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グロテスクな白鳥の湖―ブラック・スワン

2011-05-29 18:39:00 | 映画
 映画「ブラック・スワン」(黒鳥)を見ました。
 あとでインターネットで検索すると、スリラー映画という区分けで紹介されていました。
 それなら、まあ、ひとまず納得なのですが、その方向にはドシロウトで、クラシック・バレエの世界がどのように表現されているか、そこの興味から映画館に行ったものですから、過剰な血にいささかヘキエキしました。

 バレエ「白鳥の湖」では、白鳥(オデット)と黒鳥(オディール)の二役をプリマ・バレリーナがどう踊り分けるか、それが大きな見どころになります。
 白鳥は純粋な魂の犠牲者です。
 黒鳥は暗黒の魂の誘惑者です。
 映画「ブラック・スワン」の主人公は、白鳥は完璧に踊れるのですが、黒鳥の暗黒面の表現がどうもうまくできません。
 それをどうクリアするか、それが映画の骨格になっています。

 ひとつは「女」としての経験を深めること。
 もうひとつは女として母親からの自立を遂げること。
 映画で展開されるプログラムはこの二つです。

 娘に夢を託している干渉過剰な母親からぐいぐいと自立を遂げていく、そこの描きかたはなかなかのものでした。
 いっぽう、「女」として深まっていくそこの構図は安易でした。
 振り付け師が、体の魔性を目覚めさせようとしてのことでしょう、自慰を命じるところなどは、どうも、ちょっと浅薄です。
 
 実際のところ、現実のバレエ表現で重要なのは、98パーセントまで技術です。
 黒鳥の誘惑も、舞踊の技術を最高度に高めることによって、完璧な誘惑となるのです。
 そこに「女」を売り物にするような生臭さが混入すれば、もっとも肝要な舞台の高貴さがかえって失われてしまいます。
 少なくとも現代のクラシック・バレエの舞台では、この高貴さが最重要な柱です。
 それが現代のクラシック・ファンの好みです。

 ダンサー自身の「女」性と舞台上の「女」との間には、むしろ距離が必要です。

 とくに日本の舞台芸術では、この微妙な距離をないがしろにはできません。
 「役になりきる」ということをよく言いますが、それはひるがえっていえば自分を無にするということです。
 歌舞伎でも能でも狂言でも、すぐれた役者は決して自分が「女」になろうなどとは思いません。
 「女」ではなく「女の型」を完璧に、むしろクールに演じること、そこに全力をかけるのです。 

 映画「ブラック・スワン」の苦さ、それはたぶん、せいぜい2%くらいにしか過ぎないものを98%にまで引き延ばした、その過剰な転倒のせいだったように思えます。
 過剰な転倒はしばしばグロテスクなものに変わります。
 ただ、これがスリラー映画だとすれば、そのグロテスクさの深さにおいて映画は成功をおさめているわけで、アロノフスキー監督へのこれはほめ言葉になるのでしょう。  

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