人がこの世の中で生きていくのに、誰でも好むところがある。
且つ、また、誰でもその好むところに従って、それを楽しみ、日月を過ごして一生を終わるだけである。
しかし、好むことや厭なことを強制する事は出来ないのである。
その上、めいめい好みは、その清と濁によってそれぞれが異なってくるのである。
その気が最も濁っている人は、金銀財宝を好み、その次は酒や色を好みことであり、これらは、全て、人々にとって有害無益である。
そこで、やや、心の清らかな者は、書画骨董を好んだり、山水の自然を好んだり、また、吟詠を好んだりする。
これらは、人生にとって、害は無いけれども、
しかし、読書(古の聖人や賢人の書物を読む)の有益なものには、遠く及ばないのである。
この読書は、更に進んでくれれば道を求め、聖賢の書や、仏典を研(きわ)める事を好み、三菩提(道、覚、智と訳し、道は悟りに至る原因である。覚とは、煩悩を断ちきって、悟りを得る事である。智とは煩悩の障りを断ち切って、体得した偉大な、智慧である。)の玄妙な境地を体得し、その心を清めることが出来、各教の主旨を融合同化して、一つに集めるのである。
そして、大道を楽しむ者は、その、心霊が内外を超越し時間と空間を超越して、永遠の不詳不滅の境地を楽しむのである。
これが、人生に於ける最高、最大の楽しみである。
また、謂うには、君たちは今後、酒を飲むことを慎んで控えめにせよ。
酒を飲むと霊を傷(そこ)ないまた、肺気を傷なうことになる。
もし霊を傷なえば、神は充たずして脳が傷なわれることになる。
肺気が傷なわれると呼吸は乱れてその働きは、円滑でなくなり、そこで多くの病に侵されてもこれを防ぐことは、出来なくなるのである。
それも青壮年の頃には気力が充実しているので肺気を傷なってもそれほど感じないが、老年になると多くの病を一身に招くことになるが、それは若い時に肺気を傷なった結果ではなかろうか。
そこで、大道の坐功は後天の気を以て、先天の氣を養うのである。
正気が一度、傷なわれば、先天の真氣は、どうして養うことが出来るのであろうか。
そこで、肺気というのは、気の主要なポイントである。
肺がすでに傷なわれると、全身をめぐるところの気は必ず滞って円滑でなくなり、そこで日夜、常に坐(すわ)るところの坐も無益となってしまうのである。
君たちは最近道心が盛んなので、吾もこれに期待する心を禁じ得ない故に、やかましく言うのも、まさに厚く望むゆえんである。
くれぐれもこれを軽視しないようにせよ。