玄徳道

道を語るブログです。

諸葛孔明 晶佐神訓、中和道。

2021-08-26 02:04:00 | 道院
北斗七星は北を指している。

天の気は上昇し、地の気は下降し、上下通じる事が無ければ、冬となる。

冬のことを至ると、謂うのは、どう解釈したらよいのであろうか。

冬至とは、冬がその極みに至って、一陽が来復することである。

そこで陰は子(ね)の中(北)に極まって陽が生じる。

陽は午(うま、南)に極まって陰が生じる。

故に、陰は陽より生じ、子(ね)に極まり、陽は陰より生じ、午(うま)に極まる。

これを陰が極まり、陽が復(かえ)り[冬至]、陽が極まり、陰が復る[夏至]と、いうのである。

これが天地本来の軌道であり、陰陽自然の変化でもある。

人がこの世で生きていく上においても、各々その軌道があり、各々その変化がある。

また、全ての事を為す上においても、各々その軌道があり、各々その変化がある。

故に、道によって行う者は、人としてその常(不変の徳)を失うことなく、事を為してもその順序を失う事が無いのである。

その明らかなことは日月と並び称され、その仁は春と同じくするのであり、それが聖人である。

そこで天に順(した)がうものは生き、天に逆らう者は滅びるのである。

これが、即ちいうところの、人の一行一動、事の一推一挙は、均しく、天道を違えて自ら功行を眛(くら)ますような事があってはならないのである。

そこで、願子(孔子の弟子、願淵)の四勿(論語に、非礼見る勿(なか)れ、非礼聴くなかれ、非礼言うなかれ、非礼動かすなかれ。)、曾子(孔子の弟子)の三省(論語に、吾日に三たび、吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、友と交わりて信ならざるか、伝えしを習わざるか)とは、みな天意を違えて常軌を逸することを恐れるゆえんである。

今の人は軽薄であって、心中偽りが多く、道徳は失われ、日、一日とひどくなっている。

もし、急いで収拾しなければ、壊滅に帰してしまうのである。

吾が道院がこの世に設立されてから、僅な期日の内に広まったのは、或いは、そのよい機会に恵まれたのかも知れないが、しかし、この道というものは、人によって行われ、人によって生まれてくる。

そこで道にその人を得ることが出来なければ、以て道を窺うにも、その入る門が無く、人にしてその道を得ることが出来なければ、更に生存することも、出来ないのである。

この故に、孔子は道とは片時も離れることは出来ないと言い、また、中和を致して、天地位し、万物を育むと言っている。

これは、人が道の本体について、不明であって、道の所在を知ることが、出来ないことを恐れる故に、道のはたらきを明らかにし、道の実を行うことを示して、中と言い、和と言っているのである。

おもうに中とは、人の本心であり、即ち道の本体である。

人が能(よ)く、中を極めれば、即ち七情(喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲)に節度が出来て、内には、神を損なうことなく、外には情に流されることなく、道が確立されるのである。

和は処世の本であり、又、命を養うところの根底でもある。

もし能く、和を以て内に蓄えれば、上は、能く天の智慧に接し、下は能く、神の明に合して、内外みな、通じるのである。

そこで経文にも、和とは天下の定まった道理と言っている。

ただ、人は道を行ってもこれを、省察する(反省すること)がないので、これを左に失うので無ければ、これを右に偏り、みな、中正和平の定まっている道理を得ることが出来ないのである。

吾が道院の坐は、即ちその心を平にし、その気を和に導き、心を明らかにして、中を致す所以である。

人の習坐も、雑念によって失われることが、無ければ、また、枯木死灰(心に熱い情熱が無く、死んでいるような状態)によって、失われることになり、これらは、大いに悲しむべきことである。

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白衣観音 蓮台聖訓、心道。

2021-08-25 00:21:00 | 道院
道は人の心の中にあり、言語を以てこれを喩(たと)えることは、非常に難しい事でごさいます。

ある者は有形のものが道であると言い、ある者は無形のものが道であると言っております。

それぞにその理があるけれども、しかし、大道は変化の一句から離れるものではありません。

なぜなら、大道の一句は、全てを包含することが出来るからでごさいます。

ここの女社(女道徳社の略称、女性の為の道院。女性の修養を目的とし、観音様が、此処を統べます。)について言いますと、老尼(蓮台聖の自称)はすでに二ヶ月余り、この檀の訓示に臨んでおりません。

この二ヶ月余りの期間の中に、この世では、どれほど多くの変化が起こったか知れません。

死んだり、安らかになったり、危うくなったり、強くなったり、弱くなったり、病気になったり、健康になったり、その変化の状態はまちまちであって同一ではありません。

もし、これを総合的に研究してみると、所詮この道の一字から、はみ出るものは一つもないのであります。

病気には病気を招く原因があり、健康には、健康を招く原因があり、生まれるには、生まれるだけの原因があり、安らかなのは、安らかさを招く原因があり、死ぬには、死ぬだけの原因があり、危ういのは、危うさを招く原因があるのです。

それはどうであれ、結局はこの原因の2字から、はみ出るものは、一つもないのです。

然るにこの原因が発生するのも、又すべて、自分の心から出たものであります。

したがって心というものは原因の元であり、修方(道院の修養者)が能(よ)くその心というものが、全ての原因が心にあるという至極の原理を明らかにすることが出来れば、わが身の一生涯に於けるさまざまな変化も、納得でき、理解することも、出来るのです。

また、他人に問う必要もないのです。

これらの変化は人の一身上において、すなわち道となるのです。


人心が善に向かって能く道を修めれば、それによっていい結果が得られるのです。

それに反し、人心が善に向かうことなく、道を以て悟ることなく、自らの聡明に頼って自分自身の見解を固執すれば、最後は良くない結果を招くことになるのです。

ある人が言うには、世間では善を行っている人でも、その結果が、極めて良くなく、又善を行わずして、常に悪を為している人でも、その結果が極めて良い人もおります。

これは一体どうしてでしょうか。

この質問は修道を研(きわ)める上に於いて、当然に究明すべき事でございます。

ただし、これらの状態は表面だけ見て論じてはならないし、また、今生だけを見て論じてもなりません。

この両面があるので。研究しなければなりません。

例えば、善を行っていても、その、行いは善で、あっても、その心が不善(妄念妄想)であれば、例え善行であっても遂にはその、心の中の妄想妄念を覆い隠すことは出来ないのです。

例え、悪を行ってもいても、その行いは例え悪であっても、時にはその心中は能く、人生意気に感じ、義を感じて行ったことは、世間的には不善となることもあります。

また、種々の善行があっても、これらの隠れた善行は往々にして世間の人が知らないし、あるいはおろそかにしているので、表裏または、心と行いの上での相違があらわれてくるのでございます。

また、悪人といえども、前世に於いて善因を積み重ね、善人といえども、前世に於いて悪因を積み重ねていれば、この世に於いても、常識的な道理だけを以てこれを推測評価することは出来ません。

要するに心は原因の本でございます。

人が能く、心を正して善因を修めれば、悪といえども善に変える事が出来ます。

各修方は現在、この時期に、処して、当にこれを以て自ら悟り、慎んでこれを修めるのでございます。
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済仏訓、永遠の楽道。

2021-08-24 01:18:00 | 道院
人がこの世の中で生きていくのに、誰でも好むところがある。

且つ、また、誰でもその好むところに従って、それを楽しみ、日月を過ごして一生を終わるだけである。

しかし、好むことや厭なことを強制する事は出来ないのである。

その上、めいめい好みは、その清と濁によってそれぞれが異なってくるのである。

その気が最も濁っている人は、金銀財宝を好み、その次は酒や色を好みことであり、これらは、全て、人々にとって有害無益である。

そこで、やや、心の清らかな者は、書画骨董を好んだり、山水の自然を好んだり、また、吟詠を好んだりする。

これらは、人生にとって、害は無いけれども、
しかし、読書(古の聖人や賢人の書物を読む)の有益なものには、遠く及ばないのである。

この読書は、更に進んでくれれば道を求め、聖賢の書や、仏典を研(きわ)める事を好み、三菩提(道、覚、智と訳し、道は悟りに至る原因である。覚とは、煩悩を断ちきって、悟りを得る事である。智とは煩悩の障りを断ち切って、体得した偉大な、智慧である。)の玄妙な境地を体得し、その心を清めることが出来、各教の主旨を融合同化して、一つに集めるのである。

そして、大道を楽しむ者は、その、心霊が内外を超越し時間と空間を超越して、永遠の不詳不滅の境地を楽しむのである。

これが、人生に於ける最高、最大の楽しみである。


また、謂うには、君たちは今後、酒を飲むことを慎んで控えめにせよ。

酒を飲むと霊を傷(そこ)ないまた、肺気を傷なうことになる。

もし霊を傷なえば、神は充たずして脳が傷なわれることになる。

肺気が傷なわれると呼吸は乱れてその働きは、円滑でなくなり、そこで多くの病に侵されてもこれを防ぐことは、出来なくなるのである。

それも青壮年の頃には気力が充実しているので肺気を傷なってもそれほど感じないが、老年になると多くの病を一身に招くことになるが、それは若い時に肺気を傷なった結果ではなかろうか。

そこで、大道の坐功は後天の気を以て、先天の氣を養うのである。

正気が一度、傷なわれば、先天の真氣は、どうして養うことが出来るのであろうか。

そこで、肺気というのは、気の主要なポイントである。

肺がすでに傷なわれると、全身をめぐるところの気は必ず滞って円滑でなくなり、そこで日夜、常に坐(すわ)るところの坐も無益となってしまうのである。

君たちは最近道心が盛んなので、吾もこれに期待する心を禁じ得ない故に、やかましく言うのも、まさに厚く望むゆえんである。

くれぐれもこれを軽視しないようにせよ。


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黙真人訓、宝王三昧論への道。

2021-08-22 19:47:00 | 道院
仏教の三昧宝王論の中に十項目がある。

それは修行の上で覚り導きになるので、皆と共に討論してみよう。

1 「身体に無病を求めない。」

身体に病がなければ、貪欲が生じ易い。

此の一句については、いろいろな解釈がある。

自分(黙真人)が思うに身を修める事を考えた場合、欠点が無いことを求めないで、欠点のあることを求めるべきである。

有形の身体の欠点や無形の心が、外の物に幻惑される欠点には、その原因を求めて、自ら悟り、自覚してこれを改めることである。

自ら、自分に欠点がないと思ってはならない。

欠点のあるところを知らなければ、過ちのあるところを明らかにすることは出来ない。

これを知らずに改めなければ、どうして能(よ)く、善に返り日に日に、新たになることができようか。

その病苦を以て、良薬となすのも、同じような修行の法門である。

2 「世に処するのに、苦難の無い事を求めない。」

世の中に苦難が無ければ、必ず気持ちが驕り高ぶり、ぜいたくになる。

試みに富貴の家柄を見てみるのに、子孫の人たちは、多くが艱難辛苦を知らない。

思うにいまだ、艱難を経験したことが無ければ、世の中に艱難が存在することを知らない。

一旦社会に出た場合、わずかな違いで大きな過ちを犯し易い。

修行の上から言えば、艱難を経験しなければ、正しい成果を得ることは出来ないのである。

3 「心を究めるのに、障碍(しょうがい)の無いことを求めない。」

心に障碍が無ければ、修行の段階を踏まなくなる。

心に障碍の無い者は終(つい)には自分を完全無欠だと思い込んでいるが、実はそうではないのである。

それは、いまだに試練を体験していないからである。

そこで心の中には必ず障碍を持ち、その障碍を克服するように時時刻刻、練磨させるのである。

それは、自分の心中が艱難に遭遇して、果たして不動であるか、否か、また能(よ)くあらゆる誘惑に負けず、心の純潔を保持することができるか否かを見るのである。

4 「善い行いをして、魔の無いことを求めない。」

行うには魔が無ければ、誓願を堅持することが出来ない。

魔の難を受けなければ、円霊氣胞を成就させる事は出来ない。

済仏さまは、羅漢(悲しみの輪廻から脱却し、悟りを開いた存在。人に生まれ変わる必要が無い。)の身を以て、世に降り、人を渡(すく)い世の中を感化したのである。

それでもなお、八度の魔の難儀を体験したのである。

その他聖人、神人、仙人、仏などや、各教の教主が受けたところの魔の難は甚だ大きいので、霊的な成就も実に偉大なのである。

しかし、一般の人は魔に邪魔されると、即ち、退いて挫折し、最初の誓願を忘れて、おろそかにし、魔の為に邪魔されて、魔による試練に堪えられないのである。

5 「事を企画するのに、成功し易い事を求めない。」

事が成功し易ければ、その志は軽視されて慢心となる。

そうすると、天下の事すべての事が、このように成功し易いと、思い込むようになる。

したがって大災難に偶(あ)うことによって、これを克服しこれを成功させる事が如何に至難の業(わざ)であるかを体験して、その慢心を改める事が出来るのである。

かりに修行の上から言えば、若し偶然に進歩があったとすれば、それは大いなる功徳を成就させるのも容易であると信じ込むようになる。

また、それは逆に聡明の二字に惑わされて失敗するのである。

6 「友人との交際は、自分の利益のある事を求めない。」

その交際が自分に利益があれば、道義を失い損なうのである。

現代の人が交際を求めるのは、皆、自分に利益があるか、否かがその価値観の根本である。

そこで、道義とは如何なるものであるかを知らない。

皆、利益のある所を利用して、付き合っている。

そこには、更に真理も誠も道理も、存在しないのである。

ひとたび、利用価値が無いと見るやこれを相手にせず。また、それこそ、仇敵となって憎み合うのである。

勿論、父子、夫妻、兄弟、姉妹なども、皆敵となる可能性もある。

それは何とも悲しいことではなかろうか。

7 「人生に於いて順調快適であることを求めない。」

人が順調で快適ならば、心は必ず矜(おご)る。

現代の人は皆、毎日順調快適な生活を求める。

順調を求める者は、財貨や利益、地位や名誉を求める。

財貨、利益、地位、名誉が自分の心の思うように手に入り、順調であれば、これを享受しようと思い込み、逆にそれらが、手に入らない人は、寝ても醒めても、これを追い求めるのである。

なお、いまだに、少しでも、不足がある場合は、時時刻刻貪り求め、その他のことは返り見る余裕はないのである。

また、貪り求めることにとらわれ執着して、他のことを返りみないのである。

仏法を以てこれを観れば、已に底なしの無限の地獄に堕ち入ってるのであり、それは真の聡明なる智慧が無ければ、救われ難いのである。

8 「徳を施して、報いを求めない。」

たとえ、施してもその報いを求めれば、心に期待し図るところがある。

たとえ、善事を作(な)すにしても、その名声が広く世に伝わった後に、これを作す者は名声を期待する為に善事を作すのであり、その善事は名声を得る為の手段となるのである。

9 「利を見て、分け前を求めない。」

利益、分け前を求めるようになると、即ち多い少ないで不平不満が起こりを心中の智慧が眩まされて、正しい判断が出来なくなり、そこで、人心が起こり、道心が滅びてしまうのである。

したがって聖人は病や苦しみを以て良薬となすのである。

艱難以て逍遙(楽しんで悠々自適)と為し、またあらゆる障碍や艱難を以て解脱と、為すのである。(人はあらゆる障害や困難に出くわした時、これを克服しようとする。それには、これらの障害や困難にとらわれず、自由自在の心を持つ事であり、それによって、苦しみから解き放たれ、脱却することができるのである。)

多くの魔の難を以て法の伴侶と為し、困難に遭遇することによって、我が道や徳を成就させることが出きると見なすのである。

貧乏や地位の無い人との交際を以て、利害打算の功利的な考えを捨てて、道や徳の上に於いての資(たす)けとするのである。

道を踏み外した人を以て反面教師として、自分を反省し、自我にとらわれた徳を施すことを以て、つまらぬここと為し、「利に疎い事を以て富貴となす。」

抑えつけられる事を以て修行の出口とするのである。

10 「抑えつけられても、弁明を求めない。」

抑えつけられでも、弁明すると、そこで怨みや恨(にく)しみが、生じてくる。

世の中の人は、皆抑えつけられる事を以て虐げられていると思うのである。

そこで必ず弁明して、その苦衷を、明らかにするが、しかし、君を抑えつけている相手はいろんなことを考えて、自分のほしいままにせんことを期待している。

また、時には、陰謀を以て君を抑えつけていることを君は知っているのか。

もし、たとえ、弁明しても君を抑えつけている者は、絶対に是非善悪の道理が分からない者なのである。

それはまさに、君を抑えつけて、自らの私憤をはらそうとしている。

そのことが、うまく行かないと逆の結果になる。

そうすると、怨恨の心が生じてくる。

そこで自分の過ちに気がつかない者は、全ての責任を他人になすりつけるのである。

仏法では、悪因を免じ、悪い結果を化するものである。

そこで抑えられても弁明を求めないことである。

このように障碍に、直面することによって、反って障碍になる。

したがって如来様は障碍の中にこそ、正しい悟りの道を体得されたのである。

仏敵であった、提婆達多などのような大逆無道の徒輩(ともがら)でも、初めは法に反逆を為したが、お釈迦様は悉く、特別に許して成仏させてのである。

外からの逆境を逆境と見なすことなく、これによって自分が鍛練されて、人格を磨く事が出きると思えば、それはかえって、これをプラスとして受け止める事が出来るのである。

自分の受けたところの災難や不幸や被害も、これら全て人格を磨き上げる上で、大変なプラスになることを知らなければならない。


現代の世間一般の修道の人は、若し先に障碍に、遇うことが無ければ、障碍を処理することが出来ず、道の成果を失ってしまうのである。

それでは、何と惜しいことでなかろうか。

この一節の経文を慎んで研究してみれば、その意味は甚だ深遠であり、また、その、真理も妙にして奥深いのである。

以上述べたところのものは、多くが世間一般の人の考え方と相反している。

若し能く、これを実際に努力し、体悟実行すれば、日新月歩の勢いで修道は成就するのであり、それは刮目して待つべきである。


儒教の十六字の薪伝の中に、「人心危うく、道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、充にその中を執れ。」とある。

ここで言う人心とは、即ち利欲に惑わされた心であり、それは非常に危険な道を辿ることになる。

我々が常に言う所の「金や、利欲に目が眩んで失敗した」とは、この事を言うのである。

また、孟子は、「どうして、利のみを追及する必要があろうか、ただ、仁義のみを求めるのみである」と言って、その利を追及する者は必ず危うくなるのである。

以上述べたように利のみに走ると必ず、危険に瀕し、失敗するのである。

したがって、利から遠ざかり、利に疎い事を以て、いわゆる安全で一身を保つ事が出来る良薬となすのである。

それをここでは、富貴と見なすのである。


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白衣観音 蓮台聖訓、早起きの功徳道。

2021-08-22 00:26:00 | 道院
早起きの楽しみは、その窮まるところが無いのであります。

それは、清新な空気の恩恵を得られると同時に、また、呼吸や飲食をするにも、新鮮な露氣(露を含んでいる空気)が充満しています。

人は常に能(よ)く、永い間、この早起きを続けて行けば、則ち身心は安泰で、筋骨は強健となり、三息五気十動(三息とは、上中下の三丹田。五気とは五蘊[五陰]の気、色 受 想 行 識。色は形相を謂い、受は嗜欲を謂い、想は意念を謂い、行は業縁を謂い、識は心霊を謂う。)は、みな平となり、決して病の苦しみを受けることは無いのです。

とりわけ、胃腸の部門に対する力(はたらき)は特に大きいのですが、人は常に自覚されません。

試みによく考えてみれば、太陽が高く上がるまで寝ていると、起床しても頭がぼんやりして、すっきりせず、お腹の中もあまり快適ではないのです。

そこで常に朝寝をしている者は、それが習慣となって当たり前となり、自らこれを自覚することが出来ません。
これが、いわゆる「魚の干物などの臭い物を売る店に入れば、そこに長くいると、臭さに慣れて何とも感じなくなる」と同様に、朝寝も習慣になると、その弊害が感じられなくなるのです。

そこで常に早起きしている者は、自らその朝寝の不快感に絶えられないのでございます。

吾が道院の修方(道院の修養者)は、修道を志す以上、早起きに対し、切実に関心を持たなければなりません。

女性は家庭を治める責任があるので、更に切実に早起きを実行しなければならないのです。

清朝の曽国範(清朝後期の国の柱、太平天国の乱を治めた。)は五つの箴(いましめ)を作り、先祖以来、早起きをして夜明けを待たずして朝食をすませています。

そこでこの家系は、数十世代にわたって盛んに繁栄し、今に至っても変わらないのです。

各方は、北極真経を読んでいる以上、昔の聖人や賢人を手本にすべきです。

もし家族全員が早起きし、合坐をして、そして仕事につけば、心神、快適であり、すべての事が順調に行くのです。

これが、家を治める上で最も大切な事でございます。
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