玄徳道

道を語るブログです。

呂洞賓 孚聖訓、逆境の試練道。

2021-08-08 05:41:00 | 道院
天地は一大洪炉(大きな仲間)であって、凡人を鍛えて聖人に練り上げる。

宇宙は一大化機(化する機能〔はたらに〕)であって、濁を降して清を昇らせる。

この故に人材は、その時勢に因(よ)って陶鋳(養成)され、功行は救渡に因って成就する。

その間のキーポイントは、要は逆(さからう 逆境)によって入り、逆によって修め、逆によって立ち上がり、逆によって成すことにあり、はじめて、能(よ)く輪運(自然の機の運行)に通じ、未数(未来の運命)を救うことが出きるのである。


そもそも運会(世のめぐりあわせ)には盛んなことがあって、衰えることがないということは有り得ず、世道(三十年を一世とす)にも盛んに興ることがあっても、衰え廃れることがないと言うことはあり得ないのである。

従来の聖哲が機運に応じて生まれ、賢豪が時期に乗じて作(おこ)ってきて、精神的な支えとなって民生を救助したゆえんの者は、いきおい、そうしなければならなかったので、たとえ困窮にあって、つぶさに辛酸をなめるといえども、挫折を経て、試練を受けることによって、始めて能く永久の徳業という偉大なる功績を成し遂げることが出来たのである。

例えば、後世に伝わっている詩文、独特の精(すぐ)れた技芸なども、みな困苦不安の逆境の中から、苦労し自ら努力して、以て成就するに至ったものであり、どうして、偶然の僥倖によって、そうなった者があるのであろうか。

蓋し金玉は、錬磨を経なければ、則ち精美(精〔すぐ〕れて美しいこと)が彰(あら)われないし、草木は風霜を経なければ、則ち生気が固まらないし、人生は憂患を経なければ、則ち徳慧(徳業、知恵)が成就しないのである。

これによっても憂患に生きて(憂患に苦しむことにより立派な生き方が出来る)、安楽に死す(安楽にふけることによって死亡し、駄目になる)。

安逸は猛毒にひとしく、大いなる憂は、聖明(聡明)を啓くということが、実に千古不易の至極の道理であることがわかるのである。

人が生まれるや、憂患と俱(とも)に来たので、ましてや末刧の魔が多いときにおいては、尚更のことである。

故に境遇の窮通(困窮と栄達)、俗世間の得失、世情人心の移り変わり、人情の厚薄などは、いつでも移り変わっていくので、本来このようなものである。

惟(ただ)主宰が恒に存して毅然として自立している者は、外界の境によって擾(みだ)されることなく、他の物の為に引きずられることなく、世の移り変わりや人情の厚薄、世の中の艱難辛苦に因(よ)って、一喜一憂することなく、また、これによって一切の障害を看破し、一切の難関を通過して、自らいなかる境遇においてもこれに適応し安んじるという真実の受用(物我一体の上の活機用)を得ることが出来る。

これが乃ち逆に処すること猶(なお)順のごとき大法である。

且つまた、仮の肉身を借りて真の心を修め、外境によって心を練るのは、その時が自分を困らせ、その勢いが自分を阻止しているので、それは、まさに自分を鍛錬するのであって、逆が来ても順で受けて(逆らうことが出来ても心の平静を保って順受する)、そして断固としてこの逆境を克服するのである。

そこで逆境を克服するところの最大の力は、ただ智能をめぐらすだけでなく、実は、道徳の精神に存するのである。

すべて一切の機縁は、すなわち自己の行誼(道にかなった行い)の間に在り、すべて一切の展開は、すなわち自己の勤勉の中にある。

自己を充実させ、自己を実現して、微小なものを化して偉大となし、凡庸なものを化して神聖となすので、どうして、ただ、困難に打ち勝って障害を除去するだけにとどまろうや。

世俗の人情のつねとしては、順を喜び逆を畏れ、順であれば則ち得意になって自らをほしいままにし、逆であれば則ち途方にくれて自ら意気消沈としてしまう。

そこで順境という享楽に流れ易い幸福は、一時の幻であって、それは険しく、逆境という得難い幸福こそ、真にして穏やかで安定しているということを知らないのである。

誰が能く逆を以て順と為し、順を以て順と為さずという真理を体得することが出来ようか。

聖人と凡人、賢人と不肖の者とは、同じように順逆の過程を有しているといえども、その順逆に処するゆえんのところを追究してみれば、はるかな隔たりがあるのである。

ここに逆境について言えば、上なる者は、これを克服して超越、解脱し、次の者は、これを無理に我慢してこれに対処し、下なる者は、ただ逃避することだけをはかり、それも出来なければ、やむなく逆境に負けて屈服してしまうのである。

これを厳しく分析してみれば、則ち中と下の人は、浅薄な輩であり、いつわり欺く徒であり、利欲に習いそまった流(やから)であって、全人類の災刧や人民の苦難に対しても、見ていても見ていないふりをしているのであり、逆境の何物なるかをついに知ることなく、どうして能く逆境によって益を受けることが出来るのであろうか。

その身近における逆境に対して、ただ悪業のむくいとしての苦に縛られているので、罪業による、むくいであると考えているに、至っては、則ち身を誤って、非刧非数に滅するものであり、
もともと、逆境とは関係ないので、どうして、境(心意の対象となる客観の世界)は心に因って生じ、心を滅すれば境も滅するということを知らないのであろうか。

真に能く逆境を理解して、逆境に善処することの出来る者は、それただ真に修行している真の人材である。

真の人材の培養、真の修行の成就は、容易なことでなく、それが得られるのも偶然では、ないのである。

願に乗じて世俗の苦しみを経て、機に応じて世を救い、吾が地獄に入らずして、誰が地獄に入ろうか。

吾が刧の網に入らずして、誰が刧の網に入ろうか。

そこでとっさの場合にも必ずこのようにし、危急存亡の時にも必ずこのようにし、順にはこのようにし、逆にも亦このようにし、修める所は順逆ではないのである。

それがどうして順逆を以て究極となすことがあろうか。

ただ、一般の人は、ただ順を以て快適とすることのみを知っているが、しかし、修行者のよく逆をも、快適とすることの出来るものには、及ばないのである。

随所に用心して警(いまし)め勉め励み、いたるところで、私欲に勝ち邪念を治めて純一に篤く修め、随時に天理を体得し、悟証して、随時に仁義礼智を充足させ、輝かしいものとするのである。

故によく苦しみをいとわず、魄魔にかき乱されることなく、心は境にとらわれることなく、縁にしたがって己の分を尽くし、修めるのに立脚する所のある者は、自ら必ず成就するところがあるのである。


孟子が謂う所の、天がこの人に大なる任務を与えようとする時は、どうしても必ず、まず、その人の心志を苦しませ、筋骨を労せしめ、身体を飢えさせ、その一身を困窮にさせるのであろうか。

どうして、する事なす事がそのしようとする意図と食い違うような苦境に立たせるのであろうか。

どうして、困難な出来ない事を増し加えて、その心を動揺させ、耐え忍ばせるのであろうか。

それは、天が厚く期待し、真に愛するが故に、必ずこのように鍛錬するのである。

これが即ち逆境によって、修行するところの奥義であり、千古にわたる聖哲人もこの逆境の修行によって成就したのである。

鳴呼、明暗が断続し、刧によって運命がけずられ、憂患の時代に衆生の多くが災難に見舞われているときに、よくこの意義を深く明かして、その修行を成就させる者は、諸子において、一体誰に、その望みを託すことが出来るであろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする