こんなこと書くと批判されるかもしれないが・・・前々から思っていたのだけど天皇はもっと国民に近い存在であるべきだと思う。
天皇のモノマネを持ち芸にする芸人の一人くらいいてもいいと思う。陛下を笑い者にするとはなんと畏れ多い事かと、批判が吹き出すにきまっているのだか、五木ひろしや西城秀樹が笑い者になってもいいのなら、人間である天皇をおちょくったって構わないのではなかろうか?もちろん国の象徴として憲法の第一条で規定されている特別な人物だから、面と向かって接する時は礼儀をわきまえるべきだと思うが、それにしてもいまだに天皇が神格化、とはいかないまでも特別視されすぎてやしないかと、この国の天皇の扱い方にいつも何か違和感を感じていた。もっと親しみ持てる存在でいいのではないかと思う。
「小泉ってさあ・・・」とかそんな発言を天皇がしたって別にいいと思う。CDデビューしたりブログで日記を公開してもいいと思う。
そしてついに、この映画で初めて天皇のモノマネを持ち芸にする芸人(?)が誕生した。イッセー尾形だ。痙攣してるように唇をプルプルさせながら終止穏やか且つ朗らかな天皇を演じる。似てると感じるか、誇張しすぎで陛下を馬鹿にしていると感じるか、そのボーダーラインギリギリの演技をイッセー尾形は120分間続ける。いくらロシア映画だからって、勇気のいることだろう。
似ている、似ていないは別にして、イッセー尾形の演じた天皇は、とても子供っぽく、時にコミカルに描かれ、これまで様々な映画やドラマで描かれてきた天皇像と全く異なっていて興味深い。
「あっそう」が口癖の天皇。マッカーサーに対しても「あっそう」と言うところは思わず笑ってしまうし、皇后(桃井かおり!)にまで口癖が移っていて2人で「あっそう」と言い合うところも笑いがこぼれる。
東京でオーロラが本当に見えるのかと(明治天皇が息子に見たと言った事があるらしい)質問するためわざわざ呼び寄せた学者と席を譲り合うところも、サイレント映画のスラップスティックコメディを見ているような楽しさがある。
昭和天皇が我々一般人を笑わせてくれるのだ。今までそんな映画があっただろうか
一般人とちょっとズレた感覚を持つが故にそこから笑いを引き出す、そんな風に昭和天皇を描いた日本人は、これまで誰もいなかったのではないだろうか?
これがロシア映画であり、ロシアのソクーロフが監督したからこそ可能だったのかもしれない。日本人ではこうは撮れない。外国映画だからこそ描き得た、親しみもてるお茶目な天皇である。
外国人に先を越された事が少し悔しい。日本人が天皇に対し敬意を持ちつつ、天皇をおちょくれるようになるまであと何年かかるのだろう?
ここまでの文章を読むと、この映画が、まるで楽しい天皇一家コメディみたいな印象を持たれそうだが、そんな軽い映画ではない。国家の最高権力者が「神」から「人間」になろうとする姿と、人間になろうとする天皇を神の地位に押しとどめようとする、既成概念に支配された旧勢力との対立が描かれる、静かで重い作品である。
「ラスト・サムライ」のトム・クルーズは明治天皇に謁見し特別に直接会話をすることを許されるが、彼は言いたい事はズバズバ言いつつも礼儀をわきまえて天皇と話していた。天皇と話をする外国人が礼儀をわきまえるのは、高貴な人間と接するのだから当然の事だと思った。
ところが「太陽」に登場するアメリカ兵たちは極めて横柄である。皇居で天皇がMPの報道班員たちの写真撮影に応じるシーンで、MPたちは、天皇と話しているというのに、ため口であり、軽口をたたく。礼儀も何もあったものではない。天皇がチャップリンに似ていると言って、「またな、チャーリー」などと言う。一兵卒が天皇に対して言う言葉だろうか?
皇居に市販のチョコレートを贈るところも、「施してやっている」傲慢さが溢れる。
マッカーサーの高圧的な態度にも憤りを感じる。
天皇制を必ずしも全肯定していない自分ではあるが、それでも礼儀ってものが何か教えてやろうか!とパールハーバー・アゲインな気持ちになってしまう。
などと書いてきたが、この辺はロシア人監督だからアメリカ人を傲慢に描いているとか、アメリカ人が撮ったらもっと別の描き方していたとか、そんなことを言いたいのではない。
天皇に対し横柄に振る舞う人たちに反感を覚えさせるところに、この映画の奥深さがありそうなので、それについて続けて書いてみたい。
冒頭のシーンで天皇は老僕に、「ラジオを付けてください」と頼むのだが、身分の低い者は天皇と直接話をしてはならないしきたりがある。。そこで天皇の言葉はまず侍従長が復唱しそれを老僕が拝命する。
また天皇が皇居内の研究室でカニの生態についてペラペラと喋るシーンがある。研究員は天皇のお言葉を書き留める義務があり天皇のカニ談義をひたすらメモするのだが、研究員は不覚にも速記中に居眠りしてしまう。
神である以上誰も、天皇自身の言葉を聞いてくれないし、天皇の話す内容そのものに興味を持ってくれない。天皇は人間になりたかったのだ。天皇は自分の体が一般人と変わりがなく、神なんかではないと自覚している。神から人間へと変わる事で、皆と対等に話したかったのである。
マッカーサーとの会見において、天皇は流暢な英語で、マッカーサーと直接会話をする。
このシーンの印象的な登場人物として、アメリカ軍の通訳がいる。
彼は英語でマッカーサーと会話をする天皇に日本語で語りかける。私を通して日本語でお話しください。英語で直接会話をすることは彼が陛下と対等の立場であると認める事になります。・・・とそのような事を言う。
むしろ自分から望んで対等な立場に立とうとする天皇だが、天皇を敬う者たちがそれを許さない。この通訳が映画「太陽」を見ている観客たちの代理人ではないだろうか?
また、マッカーサーはと言えば、戦勝国の最高司令官だから当然といわんばかりに、横柄に振る舞う。天皇から戦争責任についての言葉を聞こうとするのだが(一応、天皇は開口一番、マッカーサーの回想録にあるような、命乞いをせず、取引せず、占領軍の方針に全て従う旨を告げはする。あまり感情を込めずに簡単に話すだけである)、それよりも天皇は自分が研究しているナマズについて、マッカーサーに嬉々として語る。
皇居の研究室でのカニ談義のシーンがここで反復される。
天皇は、自分の知識を聞いてくれる相手を探していたのだ。その相手がよりにもよってマッカーサーというところが面白いのだが、とにかく自分の趣味の話題を始めてしまった天皇は、おしゃべりギアがトップに入りマッカーサーにとっては全く興味のないナマズの話を延々続ける。聞いているマッカーサーもマッカーサーで、いくら興味がないとはいえ、こともあろうに天皇の話を遮り、用事があるといって天皇一人を残して部屋から出て行ってしまう。
しかし・・・人間になりたかったか、あるいはなろうとしていた天皇は、マッカーサーのように自分に気を使わずに普通に接してくれる人を求めていたのではないだろうか?
皇居での写真撮影シーンもしかりで、通訳や侍従長が無礼千万な占領軍の報道班員たちを叱責する一方で、天皇は報道班員たちの注文に応じてにっこり笑ってポーズをとり、チャーリーと呼ばれても嬉しそうだ(その前のシーンで、天皇はアメリカの映画俳優のブロマイドを持っていて、大事そうに愛でている。チャップリンのブロマイドも持っている)。本当は天皇はアメリカ人たちにあのように振る舞われることを欲していたのかもしれない。
映画の中のアメリカ兵やマッカーサーに「無礼な!」と憤りながら観ている観客は、天皇を「天皇制」とか「国家の象徴」とか、政治や国家のパーツとしてしか観ていないのかもしれない。天皇だって一人の人間に過ぎず、裕仁という人間の気持ちを考えているのか?・・・と、映画の中の天皇やアメリカ軍を見つめていた私は、逆に映画から見つめ返されているような、奇妙な感覚を覚えたのである。
ラストもまた、人間になろうとする天皇と、人間となることを認めない国家との意識のズレが示される。
皇后と、楽しくイチャついた後、侍従長に「私の人間宣言を録音した技師はどうしましたか?」と尋ねる天皇。
侍従長は答える。「自決しました。」
続けて写されるのは廃墟となった東京の俯瞰映像。そのままエンドロール。
天皇は国家元首であった。彼は一人の人間であるが、同時に国家そのものだった。彼と彼を取り巻く人々との意識のズレが国家の歪みを、そして国民の悲劇を物語る。この作品で追い求めたもの全てが集約されているような、見事なラストシーンであった。
なおこの映画は相当史実に反していると思われるが、そんなことはどうでもいい(て言うかフィクションだもんね)。
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天皇のモノマネを持ち芸にする芸人の一人くらいいてもいいと思う。陛下を笑い者にするとはなんと畏れ多い事かと、批判が吹き出すにきまっているのだか、五木ひろしや西城秀樹が笑い者になってもいいのなら、人間である天皇をおちょくったって構わないのではなかろうか?もちろん国の象徴として憲法の第一条で規定されている特別な人物だから、面と向かって接する時は礼儀をわきまえるべきだと思うが、それにしてもいまだに天皇が神格化、とはいかないまでも特別視されすぎてやしないかと、この国の天皇の扱い方にいつも何か違和感を感じていた。もっと親しみ持てる存在でいいのではないかと思う。
「小泉ってさあ・・・」とかそんな発言を天皇がしたって別にいいと思う。CDデビューしたりブログで日記を公開してもいいと思う。
そしてついに、この映画で初めて天皇のモノマネを持ち芸にする芸人(?)が誕生した。イッセー尾形だ。痙攣してるように唇をプルプルさせながら終止穏やか且つ朗らかな天皇を演じる。似てると感じるか、誇張しすぎで陛下を馬鹿にしていると感じるか、そのボーダーラインギリギリの演技をイッセー尾形は120分間続ける。いくらロシア映画だからって、勇気のいることだろう。
似ている、似ていないは別にして、イッセー尾形の演じた天皇は、とても子供っぽく、時にコミカルに描かれ、これまで様々な映画やドラマで描かれてきた天皇像と全く異なっていて興味深い。
「あっそう」が口癖の天皇。マッカーサーに対しても「あっそう」と言うところは思わず笑ってしまうし、皇后(桃井かおり!)にまで口癖が移っていて2人で「あっそう」と言い合うところも笑いがこぼれる。
東京でオーロラが本当に見えるのかと(明治天皇が息子に見たと言った事があるらしい)質問するためわざわざ呼び寄せた学者と席を譲り合うところも、サイレント映画のスラップスティックコメディを見ているような楽しさがある。
昭和天皇が我々一般人を笑わせてくれるのだ。今までそんな映画があっただろうか
一般人とちょっとズレた感覚を持つが故にそこから笑いを引き出す、そんな風に昭和天皇を描いた日本人は、これまで誰もいなかったのではないだろうか?
これがロシア映画であり、ロシアのソクーロフが監督したからこそ可能だったのかもしれない。日本人ではこうは撮れない。外国映画だからこそ描き得た、親しみもてるお茶目な天皇である。
外国人に先を越された事が少し悔しい。日本人が天皇に対し敬意を持ちつつ、天皇をおちょくれるようになるまであと何年かかるのだろう?
ここまでの文章を読むと、この映画が、まるで楽しい天皇一家コメディみたいな印象を持たれそうだが、そんな軽い映画ではない。国家の最高権力者が「神」から「人間」になろうとする姿と、人間になろうとする天皇を神の地位に押しとどめようとする、既成概念に支配された旧勢力との対立が描かれる、静かで重い作品である。
「ラスト・サムライ」のトム・クルーズは明治天皇に謁見し特別に直接会話をすることを許されるが、彼は言いたい事はズバズバ言いつつも礼儀をわきまえて天皇と話していた。天皇と話をする外国人が礼儀をわきまえるのは、高貴な人間と接するのだから当然の事だと思った。
ところが「太陽」に登場するアメリカ兵たちは極めて横柄である。皇居で天皇がMPの報道班員たちの写真撮影に応じるシーンで、MPたちは、天皇と話しているというのに、ため口であり、軽口をたたく。礼儀も何もあったものではない。天皇がチャップリンに似ていると言って、「またな、チャーリー」などと言う。一兵卒が天皇に対して言う言葉だろうか?
皇居に市販のチョコレートを贈るところも、「施してやっている」傲慢さが溢れる。
マッカーサーの高圧的な態度にも憤りを感じる。
天皇制を必ずしも全肯定していない自分ではあるが、それでも礼儀ってものが何か教えてやろうか!とパールハーバー・アゲインな気持ちになってしまう。
などと書いてきたが、この辺はロシア人監督だからアメリカ人を傲慢に描いているとか、アメリカ人が撮ったらもっと別の描き方していたとか、そんなことを言いたいのではない。
天皇に対し横柄に振る舞う人たちに反感を覚えさせるところに、この映画の奥深さがありそうなので、それについて続けて書いてみたい。
冒頭のシーンで天皇は老僕に、「ラジオを付けてください」と頼むのだが、身分の低い者は天皇と直接話をしてはならないしきたりがある。。そこで天皇の言葉はまず侍従長が復唱しそれを老僕が拝命する。
また天皇が皇居内の研究室でカニの生態についてペラペラと喋るシーンがある。研究員は天皇のお言葉を書き留める義務があり天皇のカニ談義をひたすらメモするのだが、研究員は不覚にも速記中に居眠りしてしまう。
神である以上誰も、天皇自身の言葉を聞いてくれないし、天皇の話す内容そのものに興味を持ってくれない。天皇は人間になりたかったのだ。天皇は自分の体が一般人と変わりがなく、神なんかではないと自覚している。神から人間へと変わる事で、皆と対等に話したかったのである。
マッカーサーとの会見において、天皇は流暢な英語で、マッカーサーと直接会話をする。
このシーンの印象的な登場人物として、アメリカ軍の通訳がいる。
彼は英語でマッカーサーと会話をする天皇に日本語で語りかける。私を通して日本語でお話しください。英語で直接会話をすることは彼が陛下と対等の立場であると認める事になります。・・・とそのような事を言う。
むしろ自分から望んで対等な立場に立とうとする天皇だが、天皇を敬う者たちがそれを許さない。この通訳が映画「太陽」を見ている観客たちの代理人ではないだろうか?
また、マッカーサーはと言えば、戦勝国の最高司令官だから当然といわんばかりに、横柄に振る舞う。天皇から戦争責任についての言葉を聞こうとするのだが(一応、天皇は開口一番、マッカーサーの回想録にあるような、命乞いをせず、取引せず、占領軍の方針に全て従う旨を告げはする。あまり感情を込めずに簡単に話すだけである)、それよりも天皇は自分が研究しているナマズについて、マッカーサーに嬉々として語る。
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天皇は、自分の知識を聞いてくれる相手を探していたのだ。その相手がよりにもよってマッカーサーというところが面白いのだが、とにかく自分の趣味の話題を始めてしまった天皇は、おしゃべりギアがトップに入りマッカーサーにとっては全く興味のないナマズの話を延々続ける。聞いているマッカーサーもマッカーサーで、いくら興味がないとはいえ、こともあろうに天皇の話を遮り、用事があるといって天皇一人を残して部屋から出て行ってしまう。
しかし・・・人間になりたかったか、あるいはなろうとしていた天皇は、マッカーサーのように自分に気を使わずに普通に接してくれる人を求めていたのではないだろうか?
皇居での写真撮影シーンもしかりで、通訳や侍従長が無礼千万な占領軍の報道班員たちを叱責する一方で、天皇は報道班員たちの注文に応じてにっこり笑ってポーズをとり、チャーリーと呼ばれても嬉しそうだ(その前のシーンで、天皇はアメリカの映画俳優のブロマイドを持っていて、大事そうに愛でている。チャップリンのブロマイドも持っている)。本当は天皇はアメリカ人たちにあのように振る舞われることを欲していたのかもしれない。
映画の中のアメリカ兵やマッカーサーに「無礼な!」と憤りながら観ている観客は、天皇を「天皇制」とか「国家の象徴」とか、政治や国家のパーツとしてしか観ていないのかもしれない。天皇だって一人の人間に過ぎず、裕仁という人間の気持ちを考えているのか?・・・と、映画の中の天皇やアメリカ軍を見つめていた私は、逆に映画から見つめ返されているような、奇妙な感覚を覚えたのである。
ラストもまた、人間になろうとする天皇と、人間となることを認めない国家との意識のズレが示される。
皇后と、楽しくイチャついた後、侍従長に「私の人間宣言を録音した技師はどうしましたか?」と尋ねる天皇。
侍従長は答える。「自決しました。」
続けて写されるのは廃墟となった東京の俯瞰映像。そのままエンドロール。
天皇は国家元首であった。彼は一人の人間であるが、同時に国家そのものだった。彼と彼を取り巻く人々との意識のズレが国家の歪みを、そして国民の悲劇を物語る。この作品で追い求めたもの全てが集約されているような、見事なラストシーンであった。
なおこの映画は相当史実に反していると思われるが、そんなことはどうでもいい(て言うかフィクションだもんね)。
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
サーヤの「実はいじめられてました・・・」なんて告白があったりしたら、ソニンやクボジュン、横峰さくらの述懐記事、朝日新聞いじめ撲滅キャンペーン以上に効果があるかも。
雅子の闘病記(いや姑日記かも)も、人を勇気づけるぞ~。
な~んて、こんな未来があったらいいな~。
愛子ちゃんの「あたしだって天皇になりたいわよ日記」とかも読みたいです。
この映画を観て、一番思い知らされたのは、比較的自由な視点で天皇をみてると思ってた自分ですら、固定観念に縛られてたんだなあという事です。
映画に限らず、天皇を描きたいクリエイターはこの国に沢山いると思うんですよ。
だけどたぶん殆どの人は天皇を社会的、歴史的存在として描いてしまうでしょう。
この映画は、そういう日本人ならではの限界みたいな物を軽々と飛び越えている。
外国人だから当たりといえば当たり前ですが、衝撃でした。
アクセス数すごかったりして。
非常に感想の書きにくい作品でした。
「パッチギ」の映画感想に嫌がらせがたくさん入るという噂がありますが、そんな感じになるんじゃないかと危惧していました。
でも、心配することなんて何にも無かったんですけどね。
皇室に関してはそれほど深い思い入れはないのですが、多分人間味あふれる方たちなんだと思います。
そういうキュートな部分をもっと見せていただけたら親しみも湧くのにな~。
制度としてどうかを考える前に、神聖視されすぎてて実態が見えてこないのが気持ち悪いです。外国の作家だからこそ、描き得たというところに納得しつつも、悔しいです。
ちなみに、以前、大学の後輩たちが、エアフォース・ワンのパクリみたいな天皇が主人公のアクション映画作りました。
>ミチさま
「パッチギ」系の嫌がらせは私のとこにもきたような気がします。
それも感想のうちだから別にいいんですが、問題なのは見もしないで文句たれる奴らですね。
私は自分の思想と映画があうかどうかと、映画の面白さは別だと思ってます。
それはさておき、皇室のみなさん、もっとメディアに露出して自分の言葉で色々語ってほしいし、語りやすい環境を映画が作っていければいいですね
明治天皇から伝えられている、「極光」のエポソードがちょっとひっかかっています。
昭和天皇は教養人ですから、単なる、オーロラであれば、地球の軸を中心に極付近でしか観測できないということは、周知の筈なんですね。
僕は、あの「極光」は、もっと神聖なる神の力のようなもの、あるいは天皇家に伝わる、UFO神話のようなものではないか、と勝手に憶測しています。
まあ、昭和前半くらいの子供たちも雷様くらいは信じていたし、オーロラの正体は知ってるだけに、じいさんが語ったのが、ただの大人が子供に語るおとぎ話みたいなものに過ぎなかったのか、あるいはひょっとして本当なのか・・・とちょっとロマンチックなことも考えてみたりする、そんなヒロちゃんのおちゃめな感じを出そうとしてたんじゃないでしょうかねえ