夕刊紙(タブロイド紙)の見出しはいつもセンセーショナルなものが氾濫しています。そして言い訳の為か見出しの最後に小さな文字で「・・・か?」とあります。書かれている内容は事実と異なる記事が多々ありますが、この「・・・・か?」で無罪放免では、報道された被害者は救われないのではないでしょうか。そもそもこの「・・・か?」は見出しの割には字が小さく、さらに最後に付くため、駅の売店の新聞(竹の子積み)では見えません。昔からある大きな板に血を着けて「世にも稀なる大イタチ」という呼び込みと同じ類のものです。少なくとも報道≒マスコミとなっている現在、それはジョークとして受け入れるべきものなのでしょうか。少なくとも電車の中ズリ広告などでは、この方法は大いに問題があります。その夕刊紙(タブロイド紙)を買わない方はそれがジョークとは理解し難いからです。
夕刊紙(タブロイド紙あ)が報道を標榜するのであれば、これは由々しき問題です。少なくとも記事の裏は取れているのでしょうか。殆どが我田引水的な理論の基に屁理屈ならべマスコミ(自ら)の力で反対意見を封殺しています。
責任をとらない巨大な権力はまさに「無冠の帝王」です。夕刊紙(タブロイド)紙の存在意義は娯楽でありそれ以外にあるとは思えません。「政治の監視」と言う本来の報道の目的からかけ離れています。このようなタブロイド紙にも「報道の自由」と言う日本国憲法では明文化されていない考えが、自然権として社会で幅をきかせてよいものでしょうか。
夕刊紙(タブロイド紙あ)が報道を標榜するのであれば、これは由々しき問題です。少なくとも記事の裏は取れているのでしょうか。殆どが我田引水的な理論の基に屁理屈ならべマスコミ(自ら)の力で反対意見を封殺しています。
責任をとらない巨大な権力はまさに「無冠の帝王」です。夕刊紙(タブロイド)紙の存在意義は娯楽でありそれ以外にあるとは思えません。「政治の監視」と言う本来の報道の目的からかけ離れています。このようなタブロイド紙にも「報道の自由」と言う日本国憲法では明文化されていない考えが、自然権として社会で幅をきかせてよいものでしょうか。