個人的評価: ■■■■□□
[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)]
サブタイトルが「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」でないことが非常に残念だが、ともかく傑作アニメの実写化。こうして実写化されるというだけでオリジナルアニメの伝説にさらに箔がつくってものだ。
野原家が川上家にかわり、幼稚園児は小学生に変わるなどの設定変更はあるがストーリーはほぼオリジナル通り。ただし、いくつか端折られたエピソードがある。
オリジナルでは一家全員が戦国の姫さまの夢を見るところから始まるのだが、実写版では主人公の少年一人だけが見る。そのために両親が、「子供は戦国時代に行った」・・・と確信する場面に説得力が乏しい。
・・・と分析するのは簡単なのだが、逆にその程度のことが判らぬ監督ではないだろうから、何らかの考えがあってのことではないだろうかと思う。
本作ではALWAYSシリーズと同様に、コミュニケーションにこだわっているように思える。伝達ツールは時代や技術に応じて変わっていくものの、「思いを伝える」という肝心要の部分は何も変わらないのだと訴えている。
CGを思う存分使い昭和30年代をファンタジー世界とした「ALWAYS」だが、第一作ではロクちゃんの母からの手紙と、淳之介から茶川さんへの書き置きが思いをつなげることでクライマックスを盛り上げた。続編では茶川さんの小説がヒロインの心を打った。eMailも携帯もなかった時代のアナログな伝達方法を描く事で「伝える」という行為そのものを美しく描いた。
そして本作では数百年を経た手紙が少年と両親の心をつなぐ。伝達行為だけで心はつながるはずだ・・・との信念から、「両親も姫の夢を見ていた」という心理的バックグラウンドをあえて省いた・・・と見る。
コミュニケーションといえば、アニメとちがい小学生となった主人公は現代っ子らしく、携帯電話とそのカメラ機能、動画機能まで使い、戦国の侍と姫の思いをつなげる。そして姫は少年への精一杯の感謝をこめて戦国時代ならではの超アナログなメールツールを使って現代へメッセージを飛ばす。
時代が変わり、通信方法が変わろうとも、「思いを伝え、繋げる」という本質は何も変わらない・・・ということを「ALWAYS」ともども本作でも訴えていた気がする。
そう思うと、山崎監督作品でよく言われる「しゃべり過ぎ」という批判に対しても、実は監督の持つテーマが「明確な言葉・文章によるコミュニケーション」なのだと考えれば反論できるかもしれない。
本作で姫と少年が初めて対面する場面で、少年が「あ、夢の姫さま」とはっきり発言し、その発言に姫が食いついてくる場面がある。クレヨンしんちゃんほど無邪気かつ特徴的な喋り方ではないので、姫の食いつきの良さに不自然を感じないでもない。
だがこう考えるとどうだろう。姫に対しては城内の誰もがその身分を慮って本心で喋ってはくれない。想いを抱く井尻又兵衛ですら本心なのか建前なのかわからない発言しかしない。姫は明確な言葉による裏表のない会話に飢えていたのだ。少年のつい漏らした言葉に彼の本心を感じた姫はだからこそ、よく食いついてきたのかもしれない。
それはともかく、誰もが分かりやすいほどにはっきりと思いを口にするのが山崎監督の流儀。明確な輪郭を持ったコミュニケーションをもとめるのは、人付き合いが希薄になったと言われる現代や、嘘・流言の飛び交うインターネットコミュニケーションへの反発なのかもしれない。
さて、本作でアニメから実写への変換が最も効果的だったのは殺陣であった。
殺陣シーンは得意のCGに頼らず、カットを刻むなどの演出技法にも頼らず、もちろんワイヤーとかスローモーションも使わない。最小限のカット数で俳優たちの実際の立ち居振る舞いでもって見せる。
ほとんど1カットで悪漢たちをなぎ倒す草なぎ剛がかっこ良い。ぶれることなくぴたりと止まる剣先に、チャンバラに本気で取り組んだであろう俳優の努力のほどがうかがえる。終盤の大沢たかおとの対決もカット極小。
ヤサ男イメージの草なぎ剛だが、ハサミの入らない殺陣のおかげで、終盤では「強い侍」に見えた。
おいしそうにビールを飲むシーンに下劣なツッコミを入れたくなる衝動を押さえて、彼の演技を讃えたい。
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サブタイトルが「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」でないことが非常に残念だが、ともかく傑作アニメの実写化。こうして実写化されるというだけでオリジナルアニメの伝説にさらに箔がつくってものだ。
野原家が川上家にかわり、幼稚園児は小学生に変わるなどの設定変更はあるがストーリーはほぼオリジナル通り。ただし、いくつか端折られたエピソードがある。
オリジナルでは一家全員が戦国の姫さまの夢を見るところから始まるのだが、実写版では主人公の少年一人だけが見る。そのために両親が、「子供は戦国時代に行った」・・・と確信する場面に説得力が乏しい。
・・・と分析するのは簡単なのだが、逆にその程度のことが判らぬ監督ではないだろうから、何らかの考えがあってのことではないだろうかと思う。
本作ではALWAYSシリーズと同様に、コミュニケーションにこだわっているように思える。伝達ツールは時代や技術に応じて変わっていくものの、「思いを伝える」という肝心要の部分は何も変わらないのだと訴えている。
CGを思う存分使い昭和30年代をファンタジー世界とした「ALWAYS」だが、第一作ではロクちゃんの母からの手紙と、淳之介から茶川さんへの書き置きが思いをつなげることでクライマックスを盛り上げた。続編では茶川さんの小説がヒロインの心を打った。eMailも携帯もなかった時代のアナログな伝達方法を描く事で「伝える」という行為そのものを美しく描いた。
そして本作では数百年を経た手紙が少年と両親の心をつなぐ。伝達行為だけで心はつながるはずだ・・・との信念から、「両親も姫の夢を見ていた」という心理的バックグラウンドをあえて省いた・・・と見る。
コミュニケーションといえば、アニメとちがい小学生となった主人公は現代っ子らしく、携帯電話とそのカメラ機能、動画機能まで使い、戦国の侍と姫の思いをつなげる。そして姫は少年への精一杯の感謝をこめて戦国時代ならではの超アナログなメールツールを使って現代へメッセージを飛ばす。
時代が変わり、通信方法が変わろうとも、「思いを伝え、繋げる」という本質は何も変わらない・・・ということを「ALWAYS」ともども本作でも訴えていた気がする。
そう思うと、山崎監督作品でよく言われる「しゃべり過ぎ」という批判に対しても、実は監督の持つテーマが「明確な言葉・文章によるコミュニケーション」なのだと考えれば反論できるかもしれない。
本作で姫と少年が初めて対面する場面で、少年が「あ、夢の姫さま」とはっきり発言し、その発言に姫が食いついてくる場面がある。クレヨンしんちゃんほど無邪気かつ特徴的な喋り方ではないので、姫の食いつきの良さに不自然を感じないでもない。
だがこう考えるとどうだろう。姫に対しては城内の誰もがその身分を慮って本心で喋ってはくれない。想いを抱く井尻又兵衛ですら本心なのか建前なのかわからない発言しかしない。姫は明確な言葉による裏表のない会話に飢えていたのだ。少年のつい漏らした言葉に彼の本心を感じた姫はだからこそ、よく食いついてきたのかもしれない。
それはともかく、誰もが分かりやすいほどにはっきりと思いを口にするのが山崎監督の流儀。明確な輪郭を持ったコミュニケーションをもとめるのは、人付き合いが希薄になったと言われる現代や、嘘・流言の飛び交うインターネットコミュニケーションへの反発なのかもしれない。
さて、本作でアニメから実写への変換が最も効果的だったのは殺陣であった。
殺陣シーンは得意のCGに頼らず、カットを刻むなどの演出技法にも頼らず、もちろんワイヤーとかスローモーションも使わない。最小限のカット数で俳優たちの実際の立ち居振る舞いでもって見せる。
ほとんど1カットで悪漢たちをなぎ倒す草なぎ剛がかっこ良い。ぶれることなくぴたりと止まる剣先に、チャンバラに本気で取り組んだであろう俳優の努力のほどがうかがえる。終盤の大沢たかおとの対決もカット極小。
ヤサ男イメージの草なぎ剛だが、ハサミの入らない殺陣のおかげで、終盤では「強い侍」に見えた。
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あの殺陣は、本当に自分たちも徹底的にやって、満足のいくもんだった・・・というのを、映画を見る前に聞いていたのですが、その通りだったと思います。
後は・・・言わないでおきます。
殺陣への気合いの入れようは映像にばっちり現れていましたね。アニメに対抗できるのはそこしかないってわかってたんでしょうね。