先の記事にも書きましたが、今日は早起き成功。朝食を食べて、明後日の準備をするために即図書館へ。研究室にいると、なんやかんやとやらなくてはならないことが出てくるし、邪魔されると困るので、図書館で準備に集中したかったのです。必要なものを取りに研究室に寄ったら、修士論文をかかえた後輩が徹夜ごしで研究室にいたらしく、椅子を並べて寝てました。こいつもがんばってんね。
今日は、読書勉強かつ研究室事務。佐藤先生退官記念事業の案内を印刷したり、郵送したり。読書は、小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)を読み切り。従来の続きで、第二部「日本の音-伝統音楽への入門」の「琵琶楽」「能・狂言」「尺八とその音楽」「箏曲と三曲合奏」「三味線音楽」「大衆の邦楽」「現代邦楽」と、第三部「日本音楽の基礎理論」の「音素材」「音組織」「リズムと楽式」を読みました。
日本音楽の特徴は、音の高さや大きさを出すことには特には見いだせません。その特徴は、高さを加減したり、強さの表情をつけたり、拍に伸縮をつけたりすることに見られ、特に語りものの音楽の中に特に強く見られるといいます。三味線という楽器は、声や歌の文句を邪魔せず、メロディーを奏でると同時にかつリズムを刻む楽器で、歌や踊りの伴奏に非常に適した楽器です。三味線音楽は、日本人の生活のあらゆる面に密着していた音楽であり、最も庶民的なものが芸術的に結晶しているといいます。三味線音楽は、劇場(歌舞伎・義太夫)で、お座敷(長唄・浄瑠璃・端唄・小唄・都々逸)で、家庭(長唄・小唄など)で、農村(民謡・津軽三味線)で、さまざまな音楽的広がりを見せ、聴かれた場所やそれと結びついた芸事によって音楽の性格がいろいろに変わっています。盲人社会(京都に拠点があった)の音楽的表情を表した上方の地唄、華やかな江戸好みの長唄、といったように。
地唄は箏曲と密接な結びつきをもって発展していきました。箏曲の日本における発展は、二つの流れがあります。一つは、それなりの家庭の女子の教養としての流れ。もう一つは、盲人社会の独占職能としての地唄・箏曲の流れ。また、十六世紀に三味線の名手でもあった『六段』の作曲家・八橋検校によって、三味線音楽とも合流しました。箏曲は、盲人社会において、純音楽的・理論的構成美を備えた独特な音楽に発達していきました。その純音楽的な興味は、明治以後においても洋楽の影響や社会的・文化的変化に直面しても、力強く生き残っていくカギになったといいます。
箏・三絃・尺八(胡弓)による三曲は、西洋の音楽理論からすると一見無駄である奏法、すなわちほとんど同じような旋律を合奏します。その理由は、三曲が、女子の教養や盲人社会を背景として、家庭的・室内楽的性格と内的な音楽追求の性格を有しており、人に聴かせる音楽というよりも、演奏者自身が異なった楽器で同じような旋律を合わせる喜びを表すための音楽であるためとしています。
箏曲は、明治以降、西洋の音楽理論を積極的に取り入れて西洋化が進みました。そのため、西洋的な要素の強い現代邦楽においても、箏という楽器は目立っています。一方、一番日本的な音楽を奏でる楽器であるとされる三味線(日本の楽器になったのは遅くて十六世紀なのですが)は、民衆に深く結びついていただけに、伝統的なものと強力に結びついている楽器で、西洋音楽的な感覚・美意識などを表すことは非常に困難であるといいます。しかし、だからこそ、伝統的な要素が性格に活かすことができ、日本音楽を現代的(西洋的ではなく現代的)に発展させた音楽が生まれる可能性がある、と評価されています。
そこで、三味線音楽の美しさを純粋な形で保存しなければならない、と来ます。高度な芸術性を保つには、流派や家元制度といった芸術の維持制度が非常に適しています。しかし、これらの制度は、先日まで見てきた学問の制度化における大学と似たような機能をもっており、その音楽の担い手を固定化し、音楽の発展を阻害する機能も有します。ともかく、日本音楽の特徴を自分で体験し、より深く楽しみ、理解しようとする姿勢が一般的になってくると、これらの制度は向きません。そのような音楽姿勢に合致するのは、大衆邦楽(端唄・うた沢・小唄・明清楽など、もしかしたら今の演歌やJ-popもそうだったりして)が向いています。この閉鎖性が、ひいては現代邦楽(現代日本音楽)の問題点にもつながってきます。
現代邦楽をめぐる問題は、上記の問題に加えて、明治以降の西洋音楽の流入がさらに問題を複雑にしています。小泉氏が述べる現代邦楽の問題点は、整理されて次の五点。
第一は、【学問研究の不足】。傑作は生まれても、日本のよさも、西洋のよさも、どちらも持ち合わせない作品が生み出されていく問題。つまり、日本音楽の特徴や美しさの根源はどこにあるのか、哲学・歴史・近代科学的な学問的追究が足りない。
第二は、【作品の不足】。西洋音楽に造詣の深い作曲家が邦楽の作曲を手がけることが多くなったのはいいが、「洋楽畑」と「邦楽畑」という作曲家の二分化がおこってしまった。また、邦楽内部の細分化状態もそのままで、音楽の領域が細かすぎる。作曲家は、学問研究の基礎を作品に反映させる努力と、邦楽内部の分裂状態を乗り越えて幅広い表現技術を身に付ける努力をしないといけない。いわば、作曲家は学者であり、演奏家でなくてはならない、といったところか。
第三は、【民衆の支持不足】。現代邦楽の作品発表の機会は、はたして社会的要求を受けたものだろうかという問題の投げかけ。ここは一番説明が足りないと思う箇所だが、団伊玖磨氏との対談集『日本音楽の再発見』(講談社現代新書、1976年)で言っていたような、演奏会チケットを売りさばくために身内で売り買いしている状態などをいうのだろうか?
第四は、【現代邦楽の閉鎖性】。現代邦楽は、聴衆も含めた閉ざされた集団の中で、巧緻な作品を賞翫する雰囲気に支えられた状態にある。浅く広く音楽知識・経験を得ることで、それぞれのジャンルが持っていた独自の美しさを失わないように、一般大衆から高度に洗練された芸術家の美意識まで応えうる、広い音楽を目指すべきだという。現代邦楽の大衆化(マス化)を目指せ、といったところだろうか。
第五は、【過去と現代の根本的違い】。過去の日本音楽は、それぞれの分野でそれぞれの身分・階級が支えた。雅楽は貴族社会で、能楽は武士社会で、箏曲や琵琶は盲人社会で、三味線音楽は下層の町人社会が… しかし、現代に至って、それらを守り育てていく必要はない。現代では、一人の人間が個人としてありとあらゆる種類の音楽を同時に享受し、生み出していく社会的要求に音楽は支えられている。
日本人は、西洋音楽と比べて、日本音楽は特殊で未発達な音楽だと思いがちです。でも、西洋音楽すなわち近代ヨーロッパで発達した音楽理論に則った音楽もまた、ヨーロッパという特殊な地域で、近代という特殊な時代に構築されていった音楽です。小泉氏は、国際に通用する普遍的音楽であるとする西洋音楽の「信仰」とでもいうべきものを打ち壊し、伝統的な日本音楽を研究する意義を見いだした学者でした。今回読んだ『日本の音』のような著作も多いですが、『日本伝統音楽の研究1-民謡研究の方法と音階の基本構造』(音楽之友社、1964年・初版1958年)のような理論的研究や、世界中を飛び回って行った民族音楽の調査など、非常に優れた学問研究も進めました。『日本伝統音楽の研究』などは、全4巻を予定し、「日本のリズム」「旋律法」「楽器」の研究を進める予定だったようです。しかし、結局、『日本伝統音楽の研究2-リズム』(音楽之友社、1984年)が、1983年の著者死去後に親しく教えを受けたものたちによって出版されました。56歳という学者としては早すぎる死は惜しむべきでしょう。
今日は、読書勉強かつ研究室事務。佐藤先生退官記念事業の案内を印刷したり、郵送したり。読書は、小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)を読み切り。従来の続きで、第二部「日本の音-伝統音楽への入門」の「琵琶楽」「能・狂言」「尺八とその音楽」「箏曲と三曲合奏」「三味線音楽」「大衆の邦楽」「現代邦楽」と、第三部「日本音楽の基礎理論」の「音素材」「音組織」「リズムと楽式」を読みました。
日本音楽の特徴は、音の高さや大きさを出すことには特には見いだせません。その特徴は、高さを加減したり、強さの表情をつけたり、拍に伸縮をつけたりすることに見られ、特に語りものの音楽の中に特に強く見られるといいます。三味線という楽器は、声や歌の文句を邪魔せず、メロディーを奏でると同時にかつリズムを刻む楽器で、歌や踊りの伴奏に非常に適した楽器です。三味線音楽は、日本人の生活のあらゆる面に密着していた音楽であり、最も庶民的なものが芸術的に結晶しているといいます。三味線音楽は、劇場(歌舞伎・義太夫)で、お座敷(長唄・浄瑠璃・端唄・小唄・都々逸)で、家庭(長唄・小唄など)で、農村(民謡・津軽三味線)で、さまざまな音楽的広がりを見せ、聴かれた場所やそれと結びついた芸事によって音楽の性格がいろいろに変わっています。盲人社会(京都に拠点があった)の音楽的表情を表した上方の地唄、華やかな江戸好みの長唄、といったように。
地唄は箏曲と密接な結びつきをもって発展していきました。箏曲の日本における発展は、二つの流れがあります。一つは、それなりの家庭の女子の教養としての流れ。もう一つは、盲人社会の独占職能としての地唄・箏曲の流れ。また、十六世紀に三味線の名手でもあった『六段』の作曲家・八橋検校によって、三味線音楽とも合流しました。箏曲は、盲人社会において、純音楽的・理論的構成美を備えた独特な音楽に発達していきました。その純音楽的な興味は、明治以後においても洋楽の影響や社会的・文化的変化に直面しても、力強く生き残っていくカギになったといいます。
箏・三絃・尺八(胡弓)による三曲は、西洋の音楽理論からすると一見無駄である奏法、すなわちほとんど同じような旋律を合奏します。その理由は、三曲が、女子の教養や盲人社会を背景として、家庭的・室内楽的性格と内的な音楽追求の性格を有しており、人に聴かせる音楽というよりも、演奏者自身が異なった楽器で同じような旋律を合わせる喜びを表すための音楽であるためとしています。
箏曲は、明治以降、西洋の音楽理論を積極的に取り入れて西洋化が進みました。そのため、西洋的な要素の強い現代邦楽においても、箏という楽器は目立っています。一方、一番日本的な音楽を奏でる楽器であるとされる三味線(日本の楽器になったのは遅くて十六世紀なのですが)は、民衆に深く結びついていただけに、伝統的なものと強力に結びついている楽器で、西洋音楽的な感覚・美意識などを表すことは非常に困難であるといいます。しかし、だからこそ、伝統的な要素が性格に活かすことができ、日本音楽を現代的(西洋的ではなく現代的)に発展させた音楽が生まれる可能性がある、と評価されています。
そこで、三味線音楽の美しさを純粋な形で保存しなければならない、と来ます。高度な芸術性を保つには、流派や家元制度といった芸術の維持制度が非常に適しています。しかし、これらの制度は、先日まで見てきた学問の制度化における大学と似たような機能をもっており、その音楽の担い手を固定化し、音楽の発展を阻害する機能も有します。ともかく、日本音楽の特徴を自分で体験し、より深く楽しみ、理解しようとする姿勢が一般的になってくると、これらの制度は向きません。そのような音楽姿勢に合致するのは、大衆邦楽(端唄・うた沢・小唄・明清楽など、もしかしたら今の演歌やJ-popもそうだったりして)が向いています。この閉鎖性が、ひいては現代邦楽(現代日本音楽)の問題点にもつながってきます。
現代邦楽をめぐる問題は、上記の問題に加えて、明治以降の西洋音楽の流入がさらに問題を複雑にしています。小泉氏が述べる現代邦楽の問題点は、整理されて次の五点。
第一は、【学問研究の不足】。傑作は生まれても、日本のよさも、西洋のよさも、どちらも持ち合わせない作品が生み出されていく問題。つまり、日本音楽の特徴や美しさの根源はどこにあるのか、哲学・歴史・近代科学的な学問的追究が足りない。
第二は、【作品の不足】。西洋音楽に造詣の深い作曲家が邦楽の作曲を手がけることが多くなったのはいいが、「洋楽畑」と「邦楽畑」という作曲家の二分化がおこってしまった。また、邦楽内部の細分化状態もそのままで、音楽の領域が細かすぎる。作曲家は、学問研究の基礎を作品に反映させる努力と、邦楽内部の分裂状態を乗り越えて幅広い表現技術を身に付ける努力をしないといけない。いわば、作曲家は学者であり、演奏家でなくてはならない、といったところか。
第三は、【民衆の支持不足】。現代邦楽の作品発表の機会は、はたして社会的要求を受けたものだろうかという問題の投げかけ。ここは一番説明が足りないと思う箇所だが、団伊玖磨氏との対談集『日本音楽の再発見』(講談社現代新書、1976年)で言っていたような、演奏会チケットを売りさばくために身内で売り買いしている状態などをいうのだろうか?
第四は、【現代邦楽の閉鎖性】。現代邦楽は、聴衆も含めた閉ざされた集団の中で、巧緻な作品を賞翫する雰囲気に支えられた状態にある。浅く広く音楽知識・経験を得ることで、それぞれのジャンルが持っていた独自の美しさを失わないように、一般大衆から高度に洗練された芸術家の美意識まで応えうる、広い音楽を目指すべきだという。現代邦楽の大衆化(マス化)を目指せ、といったところだろうか。
第五は、【過去と現代の根本的違い】。過去の日本音楽は、それぞれの分野でそれぞれの身分・階級が支えた。雅楽は貴族社会で、能楽は武士社会で、箏曲や琵琶は盲人社会で、三味線音楽は下層の町人社会が… しかし、現代に至って、それらを守り育てていく必要はない。現代では、一人の人間が個人としてありとあらゆる種類の音楽を同時に享受し、生み出していく社会的要求に音楽は支えられている。
日本人は、西洋音楽と比べて、日本音楽は特殊で未発達な音楽だと思いがちです。でも、西洋音楽すなわち近代ヨーロッパで発達した音楽理論に則った音楽もまた、ヨーロッパという特殊な地域で、近代という特殊な時代に構築されていった音楽です。小泉氏は、国際に通用する普遍的音楽であるとする西洋音楽の「信仰」とでもいうべきものを打ち壊し、伝統的な日本音楽を研究する意義を見いだした学者でした。今回読んだ『日本の音』のような著作も多いですが、『日本伝統音楽の研究1-民謡研究の方法と音階の基本構造』(音楽之友社、1964年・初版1958年)のような理論的研究や、世界中を飛び回って行った民族音楽の調査など、非常に優れた学問研究も進めました。『日本伝統音楽の研究』などは、全4巻を予定し、「日本のリズム」「旋律法」「楽器」の研究を進める予定だったようです。しかし、結局、『日本伝統音楽の研究2-リズム』(音楽之友社、1984年)が、1983年の著者死去後に親しく教えを受けたものたちによって出版されました。56歳という学者としては早すぎる死は惜しむべきでしょう。