今日は昨日より一時間ほど早く起きられました。ホッとします(笑)。
今日は日曜なので学食が開いていないので、昼食は「ほっかほっか亭」のスーパーのり弁当(490円)にしました。中身は、普通ののり弁当に唐揚げ弁当のおかずがついた、たいへんお得な弁当です。というより、今日言いたいことは弁当そのものではなくて、ほか弁の受付をしてくれたおかあさんについて。受付のおかあさんがおつりを渡す時、ふと手が触れました。その手はものすごく冷たく、たくさんのアカギレ・シモヤケを認めました。この人は間違いなくものすごくがんばっている、と直観。かなり感動。俺もがんばらないといけないな、という気になりました。
弁当を持って登校。今日はようやく勉強に専念できました。まず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史』(評論社、1995年・旧版1966年)の第三章「『開発主義』教授理論の理論的系譜」を読みました。これは、明治十年代において広く普及した開発主義教授法の理論的系譜を追い、その特質を明らかにしたものです。開発主義教授法は、教授方法に対応した内容の欠如というペスタロッチー(1746~1827)の直観教授理論の欠陥を、実生活にもとづく科学観に則って教授内容へ自然科学を導入した、ジョホノット(1823~1888)の教授理論を、東京師範学校長の高嶺秀夫や東京師範学校付属小学校が中心となって普及させたとされる教授法です。ただし、その理論的系譜に沿ってそれぞれの特質を検討していくと、ペスタロッチーからジョホノットに至る過程で、人間が自ら主体性を確立し独立するという社会観が希薄になり、ジョホノットから東京府師範学校附属小学校に至る過程で、諸科学の基礎としての教授内容から体系性・科学観の欠落した事典的・概略的知識としての教授内容へと変化したことが、稲垣著によって明らかにされています。
次に、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』(学文社、1997年)の第一章である船寄俊雄「『文検』の制度と歴史」を読みました。これは、「文検」(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験)に関する法令と試験日程との対応関係を整理概論したもの(受験生についても少し書いてある)。よく整理されてあって、「文検」研究の基礎知識として重要な研究であると思います。ちなみに、先日書いたように、私はこの本を戦前教育学の研究書として読んでいます。なぜ、「文検」と教育学が関係あるのか。寺崎氏は、序章「なぜ『文検』に着目するか」において、大きく次の二つの目的を提示してます。すなわち、(1)「文検」の科目である教育科と「教育ノ大意」の分析によって政府公認の教育学の具体を明らかにすることと、(2)「文検」に関わった教育学者の参加実態(学説を含む)を明らかにすること、の二つです。その目的が達成されているかどうかは、今後読んでいくわけですが、「文検」が戦前日本の教育学を規定したのではないか、という仮説は、科挙によって中国の学問が多分に規定されたという中国科学史の研究成果と似ているように思います。先日読み終わった中山著によると、古代中国の学問は、科挙によって仕官のための学問として体系化されてしまったといいます。これは、もともと戦国時代に諸子百家が仕官のために諸侯に論じてまわった学問という、古代中国の学問の特質も関係しているようですが。「文検」における教育学も中等学校教員の資格試験のための学問であって、その意味では「仕官のための学問」ということができましょう。制度化された学問は、効率化されて学問内容の急速な深化が可能になる一方で、固定化されて創造性を失う(新しいパラダイムを生むことが難しくなる)といわれますが、戦前日本の教育学もそうなのでしょうか? 第二章以後、どのようなことが明らかにされているのか、気になります。
最後に、おおかた一ヶ月もほぼ休止状態にあった、邦楽の勉強も。今日は小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)の一章、「アジアのなかの東洋と西洋」を読みました。同書の他の章については、昨年12月11日の記事をどうぞ。「アジアのなかの東洋と西洋」では、アジア諸国における西洋音楽と伝統音楽の関係を見ることで、日本における伝統音楽のあり方を探った論考と見ました。以下、小泉論文の要旨です。
1960年代の伝統音楽に対する態度には、二つの異なった傾向が見られたそうです。第一の傾向は、西欧人が、東洋諸国における東洋音楽の古典的価値の軽視・喪失を強く警告していたこと、第二の傾向は、東洋人が、自身の伝統音楽の近代化(西欧化)を必然と感じていたことです。第二の傾向の延長上には、伝統音楽とヨーロッパ音楽の教育が並行して行ない、かなりの成果を上げていた国(アラブ連合など)がありました。そして小泉氏は、伝統音楽を故意に避け、無視してきた日本の音楽教育は、他のアジア諸国の中でも極端な偏向教育であると指摘しています。小泉氏は、1960年代・70年代の音楽研究の国際的現状を、西洋人が東洋音楽を、東洋人が西洋音楽を研究する現状にあると分析しました。そして、その方向性を、ヨーロッパ音楽を普遍的価値を持つ音楽としてではなく、ひろく人類文化の問題として、限定あるローカルな表現として研究していく方向に定めるべきと論じました。その方向において新しい成果を見いだすには、東洋の側からアプローチしていくことが重要であるとしましたが、日本人はすでに西洋一辺倒の音楽教育によって、公平かつ客観的判断が困難になっている、として嘆いています。
音楽は、社会の発達とともに階層化するとされます。ヨーロッパ音楽教育を徹底した日本では、上層にヨーロッパ音楽、下層に邦楽・邦楽調流行歌という音楽の階層化が起こり、高学歴層はヨーロッパ音楽を好み、邦楽を蔑視するという状況にあると、小泉氏は分析しています。そのわりに、日本におけるヨーロッパ音楽は、教養・知識として、ある自己満足的趣味として受動的に享受されるに止まり、自らの生活からオリジナルな表現を閉め出しているとしました。また、一方の伝統音楽にも、教育体系から阻害されてきた経緯も相まって、基本的に、感受性は細やかな割に狭く、深い人間的表現を求めるまで包括的・総合的は求められないと、手厳しく批判を加えています。
小泉氏は、日本の伝統音楽の発展を阻害する要因として、音楽教育制度におけるヨーロッパ音楽の著しい偏重状態を一貫して指摘しています。現代ではどうでしょうか。小泉氏の論じた頃よりも伝統音楽を取り巻く問題は、現代では、見識の浅い私なんかでも、J-popなどの浸透によりさらに複雑化していると感じます。また、確かに教育指導要領には伝統音楽が編入されましたが、実際のところ、体系的な教育が行われているのでしょうか? 教材を単に並べるだけになっているならば、もともと科学的内容を教授する方法が、日本への導入過程で事典的・概論的知識の教授法へ変質した開発主義教授法の場合に感じるように、内容そのものを軽視することにつながってはいないでしょうか。
今日は日曜なので学食が開いていないので、昼食は「ほっかほっか亭」のスーパーのり弁当(490円)にしました。中身は、普通ののり弁当に唐揚げ弁当のおかずがついた、たいへんお得な弁当です。というより、今日言いたいことは弁当そのものではなくて、ほか弁の受付をしてくれたおかあさんについて。受付のおかあさんがおつりを渡す時、ふと手が触れました。その手はものすごく冷たく、たくさんのアカギレ・シモヤケを認めました。この人は間違いなくものすごくがんばっている、と直観。かなり感動。俺もがんばらないといけないな、という気になりました。
弁当を持って登校。今日はようやく勉強に専念できました。まず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史』(評論社、1995年・旧版1966年)の第三章「『開発主義』教授理論の理論的系譜」を読みました。これは、明治十年代において広く普及した開発主義教授法の理論的系譜を追い、その特質を明らかにしたものです。開発主義教授法は、教授方法に対応した内容の欠如というペスタロッチー(1746~1827)の直観教授理論の欠陥を、実生活にもとづく科学観に則って教授内容へ自然科学を導入した、ジョホノット(1823~1888)の教授理論を、東京師範学校長の高嶺秀夫や東京師範学校付属小学校が中心となって普及させたとされる教授法です。ただし、その理論的系譜に沿ってそれぞれの特質を検討していくと、ペスタロッチーからジョホノットに至る過程で、人間が自ら主体性を確立し独立するという社会観が希薄になり、ジョホノットから東京府師範学校附属小学校に至る過程で、諸科学の基礎としての教授内容から体系性・科学観の欠落した事典的・概略的知識としての教授内容へと変化したことが、稲垣著によって明らかにされています。
次に、寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』(学文社、1997年)の第一章である船寄俊雄「『文検』の制度と歴史」を読みました。これは、「文検」(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験)に関する法令と試験日程との対応関係を整理概論したもの(受験生についても少し書いてある)。よく整理されてあって、「文検」研究の基礎知識として重要な研究であると思います。ちなみに、先日書いたように、私はこの本を戦前教育学の研究書として読んでいます。なぜ、「文検」と教育学が関係あるのか。寺崎氏は、序章「なぜ『文検』に着目するか」において、大きく次の二つの目的を提示してます。すなわち、(1)「文検」の科目である教育科と「教育ノ大意」の分析によって政府公認の教育学の具体を明らかにすることと、(2)「文検」に関わった教育学者の参加実態(学説を含む)を明らかにすること、の二つです。その目的が達成されているかどうかは、今後読んでいくわけですが、「文検」が戦前日本の教育学を規定したのではないか、という仮説は、科挙によって中国の学問が多分に規定されたという中国科学史の研究成果と似ているように思います。先日読み終わった中山著によると、古代中国の学問は、科挙によって仕官のための学問として体系化されてしまったといいます。これは、もともと戦国時代に諸子百家が仕官のために諸侯に論じてまわった学問という、古代中国の学問の特質も関係しているようですが。「文検」における教育学も中等学校教員の資格試験のための学問であって、その意味では「仕官のための学問」ということができましょう。制度化された学問は、効率化されて学問内容の急速な深化が可能になる一方で、固定化されて創造性を失う(新しいパラダイムを生むことが難しくなる)といわれますが、戦前日本の教育学もそうなのでしょうか? 第二章以後、どのようなことが明らかにされているのか、気になります。
最後に、おおかた一ヶ月もほぼ休止状態にあった、邦楽の勉強も。今日は小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)の一章、「アジアのなかの東洋と西洋」を読みました。同書の他の章については、昨年12月11日の記事をどうぞ。「アジアのなかの東洋と西洋」では、アジア諸国における西洋音楽と伝統音楽の関係を見ることで、日本における伝統音楽のあり方を探った論考と見ました。以下、小泉論文の要旨です。
1960年代の伝統音楽に対する態度には、二つの異なった傾向が見られたそうです。第一の傾向は、西欧人が、東洋諸国における東洋音楽の古典的価値の軽視・喪失を強く警告していたこと、第二の傾向は、東洋人が、自身の伝統音楽の近代化(西欧化)を必然と感じていたことです。第二の傾向の延長上には、伝統音楽とヨーロッパ音楽の教育が並行して行ない、かなりの成果を上げていた国(アラブ連合など)がありました。そして小泉氏は、伝統音楽を故意に避け、無視してきた日本の音楽教育は、他のアジア諸国の中でも極端な偏向教育であると指摘しています。小泉氏は、1960年代・70年代の音楽研究の国際的現状を、西洋人が東洋音楽を、東洋人が西洋音楽を研究する現状にあると分析しました。そして、その方向性を、ヨーロッパ音楽を普遍的価値を持つ音楽としてではなく、ひろく人類文化の問題として、限定あるローカルな表現として研究していく方向に定めるべきと論じました。その方向において新しい成果を見いだすには、東洋の側からアプローチしていくことが重要であるとしましたが、日本人はすでに西洋一辺倒の音楽教育によって、公平かつ客観的判断が困難になっている、として嘆いています。
音楽は、社会の発達とともに階層化するとされます。ヨーロッパ音楽教育を徹底した日本では、上層にヨーロッパ音楽、下層に邦楽・邦楽調流行歌という音楽の階層化が起こり、高学歴層はヨーロッパ音楽を好み、邦楽を蔑視するという状況にあると、小泉氏は分析しています。そのわりに、日本におけるヨーロッパ音楽は、教養・知識として、ある自己満足的趣味として受動的に享受されるに止まり、自らの生活からオリジナルな表現を閉め出しているとしました。また、一方の伝統音楽にも、教育体系から阻害されてきた経緯も相まって、基本的に、感受性は細やかな割に狭く、深い人間的表現を求めるまで包括的・総合的は求められないと、手厳しく批判を加えています。
小泉氏は、日本の伝統音楽の発展を阻害する要因として、音楽教育制度におけるヨーロッパ音楽の著しい偏重状態を一貫して指摘しています。現代ではどうでしょうか。小泉氏の論じた頃よりも伝統音楽を取り巻く問題は、現代では、見識の浅い私なんかでも、J-popなどの浸透によりさらに複雑化していると感じます。また、確かに教育指導要領には伝統音楽が編入されましたが、実際のところ、体系的な教育が行われているのでしょうか? 教材を単に並べるだけになっているならば、もともと科学的内容を教授する方法が、日本への導入過程で事典的・概論的知識の教授法へ変質した開発主義教授法の場合に感じるように、内容そのものを軽視することにつながってはいないでしょうか。