そもそも人とは天地の精を得て、五行(万物を生ずる五元素。水火木金土)の枠を備えて生まれたのである。
天地は万物の父母であり、人は万物の霊長にして、人の元気はすべて心に在る。
そこでそれをよく保つ者は静であり、より用いる者は霊敏である。
これを保つことのできない者は散じ、これを用いることのできないものは沈滞してしまう。
それで、生かすも殺すもすべて心に在り、故に心は一切の主宰である。
上智(生まれながら優れている賢明な人)〔注 論語に子曰く、惟れ上知と下愚は移らず、と。その意味は、生まれながらにして、道を知っている智者と困窮しても、修道しようという心の起きない下愚の者とは、ともにいつまでも移り変わりようがない。普通の人は皆、習い[習性や習慣]によって賢ともなり、愚ともなるのである。〕の人の心は明鏡の如く、下愚(至って愚かな者)の人は頑石(つまらない石)の如くである。
上智と下愚はいつまでも変わらないが、しかし、一般の人心は賢明ともなり、愚昧ともなり、動ともなれば、静ともなり、それを磨けば明らかとなり、これを覆えば暗くなる。
これを運用すれば動となり、これを保持すれば静となるのである。
もし金木〔注 陽中の陰と陰中の陽の二奥が相合し相調和して先天に帰る。〕調和し、方寸(心)を洗い清めもってその氣を養えば、上は天の道に感応し下は民の苦しみを和らげ、即ち世界争奪の念や庶民の大災害の苦しみは、心を正すことによって無形のうちにこれを取り除くことができるのである。
心を革(あらた)めること出来るし、また、革めようとしないことも出来る。
この故に修道とは心を革めることが最高であって、言行を革めることはこれに次ぐのである。
その言行を反省してこれを顧みるのは言行を革めることにある。
そこでその一言一行はすべて心に根ざしているので、心が革まらない限り言行は革めることは出来ないのである。
ああ、今の人ではその心を革める人は極少ないのである。
道を修めることを大義名文としていながら、その実名や名誉にとらわれ利欲を貪り、世間の評価を顧みず、正論を恐れずして、ただ、己自信の欲望をほしいままにし、自分の私利私欲をはかることしか知らないのである。
このような人は殆ど禽獣と異ならないのである。
しかし、私の見るところでは、人心が、日に日に腐敗し、暗黒に赴いている状態を嘆いているだけである。
苗に莠(苗に似て実らないはぐさ)があり、粟に秕(粟に似て実らないもの)があれば、人はこれを除去しようと思わないものはない、それは苗や粟の中に混合して見分けがつかないのを恐れるからである。
今、天下の人民の中でその苗がなくて、莠だけというのは少なくないのであり、また、その粟がなくて、秕だけというのも少なくないのである。
これを人間に例えてみれば、中味のない軽薄な人間が、少なくないのである。そこでこれを除去しようとしてもことごとく除去することはできないので、何を以てこれを治めようとするのであろうか。
それには、どうしても苗や粟を植える方法を変えなければならない。
その方法はどうするかというと、種子の中に仁(さね)を植えれば、即ちこれらの病にかかることはない。
仁はどうして植えるかといえば、それは、火(天の陽気)を、持ってこれを植え、水(陰氣)を以てこれを養う。
水は火を生じ、火は仁を生じ、仁は芽を生じ、芽は苗を生じ、苗は稲となり秋になると実となる。
また、この種子が発育するところの法則は永遠に変わらないのである。
そこで人心の田地もこれと同じである。
これに善の種子を植えれば、即ち善の果実が得られ、悪の種子を、植えれば即ち悪の果実を得ることになる。
そこで人は、どうして、善の種子を植えないのであろうか。