道魔相争うの日、光明闡(あきら)かにして詞を正し、天命の性を修復して、大公真基を固める。
修道している者は、みな魔があることを知っているが、修道していない人は魔が一体何者であるが知らない。
ある者は悪魔妖怪の類(たぐい)であると思っているのである。
しからば何故に修道しているものにして初めて魔があることを知るのであろうか。
例えば一個人の単位について言えば、修道に進歩があって、はじめて天理と人欲を知るので、天理とは善い事をすることで有ると思い、人欲とはこれも行き過ぎれば余り良くないと思っているが、その実、これらは、初歩的な認識である。
一筋に前進して相当の功行があるようになって、はじめて多くの天理と人欲の道理が解るようになる。
道の高さが一尺高くなると、魔の高さが一丈になるという時期に到達したということは、功候もまた、以前よりずっと進歩したということである。
また、ある人は、これによって修道の功行に進歩があると、魔がやって来てひどくかき乱すので、それはありきたりな平凡なことでは、無いと言う事が初めて解るのである。
ある時に、本当に人生の苦難は耐え忍び難いと感じるが、しかし、一時でも能(よ)く定静であれば、この難関を通り過ぎると少しでも気持ちが楽になるようであるが、しかし、以前より更に酷いところの思いがけない困難に見舞われることになる。
そこで思わず、また苦難の中に入り込み、時にはいかなる道理によってこうなるのか理解に苦しむのである。
そこで、あるいはこれを、修道の関係によるものであろうか。
あるいは、運命づけられた因果応報の報いによるものであろうか、色々迷うのである。
それが迷いから醒めてみると、別に運命づけられた当然の報いでは無く、それは修道過程中における功行に必ず伴って来るところのテストである。
テストを受ける、この人の道功は既に並大抵のものではないのである。
それはこの時にこそ、道魔が相争って、吾が身心の上において、一切の苦痛を作り上げるからで、これは全く修功のテストでなのである。
そこで一度、鬆々拏々(先天坐に於ける自然の氣の流れ働き)すれば、その濁りは一部除きとられ、その濁りが一部でも除きとられると、心性は光明なる正義をそれだけ回復することになるのである。
もし能(よ)く堅 誠 恒 で専心に一途に心を修めていき、坐り続ければ、日に日に漸次功が進まない道理は無いのである。
それが途中においてその他の疑惑の念が生じ、ほかの道を学び、他の瞑想の方法を研究する方が良いと思うようになる。
どちらが善いか、心配するのであれば、それらを能(よ)く相輔(あいたすけ)あって共に進めれば、更によいのではなかろうか。
一旦その瞑想方法を試してみると、それが一つに目新しく、珍しく感じ、一つには、人為的、意識的に気を用いて導引(道家の養生法、呼吸法)の効果があるので、その為に喜んで練習をし、効果のある点では、先天の坐法に比較してみても、ずっと良いと思っているのである。
しかし、先天の坐法の一切はみな自然であり、自然とは長い間の習練の効果によるものであり、多くの人々がなおざりにしているところである。
王道(公明正大、無私無偏の治道)は功を急ぐことは無いのである。
人為的に気を用いる能力を使えば、初めのうちは効果があるように感じられるが、これは、氣や力がそうさせているのである。
工夫が浅い者は気力を能く使用して効果を感じるが、もし工夫が少し深くなれば、気は力の為に使われる。
そこで必ず経験のある工夫の深厚なる者が気運の人身における自然運化の軌道の状態を指摘してやらなければならない。
もし、少しでも異状を感じたならば、即ち坐功の時に一種の方法を用いて、これを平衡にしたのである。
以前、同善社(生前、黙真人が属していた道教関係の修坐の会)で修坐(道教の座禅)していた同人は修坐の等級に分けて、坐功の時に於いては、経験のある師匠が側で付き添って坐っており、少しでも適当でなければ、ただちに改めてやり、或は手術(手当て)を以て治療(施術)をし、又どうしてそうなったかと言うことを明白に告げてもらい、今後くれぐれも注意するように等等、指摘してくれる。
私(黙真人)も少しばかり、その経験がある。
かつて、道院に来たとき、初めて先天の坐法と云う名を聞いて、心中に多少奇異の感があった。
試みに先天坐を坐してみたが、先入感にとらわれて、心身や手足がどうすれば良いか解らず、まるで漫然として依りどころが無いような感じであった。
劉福縁道長(道院の発足人)は訓文で示している処の坐法の要点を再三、指摘してくれてので、心中、少し落ち着き定まって来た。
それから1ヶ月の後に、はじめて、だんだんと興味を覚えてきた。
極力、自然の二字の教えを拝聴するに及んで、一体いかにしたら、能く自然に出来るであろうかと問うと、福縁道長が笑って言うには、君の以前の全て、一切の不自然なところを改めれば、それだけ自然となるのではないかと。
この一言の指摘を私は永遠に忘れない。
全て一切の言語 行動 動作 行為はみな、この一言の指摘を法則とした。
しかし、いざ、これを実行してみると、思い通りにはならなかった。
先天坐を長く続けていると、そのうちに、ある時の坐功の際、心中に突然、光明を感じた。
初めはある人が、灯火(あかり)を持って入って来たと思ったが、坐を終ってこれを同人に聞いたところ、みんな誰も坐室に入らなかったと言った。
それから二日目に、至聖先天老祖によるフーチの訓示によってお褒めにあづかった。
それは、驚ろかないことはなく、実に得難いことである。
将来の成就は、図り知ることが出来ない、それは夙根が深厚なものでなければ、出来ないことであると。
それより、以後、経に参じ、訓を研(きわ)めるのに、皆能くその要旨を明らかにすることが出来、少しもそれを外に漏らさなかった。
最も不思議なことは、正氣が体内に充実している感じがあり、不正の人や事を発見した時には、必ず、ありとあらゆる方法で悔い改めて正しい道に戻すように努め、時には小人翼々として慎み、先進の道長や、修人に対し、少しでも迷惑をかけることを恐れた。
然して時には、あたかも一種の偉大なる力が自分をして、どうしてもそうさせるのである。
その後、尚真人、フーチの訓で「天の命これを性と謂い、性に率(したが)う、これを道と謂うと、この率(したが)うの字は君であるのか、天であるのか、君はこれに対し返答することが出来るか」と。
当時、私(黙真人)は一字も返答することが出来なかった。
すると尚真人は、「哈哈、君はこの偉大なる力を忘れたのか、恐れることは無い、これがすなわち天命である。」と言われた。
私はただちに厚くお礼を申し上げた。
今、諸同修のためにこれを述べる。興味があれば研究してみよう。
心外の魔に至っては、只心中に正義、正気、定力を存してさえすれば、自然と消滅してしまうのである。
謂う所の天の為せる災い、即ち天災は、避けがたいと言っても心掛け次第でそれを避けることも出来ようが、しかし、自分から作り出した災いはどうにもそれを免れて生きることは出来ない。(原文は、天の作せる孽[わざわい]は猶違[さ]るべし、自ら作せる孽は活[い]くべからず)
世間においてこのような例は非常に多く、細心に省悟すれば、自ら知り自ら明らかになるのである。
その要点は心の魔にあって、それが消化することが最も難しい。
たまたま不正の一念を起こせば、魔は即ちその不正の念に乗じてきて活発となる。そこでもし、陥溺することが深く、魄惑(人欲)によって事に当たっていることを見分けることが出来なければ、君の氣霊は知らず識らずの間に吸いとられ、それは恐るべきことである。
世に処するには、公平を主とし、事に当たっては、平正を先と為す。
則ち大道は公であり、至誠は不息(息[や]むことが無い)である。
そうすれば自然に吾の真基を充固する。
真基とは道基である。
人々が能(よ)く真基を固めれば、則ち世界における道慈の真基は、みな能く有形無形の間に固まる。
道と魔が相争っている日において、全ての修人の心胸が光明にして正義を宣闡し、正気を培養することに在るのである。
各位はそう思わないであろうか。