教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「よい」教育史研究とは?

2005年07月07日 20時32分21秒 | Weblog
 今日は(も?)、読書。
 昨日から、近代教育思想史研究会(現、教育思想史学会)編『近代教育フォーラム』創刊号(1992年)を読んでいます。もともとは、この中の一部のフォーラム3の報告「教育史研究の方法論的再検討」が目的だったのですが、あれよあれよと最初から読んでいます。そのせいで、目的だったこの報告をまだ一部しかよんでいないという、本末転倒の状態にあります(失笑)。
 この紀要を読んで、様々なことを知りましたが、結局一番印象に残った部分は、単純な言葉です。それは、討議上での安川哲夫氏の言葉、「日本教育史の場合によくみられるような事実としてあるものをこうでしたとういだけの歴史のアプローチ」という言葉でした。また、この言葉の後に記された「(笑い)」(おそらく会場出席者の(笑い)なのでしょう)が印象に残りました。この記録は、1991年8月に開かれた近代教育思想史研究会第一回研究大会の記録ですが、事実は別として、当時の西洋教育史(思想史)研究者が日本教育史研究にそのようなものが多いと認識していることに、注目したわけです。自分の論文はどうだろうか。と反省したと同時に、はたして十五年たった今の日本教育史研究はどうだろうか、だったら上記のような研究でない教育史研究とは何だろうか、その答えが未来の教育史研究者となる専攻の院生に伝わっているのだろうか、伝えているとしてもそれが院生たちが実行可能な状態にあるのだろうか、とさらに強く思ってしまいました。
 同研究会のフォーラムにおける報告書の体を為しているので、論文と同じようには読めませんが、問題関心やその問題を問うことの意義、序論的な方法論を読みとることはできます。今の教育史研究には何が求められるのか、それを問うためにこの紀要を読んでます。もちろん、この紀要=思想史という限定はかかりますが。
 後、注文していた、佐藤秀夫(小野・寺崎・逸見・宮沢編)『教育の文化史』3-史実の検証 を今日手に入れました。1・2はすでに買っておりますが、まだまともに読んでいない… 第3巻の第一部は、佐藤氏の教育史研究論で構成されております。
 あと、修士課程の院試を受ける学部4年生のためという建前で、皇至道『西洋教育通史』(玉川大学出版部、1972年)を読み始め。古いですが、西洋教育史の通史としては名著みたいです。他の西洋教育史の本をほとんど知らないので、相対化はできませんが。
コメント
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