代の人は皆、毎日順調快適な生活を求める。
順調を求める者は、財貨や利益、地位や名誉を求める。
財貨、利益、地位、名誉が自分の心の思うように手に入り、順調であれば、これを享受しようと思い込み、逆にそれらが、手に入らない人は、寝ても醒めても、これを追い求めるのである。
なお、いまだに、少しでも、不足がある場合は、時時刻刻貪り求め、その他のことは返り見る余裕はないのである。
また、貪り求めることにとらわれ執着して、他のことを返りみないのである。
仏法を以てこれを観れば、已に底なしの無限の地獄に堕ち入ってるのであり、それは真の聡明なる智慧が無ければ、救われ難いのである。
8 「徳を施して、報いを求めない。」
たとえ、施してもその報いを求めれば、心に期待し図るところがある。
たとえ、善事を作(な)すにしても、その名声が広く世に伝わった後に、これを作す者は名声を期待する為に善事を作すのであり、その善事は名声を得る為の手段となるのである。
9 「利を見て、分け前を求めない。」
利益、分け前を求めるようになると、即ち多い少ないで不平不満が起こりを心中の智慧が眩まされて、正しい判断が出来なくなり、そこで、人心が起こり、道心が滅びてしまうのである。
したがって聖人は病や苦しみを以て良薬となすのである。
艱難以て逍遙(楽しんで悠々自適)と為し、またあらゆる障碍や艱難を以て解脱と、為すのである。(人はあらゆる障害や困難に出くわした時、これを克服しようとする。それには、これらの障害や困難にとらわれず、自由自在の心を持つ事であり、それによって、苦しみから解き放たれ、脱却することができるのである。)
多くの魔の難を以て法の伴侶と為し、困難に遭遇することによって、我が道や徳を成就させることが出きると見なすのである。
貧乏や地位の無い人との交際を以て、利害打算の功利的な考えを捨てて、道や徳の上に於いての資(たす)けとするのである。
道を踏み外した人を以て反面教師として、自分を反省し、自我にとらわれた徳を施すことを以て、つまらぬここと為し、「利に疎い事を以て富貴となす。」
抑えつけられる事を以て修行の出口とするのである。
10 「抑えつけられても、弁明を求めない。」
抑えつけられでも、弁明すると、そこで怨みや恨(にく)しみが、生じてくる。
世の中の人は、皆抑えつけられる事を以て虐げられていると思うのである。
そこで必ず弁明して、その苦衷を、明らかにするが、しかし、君を抑えつけている相手はいろんなことを考えて、自分のほしいままにせんことを期待している。
また、時には、陰謀を以て君を抑えつけていることを君は知っているのか。
もし、たとえ、弁明しても君を抑えつけている者は、絶対に是非善悪の道理が分からない者なのである。
それはまさに、君を抑えつけて、自らの私憤をはらそうとしている。
そのことが、うまく行かないと逆の結果になる。
そうすると、怨恨の心が生じてくる。
そこで自分の過ちに気がつかない者は、全ての責任を他人になすりつけるのである。
仏法では、悪因を免じ、悪い結果を化するものである。
そこで抑えられても弁明を求めないことである。
このように障碍に、直面することによって、反って障碍になる。
したがって如来様は障碍の中にこそ、正しい悟りの道を体得されたのである。
仏敵であった、提婆達多などのような大逆無道の徒輩(ともがら)でも、初めは法に反逆を為したが、お釈迦様は悉く、特別に許して成仏させてのである。
外からの逆境を逆境と見なすことなく、これによって自分が鍛練されて、人格を磨く事が出きると思えば、それはかえって、これをプラスとして受け止める事が出来るのである。
自分の受けたところの災難や不幸や被害も、これら全て人格を磨き上げる上で、大変なプラスになることを知らなければならない。
現代の世間一般の修道の人は、若し先に障碍に、遇うことが無ければ、障碍を処理することが出来ず、道の成果を失ってしまうのである。
それでは、何と惜しいことでなかろうか。
この一節の経文を慎んで研究してみれば、その意味は甚だ深遠であり、また、その、真理も妙にして奥深いのである。
以上述べたところのものは、多くが世間一般の人の考え方と相反している。
若し能く、これを実際に努力し、体悟実行すれば、日新月歩の勢いで修道は成就するのであり、それは刮目して待つべきである。
儒教の十六字の薪伝の中に、「人心危うく、道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、充にその中を執れ。」とある。
ここで言う人心とは、即ち利欲に惑わされた心であり、それは非常に危険な道を辿ることになる。
我々が常に言う所の「金や、利欲に目が眩んで失敗した」とは、この事を言うのである。
また、孟子は、「どうして、利のみを追及する必要があろうか、ただ、仁義のみを求めるのみである」と言って、その利を追及する者は必ず危うくなるのである。
以上述べたように利のみに走ると必ず、危険に瀕し、失敗するのである。
したがって、利から遠ざかり、利に疎い事を以て、いわゆる安全で一身を保つ事が出来る良薬となすのである。
それをここでは、富貴と見なすのである。