中野市の旧陣屋で、吊るし雛の展示が行われていた。
確かに雛祭りは女の子の節句だ。
会場には、しかしおばさんばかりが多数押しかけていた。
男など一人もいない。
吊るし雛は干支や子供の姿などかわいいものが多かった。
ここ、中野市は僕が高校に3年間通った町。
北にカーテンの裾を広げたような高社山、西に雄大で厳かな北信五岳。東に桜が美しい東山。
どこか爽やかな風が吹き抜けるこの街を北の街と呼んで、美しい物語を編んだ。
40年以上も前のことなのに、今でもこの北の街を歩いていると胸の奥が切なく疼く。
折しも、今日は卒業式なのだろうか。
僕の通った学校は女子高と合併して大層な名前に変わってしまった。
校門から出てくる生徒たちは明るくて、紛れもなく未来を信じているという顔をしていた。
10代の少年の殺害事件が一方にはあり、そのことは忘れてはいけないのだが、しばらくは横に置いておこう。
大人というものは希望も、絶望も両方を胸の奥に抱えているものだ。
一人の人間の中に神もいれば悪魔も住んでいる。
卒業以来長い時間をかけて、そのことを学んできた。
僕の家は貧しかったので、奨学金を受けていた。
当時授業料は月に800円だったが、1,500円が支給された。
支給日には自分で街中の銀行まで受け取りに行った。
その帰り、小さな書店に立ち寄り文庫本を何冊か買うのが楽しみだった。
岩波の文庫本が星ひとつが50円の時代だった。
その店には僕と同年代の女の子が定時制に通いながら店番をしていた。
とても感じの良い人だったが、それほど親しくなることは無かったが、お気に入りだったのだ。
そんなことを色々と思い出しながら、かみさんの手前ぐいぐいと歩く。
3月、街はどことなくほこりっぽくて、強くなり始めた陽光が柔らかな空気の向こうに、ランボーの詩のようなカーテンの裾を閃かせた高社山を浮かび上がらせる。
今、現実にあるこの北の街と僕の心象風景の中にある北の街が二重写しになる。
大人になるということはそういう重層的な眼を持つことだ。
愛と憎しみと、優しさと冷たさと、勤勉と怠惰と、歓喜と哀しみと、希望と絶望。
全てを抱え込みながら、それを自律的に制御するものが大人なのだ。
とても、とても難しいことだけれども。
一日の終わり、熱い湯につかれば悩みも疲れも取り敢えず横に置ける。
毎晩通う温泉は標高900メートル。
まだまだ、雪に包まれている。
春が近くなると食べたくなるもの。
フキノトウとワサビ漬け。
フキノトウはまだ採れないので、ワサビ漬けを取り寄せた。
色々な店の色々な味があるが、小笠原のワサビ漬けが一番の好み。
使う酒粕によって味がずいぶん違う。
小笠原のワサビはもたーとした甘さがなく、爽やかに辛い。最高だ。
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