人の初めの炁は天地である。
天地の炁は炁胞である。
天地人は一炁胞を本として、貫通感応するので、自ら天然の関係があるのである。
故に、人身は一小天地であり、天地は、一大人身である。
養生家の言に、天下の人は生を養うところの要点は元を保つより大なるものはないと言う。
元を保つと言うのは、元気を保存する事である。
おもうに人はこの世に生を受ける初めに、すでに定まっている分があり、この定まっている分と言うのが元気である。
これは視ようとしても見ることが出来ず、これを求めようとしても求めることが出来ず、気血の内に寓していて、気血の先を宰(つかさ)どっており、五臓の真精は、みな元気の分体である。
その根本の所在を道経では、これを丹田と言い、難経ではこれを命門と言い、内経では七節の旁(そば)に小心があり、陰陽の開閉(はたらき)がここに存し、呼吸の出入りもここに繋がっていると。
たとえ火が無くても全身みな温かであり、たとえ水が無くても五臓はみな潤っている。
いわゆる元陽真陰もまた、一が化して二となったものである。
天地の元陽は深く地中に蔵(かく)されている。
その外に現れて春夏秋冬の四季の相めぐるものは浮陽である。
人における元陽は腎の中に蔵されていて、あまねく全身をめぐっているのもまた、浮陽である。
浮陽はこれを薬とし、汗として発散することが出来るが、元陽はこれを妄動させることは、出来ないのである。
太極図(円形)の白い圏(ところ)が、即ち元陽の本来の位であり、それが陰陽に分かれるのは、皆それは白い圏意外に於いてこれが判れる。
故に元陽とは、元気の蔵するところであり、元気とは、祖(もと)の気より授かったものであると言っている。
これによっても炁胞の育むところは天地人みな一貫して相通じることを悟ることが出来る。
内経では、陽が足りれば、則ち下に固まり、陰が足りれば則ち上に水がそそがれる事になり、その人は無病でいることが出来る。
そこで疾病に侵(おか)されるのは、五運六気(木=肝、火=心、土=脾、金=肺、水=腎と風、熱、湿、燥、寒、火)の失調にほかならない。
そこで薬(漢方)によってこれを和(やわ)らげることが出来、和らげば解け、解ければ治療するのである。
これを以て世の中に推し弘めて人事に運用すれば、参証するとこを得ることが出来る。
運数とは陰陽順逆が相乗じて生じ、数の成るところ運も又、これに因(よ)り、運数が乗除して、大災劫が生じる。
これを挽化しようとすれば、端的に人力によるだけである。
人は堅 定 勇 毅の願力を以て災劫を弭化するのは、あたかも養生する者が元気を保存して、病いを退け健康を守るようなものである。
これは事の当然であり、又、理の当然である。
これを以て体得すれば、養生して身を保つことと数劫を弭化する事は、その揆を一にしている。
たとえ、その理は同じで、その事も同然とは言え、養生して身を保つ者は、必ず嗜慾を節制し、労し傷(そこ)なう事を軽減し、思慮を、省(はぶ)く事に重点をおくように、数劫を弭化する者も又、必ず功行に努め、多くの志を合わせて、気霊を融合させ、この三者を以て努力して為し、長くこれを堅持して怠ることが無ければ、その身のあるところは霊光円満に輝き、必ず全て一切を弭化して、太平安楽の世を招来する事が出来るのである。