道は人の心の中にあり、言語を以てこれを喩(たと)えることは、非常に難しい事でごさいます。
ある者は有形のものが道であると言い、ある者は無形のものが道であると言っております。
それぞにその理があるけれども、しかし、大道は変化の一句から離れるものではありません。
なぜなら、大道の一句は、全てを包含することが出来るからでごさいます。
ここの女社(女道徳社の略称、女性の為の道院。女性の修養を目的とし、観音様が、此処を統べます。)について言いますと、老尼(蓮台聖の自称)はすでに二ヶ月余り、この檀の訓示に臨んでおりません。
この二ヶ月余りの期間の中に、この世では、どれほど多くの変化が起こったか知れません。
死んだり、安らかになったり、危うくなったり、強くなったり、弱くなったり、病気になったり、健康になったり、その変化の状態はまちまちであって同一ではありません。
もし、これを総合的に研究してみると、所詮この道の一字から、はみ出るものは一つもないのであります。
病気には病気を招く原因があり、健康には、健康を招く原因があり、生まれるには、生まれるだけの原因があり、安らかなのは、安らかさを招く原因があり、死ぬには、死ぬだけの原因があり、危ういのは、危うさを招く原因があるのです。
それはどうであれ、結局はこの原因の2字から、はみ出るものは、一つもないのです。
然るにこの原因が発生するのも、又すべて、自分の心から出たものであります。
したがって心というものは原因の元であり、修方(道院の修養者)が能(よ)くその心というものが、全ての原因が心にあるという至極の原理を明らかにすることが出来れば、わが身の一生涯に於けるさまざまな変化も、納得でき、理解することも、出来るのです。
また、他人に問う必要もないのです。
これらの変化は人の一身上において、すなわち道となるのです。
人心が善に向かって能く道を修めれば、それによっていい結果が得られるのです。
それに反し、人心が善に向かうことなく、道を以て悟ることなく、自らの聡明に頼って自分自身の見解を固執すれば、最後は良くない結果を招くことになるのです。
ある人が言うには、世間では善を行っている人でも、その結果が、極めて良くなく、又善を行わずして、常に悪を為している人でも、その結果が極めて良い人もおります。
これは一体どうしてでしょうか。
この質問は修道を研(きわ)める上に於いて、当然に究明すべき事でございます。
ただし、これらの状態は表面だけ見て論じてはならないし、また、今生だけを見て論じてもなりません。
この両面があるので。研究しなければなりません。
例えば、善を行っていても、その、行いは善で、あっても、その心が不善(妄念妄想)であれば、例え善行であっても遂にはその、心の中の妄想妄念を覆い隠すことは出来ないのです。
例え、悪を行ってもいても、その行いは例え悪であっても、時にはその心中は能く、人生意気に感じ、義を感じて行ったことは、世間的には不善となることもあります。
また、種々の善行があっても、これらの隠れた善行は往々にして世間の人が知らないし、あるいはおろそかにしているので、表裏または、心と行いの上での相違があらわれてくるのでございます。
また、悪人といえども、前世に於いて善因を積み重ね、善人といえども、前世に於いて悪因を積み重ねていれば、この世に於いても、常識的な道理だけを以てこれを推測評価することは出来ません。
要するに心は原因の本でございます。
人が能く、心を正して善因を修めれば、悪といえども善に変える事が出来ます。
各修方は現在、この時期に、処して、当にこれを以て自ら悟り、慎んでこれを修めるのでございます。