天下に悪業を為す人は多く、その中でも最も犯しやすいものは、色に優るものは無いので、徳を敗(やぶ)り禍(わざわい)を招くのも又これより酷いものは無いのである。
淫念(情欲などの淫らな念)が一度生じてくると、諸悪な念がみな起こってくる。
邪念は集まっていなくても幻妄の心を生じ、あらゆる誘惑の方法を考え、悪かしこい、たくらみの心を生じてくる。
それが少しでも阻害されると、怒りや恨みの心が生じ、欲情のために心が傾倒して、色に迷い貪る心を生じ、人が有していることを羨んで、嫉妬の心を生じ、人の愛を奪うために殺害の心を生じ、廉恥の心はすっかり失われ、道徳など全く顧みられなくなるので、種々の悪業は、みなこれにより、集まってくるのである。
地獄の戒律に曰く、人の妻と姦通した者は子孫が断絶すると云う報いを受ける。
未婚の子女と姦通した者は子孫は淫乱の報いを受けると。
世の中に忠実な善人であっても、子孫が昌(さか)えず、文人才子にして一生涯落ちぶれている者の多くがこれによるのである。
この病を除こうとすれば、このような念(淫らな念、不義不倫)が起きた時には自ら厳しくこれを断絶させるようにするのである。
自らを戒めるのであれば、則ち行蔵(動)も又改めよう、多言であってはならない、言が多ければ必ず敗れる。
多事であってはならない、事が多ければ必ず害(そこ)なわれる。
為さざるところがあって、しかる後に為すところがあるとは、義と利の分かれめである。(為さざるところの利があって、しかる後に為すところの義を存することが出来る。)
それ義とは、天理の正当にして、人事の宜しきところである。
又、大人がこれを守ってその徳を成就するのであり、かつまた、天道、人道ともに、必ず此を頼って維持されるのである。
もし、教を説かず、利に赴く事を重視すれば、人は皆、利に走り義理を顧みなければ、勢い禽獣の道に落ちないものはいないのである。
この下元の際にあたって、渾厚の氣(善良な気)が少なく、人心真誠を存することなく、道や徳や仁は、ともに、気質が薄弱なので。これを存することが出来ない。
そこで義を借りて、それを以て、その邪妄を防ぐのであり、これを導くのに、理を以てし、義を以て理に循(した)がえば、人道はこれに頼って僅かに保つ事が出来、放縦に流されることはないのである。
故に三代(尭、舜、禹の聖王の時代)より以降、義を尚(とう)とんできたのである。
ところが世の中は日に日に混濁腐敗して止まるところを知らず、最近に至っては、この義の一字すら、多くの人は口にせず、忠信や廉恥など、一切眼中にないのである。
そこでかれらが尚(とう)とぶところ、よりどころとしているのは、利の一字だけである。
嗚呼、世の中はあたかも、禽獣の群れの如く、どうして、とことんまで、行かなければ、解らないのであろうか。
まして、人として誰一人として心の無い者は無い。
又、心があれば、誰一人として正覚(正しい覚り、悟り)を存しないものがいようか。
そこで各方の正覚の心を以て試みに問うが果たしてこの通りであろうか。
生や何ぞ楽しむ事があろうか。
死や何ぞ悲しむ事があろうか。
人があたかも、禽獣のようになった時、天は又どうして、人のように霊を以て厚くこれに賦与することがあろうか。
又どうして、人のように人倫を以て、道を以て、これを化することが出来ようか。
おもうに人とは物では無いのであり、物を主(つかさ)どるものである。
さもなければ、能(よ)く話し、能く識(し)ることの出来るものを人と言うのであれば、則ち猩々やオウムも又、人と言うことが出来る。
故に人は、必ず正道を自ら守ることによって、はじめて人として恥じないのである。
したがって聖人は、天道と人道を明らかにして、人がこれに遵(した)がうようにしたのである。
そこで、道が失われるようになって後に徳が叫ばれ、徳が失われるようになって後に仁が叫ばれ、仁が失われるようになって後に義が叫ばれるようになった。
それ義とは善悪の分かれ目であり、聖天子の舜と大盗賊の跖との違いでもある。
もし、義を守らず、ただ利のみを尚(とう)とんで、これに走れば、世の中は必ず久しからずして沈没し、人類はこれにしたがって滅亡するのである。
さもなければ、昔より、「盗路が興ってくれば、仁義が滅ぶ」と言われているように、又、今日まで待つまでも無いことである。
これによって論じてみるならば、盗利を存在させる事の出来ないのは、明らかであり、義の守るべき事を人は各々が、自ら知っており、人が言うまでもないのである。
人として果たして、義を以て尚(とう)とぶとすれば、事において必ず。為さざるところがある。(利をさす)
その為さざるところを為さずして(利の為すべからずを為さずの意)、為すところのものは、必ず義の在るところであって邪僻(邪や偏向)が無くなるのである。
人がもし、邪僻を為さず、その為す所を常に矯正するようにすれば、世の中の気風は清純にして平穏となり、淳朴の気風に返えることも難しくないのである。
これが、道中に於ける最も下乗の誡(いま)しめである。
各方が切実にこれを心に返して反省するのである。
どうして、これを恐れないでいられようか。