真如の自性(自己の本性)、これが真の仏であり、邪見三毒(貪り、嗔(怒)り、愚痴妄念)は魔王である。
邪に迷っている時には、魔が舎(うち)におり、正見の時には仏が堂にいる。
性中の邪見が三毒を生ずれば、すなわち魔王が来たりて、この舎(いえ)に住することになる。
正見が、自ら三毒の心を除去することを行えば、魔が変じて仏となり、真にして、仮(邪)が無くなる。
菩提(悟りの境地)の自性とは、本来清浄である。
ただ、この心を用いて、直ちに悟れば、仏となる。
即心即仏(心すなわち仏)であり、仏とは、即ち吾人の本心 本性 本体がこれである。
もし、邪見や三毒があれば、本心が即ち仏であると言う事が解らないのである。
外縁によって生じる心や妄心を以て主となし、悪は恐れるに足らず、善も為すに足らずと見なし、貪嗔痴の三毒が日に日にはびこって来るようになると収拾がつかなくなるのである。
邪見三毒が、心に固く結ばれるようになれば、これを魔王が舎(いえ)にあって主宰となっているというのである。
これに対して、正見が一度生ずれば、魔王が消えて仏があらわれて主宰となるのである。
本性の中において邪見を生ずれば魔王が来たりて、舎(いえ)に住し、正見を一度生ずれば魔王が変じて仏となるのである。
この魔や、この仏とは、皆、自分の本性の中より生じてくるので、魔となることも出来れば、仏となることも出来るのである。
仏も邪見を生ずれば即ちこれ魔であり、魔も化されると正見があらわれ、即ちこれ仏となる。
仏が心の本体であり、魔は心の変じた相である。
即心即仏であって、心の外に仏を求めるところは無いのであり、即心が魔を生じるので、心の外に魔を化するところはないのである。
修めるのは一心にあり、成ずるのも一心にある。
明心見性(心を明らかにして本性を見ること)は仏を学ぶ大本である。
仏道の学は玄妙にして、深遠広大であり、生涯、仏の経典を読み尽くすことが出来ないことを残念に思う者がいるが、禅宗の六祖慧能(達磨大師より代々衣鉢を受け継いだ六祖)は、文字を識(し)らずして、能(よ)く、偉大なる仏果を成就し、本心を直指して、上乗の境地を頓悟(修行の階梯を経ず、直ちに悟りを開く事)したのである。
五祖弘忍(達磨大師からの五祖)は本心を識らなければ、法を学んでも無益であると告げて、金剛経を教え、応無所住而生其心(応[まさ]に住する所無くして、其の心を生ずべし)に至って言下に大悟したのである。
本性とは本来具足されている(充分に具わっている)ということを予期せず、本性とは本来光明であるということを予期しなくても、仏とは即ち心の本体であり、その本体を悟ることが出来れば、どうして、これを他に求める必要があろうか。
昔から文字によって道を語り、道を伝えること膨大である。
また、その含まれている意味も深遠にして微妙であり、常にその極意の玄妙の意を尽くすことが出来ないという感じがする。
また、文字の障りが、心中にとどこおって、更に一貫の妙に通じることは難しい。
六祖は、時に文字の障りを打ち破って、本心が即ち真の仏であることを明らかに示し、おろかにも迷って外に求めている幻想を打ち破って、これを一心に求めるように注意を喚起したのである。
ただ、人は生まれて後天に入ってから迷い、五陰(これは五蘊とも言い、色 受 想 行 識の五つ、本性を遮る。)の為に覆われ、六塵(眼 耳 鼻 舌 身 意、眼で見て色塵、耳で聞いて声塵、鼻でかいで香塵、舌で味塵、身に染まって触塵、意に着して法塵)の為に引きずられ、その本心本性を明らかにすることが出来ないのである。
五陰におおわれると、あたかも黒い雲が月日をおおい隠すようになり、六塵に引きずられると、あたかも狂風が草木を襲うように、草木は動かざるえないのである。
もし、動かされまいとするならば、その心性の上からその本質を求めなければならないし、日月の光明を回復させる事から功夫を用いなければ、ならない。
もし、能く諸々の縁を退けて、五蘊が本来、空であることを悟れば、五陰の外に別に衆生がいるわけでなく、衆生の外に別の煩悩が、あるわけでもない、煩悩がすでに尽きてしまえば、心は自在を得て、仏性が現れることになるのである。
そこで、三毒邪見は更に害をなすことが出来なくなるのである。
仏の偈(仏の功徳を讃える詩)は直ちに心源に達し、魔を化して本に復(かえ)るのに有益であり、殊に重要である。
もし、能く頓悟することが出来れば、その成就は頗(すこぶ)る早いのである。
ここに平易なる数語について提起して各位とこれを討論してみた。
吾が道院では五教(道教、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教)を一に合するので、五教にはそれぞれ精華がある。
いかにすれば、一を以て貫通することが出来るか、これからは、先覚老修各位の努力に待つのである。