教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

実践研究における形式

2006年01月29日 19時33分31秒 | 教育研究メモ
 案の定、今日は目覚めたのは昼過ぎ。まあ寝たのが午前5時すぎなのでしゃあない(伊予弁?自分弁?「仕方ない」の意)。久しぶりに温泉「ホットカモ」へ行く。体調が万全じゃないのか、水分が足りないのか、かなり早くのぼせてしまいました。しかし、うれしいニュースが。上り調子だった体重が、ようやく1kg半ほど落ちてくれたのです(笑)。俄然食欲は旺盛なので、最近はおなかがすいてくると、ハクサイ・白ネギ・キノコ類・豆腐で「水炊き」を作って食べます。食欲を満たしてくれる上に太らない。友人に勧めてもらって、「えーめんどい」と嫌々ながら始めたのですが、効果はあったかな。ただ、その後遅い昼飯として、たこ焼きとポテトスナックを食べる。意味なし(笑)。汗かいたので塩分が欲しかったのかな?
 先に三味線の練習を一時間ぐらいやって、研究室へ行く。遅い登校でした。今日も稲垣著を読む。今日は第二部第二章第二節の「(三)教案および授業記録の検討」「(四)教師の教案観と授業批評会の実態」を読みました。(三)のほうは、明治二十年代後半から明治三十年代後半にかけて作られた小学校・師範学校による教案・授業記録を用いて、日本におけるヘルバルト主義教授法の主役である教授段階の適用状況を確認するという内容。当時の教案・授業記録がたくさん引用され、それらを教段形式の視点から批判しています。「予備」「提示」「比較」「総括」「応用」の形式に則って教案が書かれているけれど、それぞれの段階における内容が前後の段階と関係していないなど、するどく批判されています。実は私も研究上、明治二十年ごろの教案分析をしないといけない機会が控えており、その方法・視点など大いに勉強になりました。
 (四)のほうは、教員の教案観と授業批評会の問題を、教育雑誌に投稿された論説から読みとっています。明治三十・四十年代のころの教員は、第一に教授を意識化する形式としての教案観、第二に教案を方法として教材を内容として分離して捉える教案観を持っていたとされています。そのような教案観の下で、全国あちこちで授業研究会・批評会が開かれ、教案が形式に沿っているかどうかで批評されるという実態があったとか。そのため、稲垣氏は、明治三十・四十年代の授業研究会・批評会を、「教師に授業の定型をモデルとして提示し、あるいは、モデルの確認をもとめることによって、教授の様式を普及せしめる機能」を果たし、「真の研究」すなわち「教授の理論を形成する可能性をもつことなく」教員たちの研究エネルギーは消費されていったと結論づけています。教員による研究活動の歴史を明らかにしたい私としては、非常に興味深い結論でした。
 さてさて、上記の(四)にある記述ですが(同書299頁)、「形式を実践そのものの対象化において成立する技術のシステムとしてとらえる観点」という一文の意味わかりますか? 稲垣著は、今日読んだ部分より後ろの章節で理論研究を進めていくので、さらに読み進めていけば理解できるのでしょうが、とりあえず読んでいて私はひっかかりました。「形式」というのは稲垣著が追求する最も重要な概念だと思いますが、その意味するところは「実践そのものの対象化において成立する技術のシステム」である、というわけです。うーん、「形式」=「実践を、分析可能な対象に変化させた技術構造」と読み替えていいのかな? であれば、実践研究は「形式」の把握によって開始される、とか言えそう。これから先、読み進めて確認していきましょう。妄想かもしれませんのであしからず。
 さて、今日はNHK大河ドラマの「功名が辻」を見なくてはいけないので、早めに帰ります。今年のは、久しぶりにはまってしまいました(笑)。若手の良い役者さんがたくさんでてておもしろいっす。仲間さんが美しい。最近滑舌がよくなってきていて、さらに良し。途中の時代説明もわかりやすくて良し。ドラマは史実だとは思ってないので、時代考証はかんに障らなければいいのですが、とりあえず「桶狭間」は「丘」であり、「山内」が「やまうち」と読まれているのでちょっと歴史マニアとしては喜ばしい限り(笑)。
コメント
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