そもそも、心には天理(道心)と人欲(人心)かあって、そこで、人には善と悪とに分かれてくるのである。
人には善悪があるので、社会も善良と粗悪に別れてくる。
そこで、社会に善良と粗悪があるので、国家が盛んとなったり、また、衰えたりするので、そこで世界が平和に治まったり、また混乱して乱れたりするのである。
天理(道心)とは、善の根であり、善良の本であり、盛んとなるところの基(もとい)であり、平和に治まるところの礎である。
人欲(人心)とは、悪の禍(わざわい)の根であり、粗悪の芽であり、衰退するところの隠れた原因であり、混乱の源でもある。
おもうに、天理が存じなければ、則ち人欲が横行し、人欲が横行すれば、社会は必ず軽薄となり、国家は必ず衰微し、天下は必ず騒乱となるのである。
そこで、王陽明が言うには、「静の時には人欲は去りて天理を存することに、専念し、動の時にも人欲を去りて天理に存することに専念する」とある。
この天理を存することができなくなれば、人欲がほしいままに、暴れまわり、この人欲をほしいままにすれば、天下国家は乱れてくるのである。
今日のように、普遍的に混乱した悲惨な状況は、汚職や争いや戦争によってその悪気が天空に充満している。
その今日のような状態になった原因は、天理が人欲によって断絶されたので、汚職や殺戮が天下に横行するようになったのである。
この故に吾が道では、最初に「渡化」の二字を以て、その功となし、次に「救済」の二字を以てその行をなすのである。
渡化の渡とは、自分自身を渡(すく)い、化とは自分自身の性を化すのである。(本性に帰ること)
救済の救とは人を悪から救い、済とは、世の乱れから済(すく)うことである。
しかし、世の中の乱れを済(すく)おうとすれば、必ず、人を悪から救うのである。
人を悪から救おうとすれば、必ず先ず、自分自身の心を渡うのであり、自分自身の心を渡うには、人欲を去って天理に存するのである。
これがいわゆる大学(儒学の四書の一つ)で言うところの「天下を平らかにせんと欲する者は、必ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、必ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、必ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、必ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は、必ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は必ず先ずその知を致す。知を致すは物を格(いた)すに在り」とある。
そこで物を致すとは、人欲の私心(人心)を取り去ることであり、知を致すとは、天理(道心)を存することである。
儒教で言う、「己に打ち克つ」とは、人欲に打ち克つことに外ならない。
道教で言う、「賊を防ぐ」とは、この人欲を防ぐことに外ならない。
仏教で言う、「障りを去る」とは、この人欲を取り去ることに外ならない。
キリスト教で言う、「濁を洗う」とは、この人欲を洗い清めることに外ならない。
回教の言う「清真」とは、この人欲を清めることに外ならないのある。
以上の人欲に克つ、人欲を防ぐ、人欲を取り去る、人欲を洗い流す、人欲を清める等は、その名称はそれぞれ異なっているが、その人欲を去って天理を存するという意味では、全く同一である。