知ってか知らずか、私の思い込みか、これまで見てきた様々な映画が頭をよぎる
ストーリーの基本ラインは「フルモンティ」と「リトルダンサー」足したような感じ(ってことは「ウォーター・ボーイズ」にも似てるんだ)。女の子たちが何かに挑むってところで「スウィング・ガールズ」な感じもする。このままこの町で決まりきった人生送るのやだなあ・・・ってのもよくある設定だが最近だと「シムソンズ」がそれだ。
ダンスに反対していた親が子供の夢をかなえさせてやるため地域社会の方針に反する行動をとるところは、「リトル・ダンサー」の父親と少年の関係そのものだ
落盤事故でこの中の誰かの肉親が犠牲になったと言って蒼井優の方に岸部一徳か松雪泰子かどっちか忘れたけどが近づいてきて蒼井優の隣のしずちゃんに伝えられるシーンは、「プリティ・リーグ」で、この中の誰かの夫が戦死したと言ってトム・ハンクスがジーナ・デイビスの方に近づいてきて、彼女の隣の女性にお悔やみを伝えるシーンと酷似している(もっとも「フラガール」はその前の怪我人が運び出されるシーンで、豊川悦司と富司純子が健在なのがはっきり示されるため、続くシーンで蒼井優がどんなに不安がっても、観客はその気持ちに同調することができないのだが・・・)
その他、机の下でステップを踏む足・・・「Shall we ダンス?」、嫌がってたトレーナーが練習生の一途な思いに根負けし基礎を教え始めるあたり・・・「ミリオンダラー・ベイビー」、"本物"の芸を覗き見する憧れのまなざし・・・「さらば我が愛」、ついでに一人黙々と踊る蒼井優の姿に「花とアリス」がだぶってきても仕方あるまい。
以上、中にはこじつけ気味なものもあるし、例にあげた映画だってもっと過去の何らかの映画を出典としているだろうし、だいたい映画なんてものは(昨今は特に)模倣芸術としての色合いが強い。「皆が彼の真似をしたが、彼は誰の真似もしなかった」(※1)なんて言われる映画監督はもう世界には残っていないのではないだろうかと思う。
(※1…スピルバーグがアカデミー授賞式でキューブリックを追悼して言った言葉)。
この映画はベタなドラマと言える。様々な映画の直接・間接の影響があろうとなかろうと、どっかで見たよな展開、期待通りの展開を見せて、最後は大体の登場人物たちがお互い理解しあってハッピーエンド。
不特定多数の共感得ることを目的とした娯楽作として申し分ないものに仕上がっているといって言いだろう。それはつまり通俗的ってことなのだが、同じ通俗ベタ女の子がんばる系ドラマでも例えば「シムソンズ」や「スウィングガールズ」なんかより深く感じるのは、きれいごとだけ並べずに、成功の影にある犠牲や汚い面も見せているからだ。
夢をあきらめざるを得なくなった友人。炭坑閉山という時代の流れに空しく抗いやがては消えていく運命にある古い人たち。保守と変革のぶつかりあいで亀裂の走る町。肉親の死と向き合うメンバー。
親が死ぬかもしれないというのに、フラダンスの巡業を続けるくだりは、その行為自体、多くの人たちの不興を買うだろう。だが、あのシーンはそのような状況設定をする作者の意向に疑問を感じるよりは、登場人物たちが間違った決断を下してしまったシーンとして認識したい。
地域の理解もなく自分たちでさえいい事なのかうまくいくのかよくわからない新しいことを続ける人たち。彼らは毎日が暗中模索でいつも決断を迫られる。当然毎回正しい決断をするとは限らない。時には間違った事もしてしまうのである。そうした取り返しのつかない失敗というものも新規立ち上げにはつきものだ。だからこそラストに成功した時の感動が強まるのだ。
そうはいってもその後のコーチとの別れのシーンと、あっさり考えを変えて町に残るコーチ・・といったシーンは、イカニモすぎて苦笑すらさそう。私の責任ですと言い張ったコーチがあっさり前言撤回する様はなんともかっこ悪い。だがどんなにみっともなくてもバカみたいに笑ってろというコーチの思想とは矛盾がない。
この別れのシーンは駅のプラットホームで女の子たちがコーチから教わったフラダンスを涙ながらに披露する。事前に「フラダンスには手話の要素がある」とコーチがうんちくたれるのをへぇぇと聞き流していた何気ないシーンがこういうところの伏線になっているあたり、脚本家(※2)の力量を感じる。ただしコーチとの別れという状況設定の作り方が前述のようにちょいとわざとらしいのが難点なのだ。
(※2・・・脚本は李相日と羽原大介の共同。羽原は「パッチギ!」が代表作だろうが、それよりも「ふたりはプリキュア」で予定調和的女の子がんばって努力する善人は報われるストーリーをたっぷり書いている。ああいうところで腕を磨いてんのね・・・)
ベタベタな脚本とはいえ、そこらのホンより優れていると思ったところをもう一つ。
娯楽映画の基礎中の基礎「映画開始の早い段階で物語の最終目的を提示する」
この映画ではタイトル前のプロローグでそれがしめされる。主人公と思しき女の子(早苗)がフラダンサー募集のポスターを見つめる。そしてそのポスターをひっちゃぎって友達の女の子(紀美子)にフラダンサーになりたいという夢を熱く語る。
もちろん熱く語る早苗があんま見た事ない女優で、かたや紀美子は映画でCMで有名な蒼井優だから、ほんとはどっちが主役かくらい判るのだが、演出的に導入部では蒼井優は脇役である。
蒼井優など何も知らない人間(例えばハリウッドのアメリカ人)が見たら、この映画は早苗がフラダンサーになる夢をかなえる物語だと思うだろう。
話が進むにつれ演出のスポットは徐々に紀美子に移っていき、早苗がドタバタと失敗して皆の笑いを誘う一方で、紀美子は生活環境や家族関係の紹介、フラ以外に行き場のなくなったところが示されるが、主役として物語を引っぱりはしない。
だがやがて、主人公の交代が起こる。早苗が遠く北海道への引っ越しを余儀なくされ夢をあきらめざるを得なくなる。
そこでそれまで友達に誘われたから+親と喧嘩して他に行き場がないから、という極めて受動的な動機でフラダンスのレッスンを受けていた紀美子の心情が劇的に変わる。彼女は親友から夢を引き継いだのだ。ここから他の全ての人に嫌われても歯を食いしばってプロのフラダンサーになることを決意する。
引き継ぎというシチュエーションを挟むことで主人公に共感しやすい物語としている。ここが平凡なベタドラマではあまり見られない点だと思う。その早苗から紀美子に夢が託される場所が、最初に早苗が紀美子に夢を語った場所であるというところも美しい。この脚本はこういう細やかな反復が上手い
「引き継ぎ」はコーチから生徒へのそれも描かれる。前半で覗き見していたコーチのダンスを、後半すっかりモノにしている紀美子。行為の反復が上の世代から下の世代への引き継ぎを表す。
ついでにそれが子から親への夢の逆引き継ぎというか伝染をもたらしているところも素晴らしく、人から人へと気持ちが伝わっていくことで時代や社会が変わっていくことが、いわきの地でシミュレートされているかのようだ。
ここまできたらついでに紀美子が後輩たちにダンスの指導するシーンでもあれば良かったのにと思うけど。
そんなこんなで、ベタドラマ嫌いのつもりだった私もいろいろと不満はありつつ、概ね満足できる佳作であった。
とは言え、アカデミー賞はどうだろうか?「リトル・ダンサー」や「フルモンティ」の好きなアカデミーにはうけるかもしれないが、二番煎じと一蹴されて終わりな気もする・・・
監督は李相日。これまで「69」「スクラップ・ヘブン」と見てきたが、どちらも「惜しいとこで傑作になり損ねて凡作止まり」だった。やっと凡作を越えて佳作を作ったところを良しとしたいが、安パイな通俗ベタドラマである本作よりも、前二作の方が映画作家としてはアグレッシブだった気もする(特に「スクラップ・ヘブン」は)。
このままリスクの少ない通俗ドラマの世界に留まるのだろうか。その方がいいような気もするし、残念な気もするし・・・塩田明彦みたいに両方使い分ける監督になるのが一番いいかも。
おおっと、最後に。
しずちゃん、いいね。むろん演技が上手いというわけじゃないが、誰よりも次の行動が気になる。存在感ありすぎ。今年の新人賞くらいはとれるんじゃなかろうか
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ストーリーの基本ラインは「フルモンティ」と「リトルダンサー」足したような感じ(ってことは「ウォーター・ボーイズ」にも似てるんだ)。女の子たちが何かに挑むってところで「スウィング・ガールズ」な感じもする。このままこの町で決まりきった人生送るのやだなあ・・・ってのもよくある設定だが最近だと「シムソンズ」がそれだ。
ダンスに反対していた親が子供の夢をかなえさせてやるため地域社会の方針に反する行動をとるところは、「リトル・ダンサー」の父親と少年の関係そのものだ
落盤事故でこの中の誰かの肉親が犠牲になったと言って蒼井優の方に岸部一徳か松雪泰子かどっちか忘れたけどが近づいてきて蒼井優の隣のしずちゃんに伝えられるシーンは、「プリティ・リーグ」で、この中の誰かの夫が戦死したと言ってトム・ハンクスがジーナ・デイビスの方に近づいてきて、彼女の隣の女性にお悔やみを伝えるシーンと酷似している(もっとも「フラガール」はその前の怪我人が運び出されるシーンで、豊川悦司と富司純子が健在なのがはっきり示されるため、続くシーンで蒼井優がどんなに不安がっても、観客はその気持ちに同調することができないのだが・・・)
その他、机の下でステップを踏む足・・・「Shall we ダンス?」、嫌がってたトレーナーが練習生の一途な思いに根負けし基礎を教え始めるあたり・・・「ミリオンダラー・ベイビー」、"本物"の芸を覗き見する憧れのまなざし・・・「さらば我が愛」、ついでに一人黙々と踊る蒼井優の姿に「花とアリス」がだぶってきても仕方あるまい。
以上、中にはこじつけ気味なものもあるし、例にあげた映画だってもっと過去の何らかの映画を出典としているだろうし、だいたい映画なんてものは(昨今は特に)模倣芸術としての色合いが強い。「皆が彼の真似をしたが、彼は誰の真似もしなかった」(※1)なんて言われる映画監督はもう世界には残っていないのではないだろうかと思う。
(※1…スピルバーグがアカデミー授賞式でキューブリックを追悼して言った言葉)。
この映画はベタなドラマと言える。様々な映画の直接・間接の影響があろうとなかろうと、どっかで見たよな展開、期待通りの展開を見せて、最後は大体の登場人物たちがお互い理解しあってハッピーエンド。
不特定多数の共感得ることを目的とした娯楽作として申し分ないものに仕上がっているといって言いだろう。それはつまり通俗的ってことなのだが、同じ通俗ベタ女の子がんばる系ドラマでも例えば「シムソンズ」や「スウィングガールズ」なんかより深く感じるのは、きれいごとだけ並べずに、成功の影にある犠牲や汚い面も見せているからだ。
夢をあきらめざるを得なくなった友人。炭坑閉山という時代の流れに空しく抗いやがては消えていく運命にある古い人たち。保守と変革のぶつかりあいで亀裂の走る町。肉親の死と向き合うメンバー。
親が死ぬかもしれないというのに、フラダンスの巡業を続けるくだりは、その行為自体、多くの人たちの不興を買うだろう。だが、あのシーンはそのような状況設定をする作者の意向に疑問を感じるよりは、登場人物たちが間違った決断を下してしまったシーンとして認識したい。
地域の理解もなく自分たちでさえいい事なのかうまくいくのかよくわからない新しいことを続ける人たち。彼らは毎日が暗中模索でいつも決断を迫られる。当然毎回正しい決断をするとは限らない。時には間違った事もしてしまうのである。そうした取り返しのつかない失敗というものも新規立ち上げにはつきものだ。だからこそラストに成功した時の感動が強まるのだ。
そうはいってもその後のコーチとの別れのシーンと、あっさり考えを変えて町に残るコーチ・・といったシーンは、イカニモすぎて苦笑すらさそう。私の責任ですと言い張ったコーチがあっさり前言撤回する様はなんともかっこ悪い。だがどんなにみっともなくてもバカみたいに笑ってろというコーチの思想とは矛盾がない。
この別れのシーンは駅のプラットホームで女の子たちがコーチから教わったフラダンスを涙ながらに披露する。事前に「フラダンスには手話の要素がある」とコーチがうんちくたれるのをへぇぇと聞き流していた何気ないシーンがこういうところの伏線になっているあたり、脚本家(※2)の力量を感じる。ただしコーチとの別れという状況設定の作り方が前述のようにちょいとわざとらしいのが難点なのだ。
(※2・・・脚本は李相日と羽原大介の共同。羽原は「パッチギ!」が代表作だろうが、それよりも「ふたりはプリキュア」で予定調和的女の子がんばって努力する善人は報われるストーリーをたっぷり書いている。ああいうところで腕を磨いてんのね・・・)
ベタベタな脚本とはいえ、そこらのホンより優れていると思ったところをもう一つ。
娯楽映画の基礎中の基礎「映画開始の早い段階で物語の最終目的を提示する」
この映画ではタイトル前のプロローグでそれがしめされる。主人公と思しき女の子(早苗)がフラダンサー募集のポスターを見つめる。そしてそのポスターをひっちゃぎって友達の女の子(紀美子)にフラダンサーになりたいという夢を熱く語る。
もちろん熱く語る早苗があんま見た事ない女優で、かたや紀美子は映画でCMで有名な蒼井優だから、ほんとはどっちが主役かくらい判るのだが、演出的に導入部では蒼井優は脇役である。
蒼井優など何も知らない人間(例えばハリウッドのアメリカ人)が見たら、この映画は早苗がフラダンサーになる夢をかなえる物語だと思うだろう。
話が進むにつれ演出のスポットは徐々に紀美子に移っていき、早苗がドタバタと失敗して皆の笑いを誘う一方で、紀美子は生活環境や家族関係の紹介、フラ以外に行き場のなくなったところが示されるが、主役として物語を引っぱりはしない。
だがやがて、主人公の交代が起こる。早苗が遠く北海道への引っ越しを余儀なくされ夢をあきらめざるを得なくなる。
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引き継ぎというシチュエーションを挟むことで主人公に共感しやすい物語としている。ここが平凡なベタドラマではあまり見られない点だと思う。その早苗から紀美子に夢が託される場所が、最初に早苗が紀美子に夢を語った場所であるというところも美しい。この脚本はこういう細やかな反復が上手い
「引き継ぎ」はコーチから生徒へのそれも描かれる。前半で覗き見していたコーチのダンスを、後半すっかりモノにしている紀美子。行為の反復が上の世代から下の世代への引き継ぎを表す。
ついでにそれが子から親への夢の逆引き継ぎというか伝染をもたらしているところも素晴らしく、人から人へと気持ちが伝わっていくことで時代や社会が変わっていくことが、いわきの地でシミュレートされているかのようだ。
ここまできたらついでに紀美子が後輩たちにダンスの指導するシーンでもあれば良かったのにと思うけど。
そんなこんなで、ベタドラマ嫌いのつもりだった私もいろいろと不満はありつつ、概ね満足できる佳作であった。
とは言え、アカデミー賞はどうだろうか?「リトル・ダンサー」や「フルモンティ」の好きなアカデミーにはうけるかもしれないが、二番煎じと一蹴されて終わりな気もする・・・
監督は李相日。これまで「69」「スクラップ・ヘブン」と見てきたが、どちらも「惜しいとこで傑作になり損ねて凡作止まり」だった。やっと凡作を越えて佳作を作ったところを良しとしたいが、安パイな通俗ベタドラマである本作よりも、前二作の方が映画作家としてはアグレッシブだった気もする(特に「スクラップ・ヘブン」は)。
このままリスクの少ない通俗ドラマの世界に留まるのだろうか。その方がいいような気もするし、残念な気もするし・・・塩田明彦みたいに両方使い分ける監督になるのが一番いいかも。
おおっと、最後に。
しずちゃん、いいね。むろん演技が上手いというわけじゃないが、誰よりも次の行動が気になる。存在感ありすぎ。今年の新人賞くらいはとれるんじゃなかろうか
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
納得です。面白い解釈ですね。
私もしんさんと同様、本作は、文句をつけながらも佳作だなあ、と評価しています。
それにしても、スポ根系ドラマは、すたれませんねえ。
名作っていうか佳作って感じですよね。あまり映画に興味ない人に進めやすく、そういう人たち相手に話題を映画にもっていくとっかかりにいい作品だと思います。
これからも世界中でスポコン映画がつくられウダツのあがらなかった監督が世界に羽ばたくきっかけとなっていくのでしょうね。おいしいジャンルです。
コレ、ゼッタイほしかった!
羽原大介って「プリキュア」の人なんですか。
ちゃんと見てなったのを後悔しています。
「69」に関しては、宮藤官との相性がよろしくなかったのかと・・・。
キム・ギドク。彼だけは、特異な人じゃない?
そうだそうだキム・ギドクがいたじゃないか
模倣から遠い男が・・・・って思ってたら、キム・ギドク引退宣言だって
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/22/20060822000031.html
まったく、バカだな
たしかに、映画というのは、引用の塊みたいなものですね。
この映画のリアリティは、やはり、炭鉱の閉鎖に伴う地域社会の激変というテーマが、観客の(あるいは係累を通じての)記憶を揺さぶるところだと思います。
そこが、方言も伴って、懐かしいような、胸が痛くなるような、感情を呼び起こします。
北海道出身の私は夕張のことを思い出しながら観ました。閉山からリゾートへと転換図ろうとした点は同じでも明暗わかれたところが寂しいかな、街自体の経済力の違いなのかと・・・いろいろ考えさせられました。
方言は楽しかったけど、松雪泰子に「なまってて全然わかんない」とわざわざ言わせる説明的すぎる演出はちと残念でした