教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

早起きだけどいつもと同じ?

2006年01月11日 19時45分23秒 | 教育研究メモ
 今日は自然に7時起き!がんばるぞぅ
 ということで、洗濯物干したり朝飯食ったりして、学校には8:30ごろ着きました。メールやら事務仕事やらを処理して、久しぶりに図書館へ。図書貸し出しの延長が目的だったのですが、あまりに久しぶりなので、先行研究などを集めたり。研究室に戻って昨日からの続きの読書勉強をするかと思いきや、ずっとほったらかしになっていた資料を製本(くるみ製本、一冊600円ぐらいになるのかな?)に出したり、すでに製本に出していた資料を引き取りに行ったり。気がついたら昼。いつものことをする時間は、いつもと同じ時間から始まることになってしまいました。うーん、なんか損した気分です(笑)。
 今日もまず、稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』から。今日は、第二部第一章「『ヘルバルト主義』教授法の導入と展開」の、第一節「『開発主義』教授法の持続」(明治20年代前半期の文部省検定教授法教科書の特徴を分析)、第二節「『ヘルバルト主義』の導入(一)」(明治20年代後半期の…以下同文)、第三期「『ヘルバルト主義』の導入(二)」(明治31年…以下同文)を読みました。簡単にまとめれば、明治十年代末から20年代前半にかけて開発主義教授法の系列に属する教育書が「正統」の地位を与えられていたこと、明治二十年代後半の教育書にあらわれたヘルバルト主義教授法は帝国大学ハウスクネヒト門下のルート(教授理論の導入)と高等師範学校のルート(段階の導入)の二つの経路から導入されたこと、明治31年以降の教育書にあらわれたヘルバルト主義教授法は小学校教則大綱との形式的な結合を強化して元のものに比べて屈折・変容していること、が明らかにされてます。
 寺崎昌男・「文検」研究会編『「文検」の研究』は、第三章「『文検』と教育学者」の第一節「『文検』に関わった教育学者たち」と第二節「委員と試験問題」を読みました。まとめれば、「文検」教育科の試験執行を担当した委員は、特定の学校(東京帝大・東京高師・東京女高師、1916年以降は早稲田・慶應)の教員が担当し、試験問題は彼等の学問傾向・関心に強く影響を受けたということが明らかにされています。ただ、他の科目(地理科が例に挙がってる)に比べれば、教育科の問題傾向はそれほど委員の人物に左右されなかったとか。基本的には、常に当時の新しい教育思潮や理論(外国輸入)の実際への適用に気が配られた問題傾向だったそうです。
 最後に、明日の教育史研究会のテキストを読みました。
 んー、舌にできたできものがイタイ…
コメント
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