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『機動戦士ガンダム ククルスドアンの島』 ~ 思想性から非情さへの変遷

2022-07-25 08:21:55 | 映評 2013~
ガンダムの映画を劇場で観たのは実はこれがたったの3回目。
『めぐりあい宇宙』を小学のころ、『逆襲のシャア』を高校のころにそれぞれリアルタイムで観ている
それ以外のガンダム映画は、すべてテレビかレンタルで観た。『ガンダム』と『哀戦士』の時は小学低学年だったし、『F91』のころはガンダムへの興味が薄れていたし、『Z』3部作は単純にあまり見る気がしなかった。Zは後に配信で観たが、新たに書きおろされた絵がひどかったり、ラストの改変もひどかったし、あまりいいところのない作品だった。『F91』は後年になって見てみると結構面白かった。
『閃光のハサウェイ』は、最近WOWOWで観て、画は綺麗で演出もかっけーけど、あんまりおもしろくなかった…

さておき、今回なんでわざわざ劇場で観たのかと言えば、やっぱりファーストガンダムが好きだから。その一点に尽きるのです。
それでもあの日はシンウルトラマンとガンダムのどちらを観ようか迷っていたけど、ライブビューイングでの安彦監督、古谷さん古川さんらの舞台挨拶付きの回がみれるということで、迷いなくガンダムを選んだのでした。

古谷さんと古川さんは相変わらずの声で、子供のころ聞いたアムロとカイの声そのまんま。
他のキャラは軒並みキャスト交代されていて、すこし寂しいけれど、ブライトさんの声は鈴置さんが生き返ったのかと思うくらいにそっくりだったし、セイラの声をララアの娘さんが演じているというのはとても感慨深いものがあります。
カイの古川さんは舞台挨拶で観るととても若々しかったけれど、実は安彦監督より一つ年上なのだという。考えてみると物心ついたころから古谷さん古川さんの声を聴いていたのだし、それくらいの年にはなりますよね。そして今も現役でいてくれてありがとうございます。

さてと本編について

ガンダムのテレビ版あるいは劇場版だけしか見たことのない人が本作を見ると、テレビ版や劇場版との設定の違いに少々戸惑うかもしれない。
セイラの乗る機体がGファイターではなくコアブースターなのは、劇場版ガンダム三部作を正史とするガンダム世界ではもはや違和感はない。『Z』のハヤトの博物館には『めぐりあい宇宙』のガンキャノンが飾ってあったし(レプリカだろうが)、『逆シャア』の回想シーンでもセイラはコアブースターに乗っていたから。
そこよりも戸惑いそうなのは、これから「オデッサの戦い」が始まる、という段階で、連邦軍はすでにジムが主力モビルスーツとなっており、またホワイトベースにはスレッガーがすでに乗船していて、リュウが不在なことだ。
テレビ版で「ククルスドアンの島」はガルマ編とランバラル編の間に置かれたエピソードで、この時スレッガーはまだいないし、連邦軍の主力は戦車と戦闘機だった。

これは種を明かせば、本作はテレビ版ガンダム史とも、劇場版ガンダム史とも異なるパラレルバースなガンダム史であり、もっと言うと安彦良和により執筆された漫画「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」の史観におけるエピソードだからである。

一応おさらいで、テレビ版ガンダムのホワイトベースの地球での行程を振り返る

ホワイトベースはシャアの策略でジオン制圧化の北アメリカ大陸に降下し、そこでガルマ・ザビと戦う
その後、レビル将軍からオデッサの戦いに参加せよと命じられて、太平洋を渡ったと思われる。
途中ククルスドアンの島のエピソードとなる。南の島っぽかったので、南太平洋か東南アジアのどこかだろう。
ちなみにククルスドアンの次のエピソードが「セイラ出撃す」で、この時ホワイトベースは食事に使う塩がなくなり、塩を求めて砂漠の湖を求めてさまよう。しかし地図にあった湖は消えていて別の場所に移動していた。
なんとなく中国西部のロプノール湖を彷彿とさせる。だとするとククルスドアンの島は沖縄あたりだった可能性もあり、本記事の後の考察と関連してくる。といってもジオンのコロニー落としで地球は人口の半分を失い環境も激変したと思われるのでどこか別の場所と考える方が無難だろう。
ともかくホワイトベースは中央アジアの砂漠地帯でランバラル隊と戦う(永井一郎のナレーションで明確に「中央アジア」と言っている。といってもインドなのかカザフなのかアラビアなのか判然としない)。ランバラルを倒すが彼の恋人?ハモンが仇討ち戦を仕掛けその中でリュウが死ぬ。
その後、おそらく今のロシア領内のどこかで黒い三連星の攻撃を受けて、そしてウクライナのオデッサ(オデーサ)でマクベの地球派遣軍総本部との戦いに参加。マクベは核ミサイルを撃つがガンダムが空中で弾頭部をぶった切って事なきを得る。マクベは「ジオンはあと10年は戦える」とつぶやき宇宙へ脱出。
そこからホワイトベースは北アイルランドのベルファストに移動。そこで女スパイのミハルが潜入。
そこから大西洋を斜めに横断する中でミハルが死に、そしてブラジルの奥地のジャブローの連邦軍本部に入港。
ジャブローでスレッガーが乗船し、ホワイトベースは宇宙へ…

一方で安彦良和のガンダムORIGIN版はというと

ホワイトベースはシャアの策略でジオン制圧化の北アメリカ大陸に降下し、そこでガルマ・ザビと戦う
その後、アメリカ大陸を北上してジャブローに向かう途中の中央アメリカでランバラル隊と交戦。ランバラルを倒すが彼の恋人?ハモンが仇討ち戦を仕掛けその中でリュウが死ぬ。
さらにペルーあたりで黒い三連星の攻撃を受けるが撃退し、ジャブローに入港
スレッガーが乗船し、連邦はすでに量産していたジムでジオンのジャブロー攻撃隊を撃退する
ここから漫画は、長い回想シーンになり、シャアとセイラの子供時代から、ジオンと連邦の開戦まで単行本だと6巻分に相当する。(ORIGINはこの回想編が一番面白い)
そして回想開けるとホワイトベースがベルファストに入港するところから始まる
女スパイのミハルが潜入し、ホワイトベースはジブラルタル経由で黒海を目指すルートでオデッサを目指す。その道中でミハルが死に、オデッサの戦いはモビルスーツ部隊がぶつかり合う激戦となり、マクベも専用モビルスーツ・ギャンで出撃。ギレンから地球の主要都市を核攻撃せよと命じられるが地球文化の「通」であるマ・クベは「ジオニズムの理想なぞ私にとって白磁の名品一個にも値しないのだよ」と言ってギレンの命令を拒否。マクベはギャンを自爆させオデッサと運命を共にする。


というわけで、映画版ククルスドアンは、ORIGINにおける開戦編等が語られていた間に端折られた、ジャブローからベルファストへの道中での物語という位置づけになっている。
劇中でもククルスドアンの島の位置が北アフリカ付近であることが地図からわかる。
実は安彦良和はORIGIN最終巻のあとがきのインタビューの中でククルスドアンについて語っている。
いわくORIGINにおいてアニメ版をできるだけ変えないようにしたエピソードは原典を全面支持しているところで、変えたエピソードは原典において満足できなかったものだと語り、一切触れていないのは単に無視したのだという。
しかしククルスドアンについては、「面白いエピソードだと思うし、解釈というかやりようはあるけど、あれはメインストーリーから完全に独立した話になっていたので外しました。だから無視というのとはちょっと違うかな」と言っている
たぶん今さらガンダム本編を作り直すようなことはしたくはなかったのかもしれないが、ククルスドアンなら何をやっても物語の大改造には当たらないし、やり残したことをできる最後のチャンスと思ったのかもしれない。

さて、この発言からククルスドアンの島の「変えた部分」についてちょいと考察してみたい

その前に話はだいぶ変わりますが、私は子供のころからガンダムの「ククルスドアンの島」は、日本国の憲法9条についての物語だと思っていた!!さらにいえば沖縄を比喩した物語なのかもしれないと思っていた。
ガンダム本放送のころは小学1年だから、その当時にそこまで思ったわけではないけど
といってもガンダムは平日5時台のアニメ・特撮の再放送枠の定番番組だった。ガンダムは42話しかないので月~金の週5で放送したら2ヶ月くらいでおわる。だから年1回くらいは再放送されていたのだ。(他に再放送枠の定番はルパン、ヤマト、ウルトラ、ライダー、巨人の星、タイガーマスク、トムとジェリー、アーノルド坊やは人気者…)
だから色々深読みしたのは小学の高学年くらいのことだと思う。
といっても小学生でしょ?と思うかもしれないが、我が家は子供でも憲法の特に9条については考えさせられる家だった
右側の意味でなく左側の意味で

テレビ版ククルスドアンの島は、私がそう見たいからそう見えるだけかもしれないが、左翼的というかリベラル的な物語だったように感じている。
一方で安彦良和という方は、多分右左で言えば右側の人の様に思える。とりたてて根拠はないけれどガンダムTHE ORIGINのあちこちの台詞からそう感じる。
念のため言うと私は映画作家にしろ漫画家にしろ、右だから左だからという理由で好きになったり嫌いになったりはしない。創作は自由であるべきだし、究極的には思想よりも面白さを評価すべきだと思う。思想的すぎる作品になると話は変わってくるのだが、ガンダムやヤマトやナウシカを思想性で評価するのは間違っていると思う。ヤマトは右寄りだと、主に左側から批判されたが、あれはあれで戦争の無意味さを描いてもいたと、今では思う。

話を戻してククルスドアンがどうして9条や沖縄についての物語と思ったのかだが、まずはテレビ版の物語を振り返る

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連邦の軍用機が近くで消息を絶ったいう連絡があり、アムロがコアファイターで捜索に向かう。
ある島に不時着したらしい連邦機を見つけたのでその島に降りてみると、小さな子供たちから石を投げつけられる。
するとザクが現れて帰れという。アムロはコアファイターでザクを倒そうとするが、逆にザクによって撃ち落される(信じられない撃ち落し方をするのだがそれはまあよい)。
アムロが意識を取り戻すとそこはザクのパイロットのククルス・ドアンと彼と暮らす子供たちとロランと言う少女(アムロと同じくらいの年齢に見える)の家だった。
ドアンと子供たちはのんびりと畑を耕して平和に暮らしている
ジオンの人間を信じられないアムロはドアンが子供たちをだましているに違いないと思う。コアファイターはドアンによってどこかに隠されたのでアムロは自力で探そうと島を一人で探索する。ロランにドアンは悪い人じゃないと言われるがアムロは信じない。
そうこうしているとジオンの偵察機がザクを運んで島に飛来する。
ドアンは実はジオンの兵として作戦に参加し、子供たちの親を殺したのだという。ジオン軍から子供も殺せと命じられたがそれはできなかったドアンはジオンを脱走し子供たちを連れて島に隠れていたのだ。ジオンは脱走兵を始末しにきたのだ。
アムロはドアンが返したコアファイターで飛び立ち、ようやくアムロを見つけたホワイトベースに戻ってガンダムとなってドアンに加勢しようとする。
しかしドアンは手を出すなと言って、作画崩壊もあってボロボロのザクをさらにボロボロにしながらジオンが送り込んだザクを挌闘戦で撃破するのだった。
ドアンはこれからもジオンは私を狙ってくるだろう。だが私は子供たちを守るために戦わなければならない(だからザクが必要だ)、と言う。
それに対してアムロは、いえ、あなたにこびりついた戦いのにおいが敵を呼ぶんです。その戦いのにおいを消させてください、と言ってガンダムに乗り込み、ドアンのザクを抱え上げて海に放り投げる。
子供たちは、なんてことをするんだ!と怒るが、ドアンは、あのお兄ちゃんはとてもいいことをしてくれたんだよ、と言うのである。


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いやいやザクを捨てて、実際ジオンがまた来たらどうするの?と思わないでもない。恐らくホワイトベースがドアンと子供たちを一時的に保護してジオンの勢力範囲外の島にでも移送したのではないかと想像する。しかしそうした想像が無くてもこれは平和のために武器が必要という主張に待ったをかける物語であり、そのためにリアリティは多少犠牲にしてでもメッセージを投げかけたかったのではないかとも思うのだ。

侵略から守るために武器が必要だ
いや武器があるから侵略を呼ぶんだ
・・・という議論を彷彿とさせる物語だと子供心にも思っていた。
さらにいえば、沖縄の問題
中国の侵略から守るために米軍が必要だ
いや米軍がいることが戦争の口実を与える
・・・という議論も思い起こす。
富野さんという方がどういう思想の人かは全然知らない。
なんにしても『ククルスドアンの島』が沖縄の米軍不要論や、日本の自衛隊の是非における、左側の意見を比喩した物語かどうかはわからないしどっちでもいい。ただ私の様にそう考えることは可能な話だと思う。
だからこそ安彦監督がククルスドアンをどのように解釈するのかが気になっていたのだ。

そして安彦版は、おおむね同じ物語、同じ結末でありながらも、いくつかの改変により物語に無理を失くし、引き換えに思想性はだいぶ薄められたように思った。

最大の変更はドアンを単純な脱走兵ではなくしたことである。
ドアンは「残置諜者」で、ジオンが連邦から奪った島のミサイル基地を管理している。いや、本当の残置諜者を排除して自分がひそかに入れ替わったのかもしれない。
いずれにせよ映画版のドアンはオリジナルTV版よりジオンの影におびえる必要はない。
終盤でサザンクロス隊のザク(がめちゃくちゃかっこよくてプラモほしいんですけど)が来るのも、ドアンを見つけたからではなく、ドアンがミサイル基地の通信を切ったので調査のために派遣されたに過ぎない。
そしてアムロはドアンに協力してサザンクロス隊を撃破する。こうなるとドアンはジオンから見れば完全に裏切者であるが、しかしジオンはもうドアンの島を襲わせることはないであろうことを物語はにおわせる。
ドアンはミサイルに細工をし、地球の主要都市を焼き払うべく発射されたミサイルは、発射直後に空中分解してしまった。オデッサの本部でその様子を見ていたマ・クベは「私の他にも地球文化を愛するものがいたということか、ハハハ」と笑う。
ガンダムORIGINでは、先に書いたようにマ・クベはこの後のオデッサの戦いにおいて、ギレン・ザビから地球の主要都市を核で焼き払えと命じられるも、「ジオニズムの理想なぞ私にとって白磁の名品一個にも値しないのだよ」とギレンの命令を一蹴する。(戦術核によりレビルの指揮する本隊を核で破壊しようとはするがガンダムに阻止される。マクベはテレビ版ではかなり嫌な奴だったが、オリジン版は独自の美学を持った軍人として描かれている)
『ククルスドアンの島』のラストにおけるマ・クベの一本取られた的な清々しさすら感じる笑いは、もしかすると初めからミサイルは連邦を脅すだけで都市破壊の前に爆破するつもりだったのかもしれなかったことを思わせる。あるいは核を使うつもりだったがドアンの予想外の工作による失敗が、彼の中の何かを変えて、後のギレンに対する命令無視につながるということだったのかもしれない。
ともかくマ・クベはドアンの島に対して興味を失ったことが彼の笑いから察せられる。
そのため、ラストでアムロが行うドアンのザク廃棄は、アムロにはマ・クベが笑っていたことなど知る由もないが、観客にとっては、アムロは単に不要になったものを廃棄しているにすぎない。
防衛の武器が敵を呼ぶ、この悪循環を断つためにドアンのザクを捨てる…というテレビ版の思想性の強いアムロの行動と比べると、映画版はもうこの島は平和なんだから武器は要らんでしょ、という行動であって思想性はない。むしろアムロの台詞が上滑りしているような印象すらある。
オリジナル版で物語的に無理のあった部分を修正し、整合性をとり、鑑賞後に不安が残らないようなきちんとしたハッピーエンドに仕立てられていて、脚本としてTV版よりはるかによくできているだが一方で、本来の『ククルス・ドアンの島』の肝の部分が薄まった感もある。

しかし逆に2022年だからか、あるいは安彦氏の個性か、戦争の非情さはより強く表れている気もする。シャアの台詞「戦いは非常さ…」を思い出す。

ドアンと子供たちが戦いの後も無事でいるためには、島に侵入したジオン兵は一人残らず口封じのために殺さなくてはならない。
ある意味ザクは連邦のモビルスーツと交戦したのは確かなので、ザクのメモリーや通話記録などがマクベの本隊に伝わってもドアンの裏切りはごまかせるかもしれない。が、しかし兵士が生きて帰還されると厄介だ。だからかドアンの島に侵入したジオン兵は皆殺しにされる。ザクを操縦し交戦した者たちはそれも兵の務めと仕方ないかもしれないが、特筆すべきはガンダムを取り戻したアムロが生身のジオン兵をガンダムで踏みつぶす描写だ。気づかずにプチ…とかでなくアムロは明確に意図的に兵士を踏みつぶした。
そりゃもちろんザクに乗られる前に始末する方が戦争としては正解なのだが、「戦いは非情さ…」と、映画を観ながら心でつぶやいてしまった。
テレビ版第二話でジオン兵に向けて「撃つぞ…撃つぞ…撃つぞぉぉぉぉぉ!!!」と叫んでいたころのアムロはもういない。すでに、母との再会エピソードで生身のジオン兵に発砲しているし、目の前でランバラルが爆死したり、リュウが体当たりしたりを目の当たりにしてきたのだ。そりゃ兵士としては成長している。
あらためてガンダムは戦争を描いた物語だったんだと思い知る。ガンダムをもう一度作れる最後の機会かもしれない安彦監督にとって、子供だましなことはしたくなかったのだろう。

テレビ版は思想的でファンタジックといってもいい物語だったのに対し、映画版は非情なまでのリアリスティックな物語になったと言えるだろう。この辺は安彦良和監督の個性なのだと思う。


などと色々思うところはありつつも、本作には素直に熱く感動したのだった。
アムロとホワイトベース隊の戦いを、2022年の作画レベルでもう一度観ることができるなんて夢のようだった。
音楽も、テレビ版で何度も聴いた曲が、服部隆之によるオーケストレーションで新録されたものを聴けるのも感動だ。アムロ行きまーすの時によく使われた曲や、モビルスーツ戦でよく使われた曲や、予告編でも使われていた曲やらが響くと感動しかない。
40年ちかくたってから、また古谷さんの声のアムロが乗るRX-78が活躍するガンダムの長編映画を見せてくれた安彦監督に心から感謝したい

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追記
子供のころを思い出しつい劇場でグッズを買ってしまう
しかも本編に一瞬たりとも出てこないズゴックのカッティングボード。水陸両用が好きなんですよ。
安彦監督とカイ役の古川さんがお元気なうちに「大西洋血に染めて」をリメイクしてくれないかなぁ





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