教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「足りない!」って気分

2006年01月30日 23時55分55秒 | Weblog
 今日はちょっと風邪気味。そのため、起きたくなかったので昼起き。ダメだなあ…
 登校後は、まず「大日本教育会・帝国教育会の群像」の執筆。今日は、松岡ミチさん。前回書いた山中さんが運営していた広島(山中)高等女学校の校長さんです。両会には女性会員も何人かいます。会内部に強情な男性主義者もいたのですが、逆に女権論者(?)もいたようです(拙著「明治二十年前後における大日本教育会の討議会に関する研究」『広島大学大学院教育学研究科紀要』第三部第53号、2004年、103~111頁参照)。会の方針としても、女子教育の重要性を提唱していましたし(裁縫科などの講習会を開いたりしています)。とりあえず、初の女性群像。
 「群像」を書いた後、これまで取り損ねてきた資料を収集に図書館へ。戻ってきてからは、両会の会計データを打ち込んでいました。始めるのが遅かったので夕方になるのが早く、読書はなし。今日の感想を一言でいえば、「足りない!」って感じです。
 と思いながら帰宅。その後、斎藤毅『明治のことば-文明開化と日本語』、講談社、2005年(旧版1977年)をとばし読み。第一章「明治の日本語-東から西への架け橋」、第二章「東洋と西洋」、第五章「社会という語の成立」、第十章「哲学語源-□儒略から西周・三宅雪嶺まで」、第十一章「主義という重宝なことばの誕生」、第十二章「学術と政治の発達に貢献した演説」を読みました。この本は、日本の学問が西洋近代科学の概念を受容する過程で、近世以前の宋学・朱子学の学問的伝統を受けてさまざまな日本語による訳語を生み出したという事実を明らかにした本です。西洋の概念をそのまま西洋の言葉で表そうという向きもあったのですが、それでは知識人とそうでない人々との間に障壁ができてしまう(知識人の考える話すことと一般人のそれとがまったく違うものになってしまう、二分化されてしまう)、という考えがあったため、急進的な考えは一般的なものにはなりませんでした。もちろん、日本語といっても、すでに帰化していた漢字・漢語によって訳語が作られていったわけですが、その意味はもともとの中国のものとは微妙に違うものとなっていったようです。
コメント
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