あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことあるかを、わきまえ知るべきである。
(新約聖書『ローマ人への手紙』第12章2節、聖書協会訳)
現代の日本は、ばらばらコスモロジーをベースにした競争社会です。
そして、建前としてのヒューマニズムと民主主義がきわめて空洞化し、本音としてのニヒリズム-エゴイズム-快楽主義が社会のあらゆる部分を腐食させている社会だといっていいでしょう。
最近多発している無差別殺人は、自他のいのちの意味を無視し、倫理をまったく無視しているという意味で、まさに「ニヒリズム犯罪」だと思われます。
そういう社会の中に私たちの日常はあります。
ですから、そこで日常に流される・日常に埋没するということは、そうした社会のあり方を容認する、さらには無意識で加担するという結果になります。
それは「茹で蛙」風な社会のゆるやかだが恐るべき崩壊のプロセスを止めるどころか、促進することにさえなるでしょう。
もしそれを望まないのならば、私たちは日常性に埋没してはいけません。
絶えず、繰り返し、新鮮に、何が Something Great の意思か、コスモスの進化の方向か、気づきなおす必要があります。
そして、持続的な自己成長-自己変革を遂げながら、「みんなやっている」かどうかではなく、コスモスの理に照らして善かどうか、十分・十全なことかどうかをはっきり認識し、それに沿って日々を営む努力をしていく必要があります。
流れに抗する生き方というのは、流れに流され埋没するのに比べて、大きな苦労のある生き方です。
しかし同時に、心の奥底(ラディックス)で Something Great と一体であるという根源的(ラディカル)な生きがい・喜びを感じることのできる生き方であることもまちがいありません。
どうせ一回の人生、楽で空しい人生をやり過ごしてしまいたいのか?
それとも、苦しくても完全・完成を目指して生きて、最後に「神のみもとに帰れる」と安心・納得して死にたいのか?
こういう聖書のきびしい問いをまともに受け止めたところに形成されたのが、プロテスタンティズムの精神だといってまちがいないでしょう。
そうしたプロテスタンティズム的精神は――もちろん原理主義的なかたちではなく、そのエッセンスが――現代の日本にぜひ必要なものなのではないでしょうか。
プロテスタント的「神仏儒習合」の再構築といってもいいでしょう。
学べば学ぶほど、プロテスタントの国々だった北欧が「持続可能な社会」に限りなく接近できているのは、ノルディック・デモクラシーももちろんですが、そのベースにある民族的エートスとしてのプロテスタンティズムという精神的遺産の力によるところが大きいと断定してまちがいない、と思うようになっています(その内容はおいおいさらに書いていきたいと思っていますが)。
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