まったりと脱力して終わりなき日常を生きることができる、と多くの若者が錯覚している間に、世界は北極の氷も溶け、ヒマラヤの氷河も溶け、IPCCの深刻な警告にもかかわらず 1)、洞爺湖サミットはしないよりはいいけど……程度の合意で終わり、石油価格も食糧も高騰し、多くの人々が飢えに苦しみ、死に……という危機が深まっています。
しょっちゅう人身事故で電車は止まるのですが、しばらくするとまた動き出し、秋葉原では何事もなかったかのように電気製品が売られており、教育委員会や校長・教頭が汚職をしているのが発覚し、どうもそれは氷山の一角に過ぎないらしく……と、私たちの時代は、一見、先行きが見えないように見えます。
しかし、私たちが賢くなれば、先行きというより、行き先はある、というのが私たちの考えです 2) 3)。
そんな状況の中で、宗教改革者マルティン・ルターのものと伝えられる言葉を思い出しました。
40年も前に、大学生の頃、先生から教わって深く記憶に残っているものです。
「明日、世の終りが来るとしても、私は今日、一本のリンゴの木を植える。」
"Wenn morgen die Welt unterginge, wurde ich heute ein Apfelbaumchen pflanzen."
とても美しい、励まされることばです。
「明日、世界が滅亡するとしても、私は今日リンゴの木を植える」という訳もあるようですが、私はein 、「一本の」が入った訳のほうが好きです。
ルターは、もちろん神を信じ、世の終末には神が正しい裁き(最後の審判)を行なって、人類史の不条理にすべて決着をつけてくれることを深く信じており、しかもその終末がいつ来るかは神のみぞ知るであって、自分の知りうるところではないと思っていたからこそ、こういうことばを語ることができたわけです。
それに対して私たちは、コスモスの進化には終わりがないということを科学的に認識しているので 4) 5) 、もし現代文明が壊滅状態になったとしても、「それでもコスモスの進化は止まらない」というゆるぎなき安心感をもって、このことばを味わいなおすことができます。
もし、まもなく現代の地球文明がそうとうな壊滅状態になるとしても、私は今日、その先の世代のために自分たちにできることをする。
しかも、私(ひとり)にできるささやかなことだけでなく、私たちにできる、できるだけ大きなことをしたいと思っている。
それにあわせて、60年代のフォークソング、ピート・シガーの歌詞、「一人の小さな手、何もできないけど それでも みんなの手と手をあわせれば 何かできる 何かできる…」も思い出しました。
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