しゅぷりったあえこお nano

ブログ版 シュプリッターエコー

つらい伊藤和也さんの死―アフガニスタン

2008-08-28 23:36:18 | 地球
 アフガニスタンで住民の中に入って地道に農業の支援活動をおこなっていた伊藤和也さん(31歳)が、反政府の武装グループに連れ去られて殺害されました。
 ぼくたちは新聞やテレビの報道でしか事情がわかりませんから、もうひとつ真相がつかめませんが、大変いたましいことです。
 残念なことです。
 個人の真剣で献身的な心や行動もそのまま善意としては受け止められず、政治的な眼鏡で見られて命さえ狙われる時代になってしまっているのだと、つらい思いにとらわれます。

 こういう世界をぼくらはどんなふうに考えたらいいのでしょう。

 ぼくら一市民の思いなど、結局のところ何の役にも立ちませんが、この事件ではこんなことも考えないではいられません。
 もし日本の国が世界からこんなふうに見られていたら、それでも事件は起こっていただろうか、と。
 つまり、日本が本当に世界の平和を追求する国で、それを実現するために、自分たちの頭で一生懸命考え続け、世界のすべての国々と等距離の外交を結び、軸がブレることなどなく常に人類の理想を訴え続ける、そういう国だとすれば、それでも伊藤さんは殺されただろうか、と。

 そうだとすればたぶん殺されずにすんだのではないかと、甘い考えかもしれませんが、そんなふうに思うのです。
 せめてそれが最後の希望だとも思うのです。  

 残念ながら、今の日本はそういう国ではありません。
 自分の頭で考える代わりに、外交の根幹はアメリカに任せています。
 等距離外交からはほど遠く、ほとんどアメリカにべったりで、アメリカの言いなりです。
 世界の将来像についてはまったく日和見(ひよりみ)的で、世界の平和について日本の首相がなにか積極的な理想を訴えるところなど聞いたことがありません。
 何を言うにもアメリカに気をつかって、どこかおずおずとしゃべっているようなけはいです。

 世界のどこから見ても、今の日本はアメリカの片棒をかついでいるとしか見えません。
 
 個人としては何の政治的な意図もなかったとしても、日本から来ているというだけで、アメリカの影がそこにつきまとってくるのです。
 個人の自立や決断まで、色眼鏡で見られてしまうということです。
  
 ということは、日本政府にアメリカ追随を許しているぼくら市民にも、伊藤さんの死に対して大きな責任があるのではないでしょうか。
 それを認識することこそ、ぼくたちが伊藤さんに示せる最小限の哀悼ではないでしょうか。

 と言っても、ぼくらのようにせいぜい選挙のときにたった一票を投じる力しかないものはこうして心の中を語るほか、ほかに何の行動もできませんが。