教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

学校教育の評価と人間の数値化

2006年12月12日 20時28分14秒 | Weblog
 三日も休んだので、今日はがんばる。
 午前6時頃、目が覚め、眠気で動けないということもなかったので起床。すき屋で朝食を摂ってから登校。まずメールを確認すると、150通も来ている。しかし、ホントに要件があるのは1通のみ(苦笑)。迷惑メール多すぎ!
 午前8時半、図書館が開いたので『教育』を読みに行く。今日は、教育科学研究会編『教育』第56巻第11号、国土社、2006年11月を読む。特集は「教育課程はどう変わろうとしているのか」、小特集は「自由で個性的な私学のいま」。まず、巻頭にある「扉のことば」の言葉の端々に対して多少違和感を感じながら、教育基本法と学習指導要領改訂の問題を国家による国民の思想と学力の統制の問題として捉えていることを確認。今度の法改正審議の目玉の一つは、学校における関心・意欲・態度形成を国家の管理の下に推進しようとする動きのようですが、まあ、国民国家の義務教育下では出てくるのもいたしかないように思う(それ自体を問題にすべきだ、という考えは出てこないのかい)。しかし、いくつかの論文も述べているけど、関心・意欲・態度の評価方法については心配が残る。少なくとも、数値評価には反対したい。というのも、そもそも関心・意欲・態度を数値で評価するのは無理があるし、ましてや数値化できるものだけ評価するならば、評価視点を数値化できるものに限る上に、実践内容をその限られた枠の中に押し込んでしまうことにつながり、学校教育の質そのものを低下させかねない。合理的・科学的な評価を追求すればするほど、非合理的・非科学的にしか評価できないものは学校教育から脱落していくのではないか。しかも、脱落していくものの中には、人間にとって大事なものがあるように思う。それはなにかって? 今は勉強不足なので、「人間らしさ」としかいいようがないけど。教育の評価を数値化することは、人間を数値化することと同じ事。数字で表せる人間って、気持ち悪いなぁ。数値化できないなら、いかなる評価方法をとるのか。なるほど大問題だ。
 10時半から運動へ。戻ってきてからは、読書しながらY先生の課題。かなり手こずり、ほとんど進まずちょっと不満。
コメント (2)
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