【個人的評価 ■■■■■□】(6段階評価 ■□□□□□:最悪、■■■■■■:最高)
すさまじい感動と興奮に襲われつつ、溢れてくる笑いをこらえるのに苦労する
「これこそ映画だ!!ラリホー!!」と魂からの叫びをあげたくなる映画だった。
*****
この映画の脚本検討の場を想像するととても楽しい。
「陰毛も金髪に染めるんだ。そうしたらヒリヒリして耐えられなくなるのさ」
「そこでね、ヒロインの頭上から、1トンくらいのウンコが降り注いで来るんだよ・・・」
*****
娯楽映画というもののシナリオ構成は普通は以下のようになる。
【「見せ場」がいくつか用意されていて、台詞とエピソードが物語を見せ場へと誘導し、見せ場と見せ場を連結する。】
そのために問題がおこる。
物語上必要ではあるが、そこだけ観ても別に面白くもない、説明だけのシーンができてしまう。
三回目四回目の観賞ともなると、そういう必要悪のつなぎシーンに気付き、「仕方の無いことさ」とあきらめて観賞する。
きっとヴァーホーヴェンはそういうシーンの存在を嫌ったのだろう。
「ブラックブック」のシナリオはほとんど全シーンに何らかの見せ場が配置されている。一つ一つのシーンが短編映画のようだ。
見せ場とは、アクションかサスペンスを入れることだが、どっちも入らない場合は、裸を入れる。
アクションかサスペンスかオッパイ。
ただ流してしまえばいいような「つなぎ」の(はずの)シーンでも、アクションかサスペンスかオッパイを入れることでこれでもかと執拗に盛り上げる。
声は大きく、動きは大きく、ついでに音楽もこれでもかと派手に鳴り響く(※1)
もっと面白く、もっと面白くと追求した結果、ホロコーストとか反ナチ闘争とかそういった歴史の重みは怖いくらいどっかに吹き飛んでしまうのだが、監督自身そんなことには始めからさほど興味はなかったと思われる。
*****
監督の歴史・戦争への興味のほどと映画への熱い思いが垣間みられたのが、次のシーンだ。
ナチ将校ムンツェにユダヤ人であることを見抜かれたヒロイン、ラヘルは、「だから何?」とムンツェに逆に問い返す。
彼の手をとり自分の胸にあてがって言う。
「ここはユダヤ?」
監督の心の声「ちがう、そこはオッパイ!」
ムンツェの手を自分の下腹にあてがい
「ここはユダヤ?」
監督の心の声「ちがう、そこはコカン!」
*****
さらに監督は自分の大好きな血と死体を写し、肉体にめり込む手術器具、撃たれて噴水のように血を噴き出す人、男女共用トイレで陰部をさらけ出すデブらを描く。
ヒロインはゲロを吹き出す様を観客たちに惜しげも無く披露し、あげく大量の糞尿がヒロインに浴びせかけられる。
皆が生理的に観たくないものをあえてさらけ出す。
なぜか。観客たちの心を強く揺すぶりたいからだ。感動させたいからだ。不快感も嫌悪感も「感動」であることをヴァーホは知っている。
アクションシーンの興奮、恋愛ドラマの悲しみといった正の感動の中に、血と死体と汚物といった負の感動も突っ込み、感動の振幅を大きくしているのだ。
*****
映画への姿勢はシナリオにも現れている。
「ストーリー」はメッセージを打ち出す手段としては使っていない。「ストーリー」は映画を面白くするための機能でしかない。
医者という設定も、インシュリンもチョコレートも、ラストのサスペンスを盛り上げるためだけに登場した設定で、それ以外に用をなさない。
裕福なユダヤ人たちが虐殺される件も、物語導入部の見せ場として使われ、また主人公がレジスタンス運動に参加するきっかけとして設定されているだけで、テーマでもなんでもない。
タイトルの「ブラックブック」も、せいぜいが際限なく展開するサスペンスの幕を閉じるためだけに使われる小道具に過ぎない。
どうすれば次の展開をもっと面白くできるだろうか?シナリオでもっとも重視されたのは面白さの追求である。
*****
そう、この映画のテーマは、ホロコーストでも戦争でも女の人生でもない。
オーバーに言えば、この映画のテーマは、映画そのものなのだ!
映画を面白くすることにしか興味のない男の無邪気さに、140分間心を揺さぶられ続けるしかないのだ。
(※1)
(作曲は「クライング・ゲーム」や「フルモンティ」(オスカー受賞)のアン・ダッドリー。派手だったな・・・という印象しか残さない乾いた音楽であった。ヴァーホの盟友だった故ジェリー・ゴールドスミスや故ベイジル・ポールドゥリスなら、キャッチーなメロディがついてもっと「燃える曲」にしただろうな・・・と、気付くのは、二大巨匠の損失の大きさよ)
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すさまじい感動と興奮に襲われつつ、溢れてくる笑いをこらえるのに苦労する
「これこそ映画だ!!ラリホー!!」と魂からの叫びをあげたくなる映画だった。
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この映画の脚本検討の場を想像するととても楽しい。
「陰毛も金髪に染めるんだ。そうしたらヒリヒリして耐えられなくなるのさ」
「そこでね、ヒロインの頭上から、1トンくらいのウンコが降り注いで来るんだよ・・・」
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娯楽映画というもののシナリオ構成は普通は以下のようになる。
【「見せ場」がいくつか用意されていて、台詞とエピソードが物語を見せ場へと誘導し、見せ場と見せ場を連結する。】
そのために問題がおこる。
物語上必要ではあるが、そこだけ観ても別に面白くもない、説明だけのシーンができてしまう。
三回目四回目の観賞ともなると、そういう必要悪のつなぎシーンに気付き、「仕方の無いことさ」とあきらめて観賞する。
きっとヴァーホーヴェンはそういうシーンの存在を嫌ったのだろう。
「ブラックブック」のシナリオはほとんど全シーンに何らかの見せ場が配置されている。一つ一つのシーンが短編映画のようだ。
見せ場とは、アクションかサスペンスを入れることだが、どっちも入らない場合は、裸を入れる。
アクションかサスペンスかオッパイ。
ただ流してしまえばいいような「つなぎ」の(はずの)シーンでも、アクションかサスペンスかオッパイを入れることでこれでもかと執拗に盛り上げる。
声は大きく、動きは大きく、ついでに音楽もこれでもかと派手に鳴り響く(※1)
もっと面白く、もっと面白くと追求した結果、ホロコーストとか反ナチ闘争とかそういった歴史の重みは怖いくらいどっかに吹き飛んでしまうのだが、監督自身そんなことには始めからさほど興味はなかったと思われる。
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監督の歴史・戦争への興味のほどと映画への熱い思いが垣間みられたのが、次のシーンだ。
ナチ将校ムンツェにユダヤ人であることを見抜かれたヒロイン、ラヘルは、「だから何?」とムンツェに逆に問い返す。
彼の手をとり自分の胸にあてがって言う。
「ここはユダヤ?」
監督の心の声「ちがう、そこはオッパイ!」
ムンツェの手を自分の下腹にあてがい
「ここはユダヤ?」
監督の心の声「ちがう、そこはコカン!」
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さらに監督は自分の大好きな血と死体を写し、肉体にめり込む手術器具、撃たれて噴水のように血を噴き出す人、男女共用トイレで陰部をさらけ出すデブらを描く。
ヒロインはゲロを吹き出す様を観客たちに惜しげも無く披露し、あげく大量の糞尿がヒロインに浴びせかけられる。
皆が生理的に観たくないものをあえてさらけ出す。
なぜか。観客たちの心を強く揺すぶりたいからだ。感動させたいからだ。不快感も嫌悪感も「感動」であることをヴァーホは知っている。
アクションシーンの興奮、恋愛ドラマの悲しみといった正の感動の中に、血と死体と汚物といった負の感動も突っ込み、感動の振幅を大きくしているのだ。
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映画への姿勢はシナリオにも現れている。
「ストーリー」はメッセージを打ち出す手段としては使っていない。「ストーリー」は映画を面白くするための機能でしかない。
医者という設定も、インシュリンもチョコレートも、ラストのサスペンスを盛り上げるためだけに登場した設定で、それ以外に用をなさない。
裕福なユダヤ人たちが虐殺される件も、物語導入部の見せ場として使われ、また主人公がレジスタンス運動に参加するきっかけとして設定されているだけで、テーマでもなんでもない。
タイトルの「ブラックブック」も、せいぜいが際限なく展開するサスペンスの幕を閉じるためだけに使われる小道具に過ぎない。
どうすれば次の展開をもっと面白くできるだろうか?シナリオでもっとも重視されたのは面白さの追求である。
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そう、この映画のテーマは、ホロコーストでも戦争でも女の人生でもない。
オーバーに言えば、この映画のテーマは、映画そのものなのだ!
映画を面白くすることにしか興味のない男の無邪気さに、140分間心を揺さぶられ続けるしかないのだ。
(※1)
(作曲は「クライング・ゲーム」や「フルモンティ」(オスカー受賞)のアン・ダッドリー。派手だったな・・・という印象しか残さない乾いた音楽であった。ヴァーホの盟友だった故ジェリー・ゴールドスミスや故ベイジル・ポールドゥリスなら、キャッチーなメロディがついてもっと「燃える曲」にしただろうな・・・と、気付くのは、二大巨匠の損失の大きさよ)
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>この映画のテーマは、映画そのものなのだ!
映画を面白くすることにしか興味のない男の無邪気さに、140分間心を揺さぶられ続けるしかないのだ。
そうそう。
まさにそのとおりだと思います。
こんなに刺激的な映画はめったにないですよね。
バーホーベンには、
とことんやってほしいです。
刺激強すぎて狂いそうになりました。
こういう監督が日本にいたらなあ・・・と思います。