毎度キモい話ですみません。
弓月光という漫画家がいますが、あま、ぼくらの世代(どの世代だ?)は名前程度はたいてい知っているのではないでしょうかね。どんな漫画を描いていたかは正確には知らなくても、たしかあんな漫画を描いていた感じの人とか。名前から浮かぶのではないかと。
それが、たわわネタに参戦して、気持ち悪さを開陳しているというわけですね。
弓月光の対象を見る
弓月光の対象を見る/見ないの話、最初からひたすら自分から見た世界しか存在しなくて、そこにいる対象の人格まで想像が及んでない(ふりをする)のが幼稚すぎるし、こうして同調しているような性表現を長年扱ってきたマンガ家たちが結局何も分かっていないことも同時に露呈していてキツい。
弓月光の発言はスクショになっています。
そこらへんのキモオタ(野良キモオタ)と基本的には変わらないんですが、弓月光の場合、これで漫画家ですからね。漫画のためとか、頭の悪い多義名分が付いてくるんですよ
そしてキモオタがアシスト。
アラーキーを擁護した「おっさん」達と同類ですかね。被写体の人格を否定する行為によって撮った(彼らによると)「芸術」を持ち上げる「おっさん」達と。
対象について一切考慮していないんですね。
美大で学ぶ皆さんのお言葉。
美大生だけど
わたし美大生だけど「スケッチをするときは相手を不快にさせないことが一番だからね」て習ったよん
美大の講義
美大の講義では創作活動の中で他者に危害を加えない事を何よりも最優先するべき、創作自体の功罪を何度も口酸っぱく叩き込まれるんですよね
人として正しい教えですね。
弓月やその擁護者みたいに「創作活動だからいやな思いをさせてもオッケー」みたいな
顧客と顧客になりえる層からドン引きされたハトクロの社長ですが、考えを翻しました。
HEART CLOSET
HEART CLOSETは胸が大きい女性が自分らしく自己表現するのを支援するブランドです。
他者を勝手な判断で性的だと判断し、性消費する行動や言葉を押し付けないでください。
各々が胸が大きい女性の主体性を尊重し、尊重されるべきです。
切に、お願い申し上げます。
ハトクロの顧客がキモオタ主体だったら今までどおりの対応だったかもしれませんが、さすがに無理がありすぎます。
たわわの漫画なら作者は差別主義丸出しですし、「読む」層もそれに抵抗のなさそうな人々ですから、まあ、一致しているでしょうが、ハトクロはそうはいかないでしょう。
しかもすでに購入している人たちががっかりしていましたからね。救われるでしょう。
ここで安部公房さんにお出ましいただきませう。
見られることには憎悪がある
見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、今度は見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ 『箱男』
「箱男」の話なんですが、「見られることには憎悪がある」ことがキモオタ糞オスにはわからないわけですね。
まして性的にみられることは耐えがたい人が大勢いると思うのですが、宮台真司あたりには全くわからないようですね(あいつは気持ち悪いね)
ところで、この安部公房の言葉には、補足があって
見るということはたいていは一人称だ。ところが、覗くと一人称でなくなる、つまり人称がなくなる。三人称ではないが疑似三人称化されるんだ。特に、覗かれている相手が、覗かれていることを意識していない場合にはね。ところで、小説というのは本来覗き的なものだ。とにかく作者が三人称で書くんだからね。まさに覗いている人のポジションじゃないか。覗くということを分析しようと思ったら、覗かれる立場の分析も抜きに出来なむりがありすぎいね。人間のコミュニケーションというのは、考えてみると、面的であるよりも、意外に点的なものなんだ。
-安部公房「都市への回路」
これをもって、電車で女子高生の胸を性的にみること「覗き」扱いしようとしているおバカなキモオタがいましたが「覗かれている相手が、覗かれていることを意識していない場合」という部分が読めないようですね。
キモオタの識字率もかなり低いようですし。
安部公房は、小説を書く行為を「覗き」にたとえているんですよね。
疑似三人称化というのも。しかし、それが仮にその通りであるとしても、言うまでもなく「覗かれていることを意識していない場合」であって、日経の全面広告に、「サラリーマンは電車で女子高生の胸を見て元気になりましょう」とおおっぴらに言っているのに、除きもくそもないですからね。
それは完全に見る行為です。当然、女性のほうは見られいるし、それを強く意識するような広告をわざわざ日経が出したわけですから、憎悪の対象になるに十分ですね。
アベノミクスをヨイショし続けてきた(経済が特に苦手な)日経新聞は早く潰れてください。
キモい糞オスって、「見られてうれしいだろ」と思っているわけですよ。「男に性的にみられることは女にとってうれしいことなのだ。」
デリカシーも、もちろん文学的素養もない頭の悪い生き物というだけですね。あれらは何で生きてるんですかね。
旧ソ連&その後のロシアにいたタチアナ・ニコラーエワさんというピアニストは、ソ連崩壊後に割と表に出てくるようになったようなのですが(全く外に出なかったわけではない)、同時代に同様の女性ピアニストがいてやはりゴールドベルクの名演を残していたのを思い出して探しているのですが、見つかりません。
50年代後半に、グールドの81年版と同じようなテンポのアリアを弾いていて驚いた記憶があるんですが、どうもその演奏(ピアニスト)を見つけられません。
探している途中で、旧ソ連の女性ピアニストの演奏をいろいろ聴いたので、今日はそちらを。
Bach - Goldberg Variations, BWV.988
Maria Yudina 時代的に少し前ですが。
音楽院ではショスタコービッチの同級生ということで。
Chopin - Polonaise-fantaisie
Elisabeth Leonskaja 時代的には結構後ですね。リヒテルとよく共演したそうです。
Bach - Partita No.2 BWV.826
Maria Grinberg ユダヤ系のためか、非常に不遇だったようです。
女性ということであまり表に出てこない人が何人かいたのではないかとおもっていたのですが、彼女はちょっと理由が違ったようです。
いや、それどころか弾圧されていたようですが。

| Trackback ( 0 )
|
 |
|
|
|
|