人生の質に関する損得勘定をしてみよう

2008年07月31日 | 生きる意味

 7月26日の記事にいただいた2人の方のコメントに対してお出しした宿題への、私の回答です。読者のみなさんと共有するために、コメント欄ではなく、記事にしました。

 私たちは、「わかっちゃいるけど、やめられない」(ずっと昔の植木等の歌の一節……知らない人は知らないでしょうねえ)ことがしばしばあります。

 それは、なぜなのでしょう。私は、唯識を学ぶことによって、なぜなのか、すっぱりわかりました 1)

 「自分のことは自分がいちばんコントロールできるはずなのに」、できないのは、意識的自分よりも無意識的自分、つまり唯識でいう「マナ識」 2) のほうがはるかに深くて強いからだ、と思われます。

 人間の自己/心の中には、「わかっている(つもり)の自己」・意識の領域と「実感できない自己」・個人的無意識の領域というある種の分裂があるようです。

 変わったほうがいいとわかっていても、変わるのがむずかしい、変われない、変わりたくない、と感じてしまうのもおなじ理由で、自分でこれが自分だと思い込んでいること、なかば (以上?) 無意識的で自明化されたアイデンティティがあるから、つまり「マナ識」のせいだといっていいでしょう。

 それをコントロールする、あるいは変えるためには、ある意味でマナ識の「裏をかく」必要があります。

 まず、意識がマナ識を受け容れてあげることです。「そうか、そういう気持ちなんだね。気持ちはわかるよ」といった具合に。

 続いて、「でも、それで気持ちはいいのかなあ。私(意識)はとても気持ちが悪いんだけど。気持ちが悪くても、私の気持ちである以上は、変われない、変わりたくないのかなあ? どうしても変わりたくなかったら、もちろん変わらなくてもいいんだけど……」

 「でも、変わったほうがいいんじゃないかなあ? 私たち(意識とマナ識)がいい気持ちに変わるという私たち自身の未来の利益のために……」というふうに説得していきます。

 「変わらなければならない」と強制されると、固まったアイデンティティ、マナ識は抵抗しますが、「変わらなくてもいいけど、変わったほうがいいんじゃないかな?」と自由な選択だといわれると、気が楽になり、意識に従って合理的な行動を採る気になったりします(なかなかならない場合もありますが、まさに「変わらなくてもいい」んです)。

 さらに、マナ識に「人生は有限である」 3) という事実を示すといいでしょう。

 私たちのマナ識は、自己という実体があると思い込んでいますから、自己は永遠に生きることができる……できないにしても、当分は死なないと思っていて 4) 5) 6) 7)、考えないで悩んでいる時間も有限な人生の貴重な一部であって、いやな気分で過ごすことは大きな損失だという自覚を持ちにくいのです。

 「有限な人生を、楽だけどいやな気分のまま過ごすのと、少し努力が必要だけど変わることによって充実した楽しさを味わいながら過ごせるようになるのと、どっちが得かな?」と、マナ識に問うてみましょう。

 マナ識は、自己の損得にはきわめて敏感ですから、損得計算がちゃんとできたら、本気で変わりはじめます(絶対にではないが、多くの場合)。

 マナ識は、倫理的義務で強制されるより、損得勘定を考えて自分で納得するほうが、はるかに効率的に変わること・コントロールができやすくなるようです。

 有限の人生の持ち時間をムダに浪費したくない方、まず人生の質に関する損得勘定をしっかりやってみて下さい。

 「損得勘定なんて、面倒くさい。出たとこ勝負だ」という方は、それで人生の勝負をやってみて下さい。

 出たとこ勝負で大失敗・大損失というケースがきわめて多いように、私には見えるので、せっかくコスモスから委託されたこの人生の有限の時間、とてももったいない気がしますが、余計なお世話かもしれません。





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コメント (5)
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