2000年度の外国映画Myベストから「マーシャル・ロー」と「英雄の条件」の2作品について、いろいろ書いてみる。
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2001年9月11日の約1年前に公開されたエドワード・ズウィック監督の「マーシャル・ロー」が興味深い。
この映画は1年後のあの事件を予感しているようでもあり、また一方ではあれほど想像を絶する惨劇が現実に起こるとまでは予感し切れなかった映画である。
(1)「マーシャル・ロー」はアラブ人のテロリストがN.Y.で自爆テロを起こす。バスの破壊から始まり、やがてはFBI本部に爆弾を積んだトラックで特攻をかける。
(2)FBIはテロ犯を追う。その過程でFBIのリーダは元情報部で今はテロ組織にもぐりこんでいる女性と接触。彼女は、今世界を脅かすテロリストの多くはかつてCIAが対ソ、対イラン戦略のために育成された人たちであると語る。
(3)軍は暴走し、FBIの捜査におかまいなく、N.Y.に戒厳令を敷き、アラブ系住民を手当たり次第に強制収用施設に送り込む。
(1)は1年後あまりにスケールアップされた形で現実のこととなる。
(3)は1年後強制収用ではなく、人権を無視したアラブ系住民、イスラム教徒への監視に形を変える。
2000年の映画マーシャル・ローと2001年のあの事件とを比較すると、映画の力の無さを痛感してしまう。
映画は戒厳令が、司令官の作戦失敗隠蔽を目的としたカモフラージュであることを知ったFBIのリーダが、アメリカ憲法の理念を司令官と兵士たちに語り、武装解除させる感動的なエンディングを迎える。
しかし現実はそんなに甘くなく、軍は国民の熱狂的な支持を得て、アフガンに爆弾の雨を降らし、さらに勢いに乗って無関係のイラクにまで攻撃の手を広げる。
この辺も映画の理想主義が現実に敗北した感を強くしたのであった。
それでも、この映画はアメリカ映画にはめずらしく、善良なイスラム教徒の市民たちの普通の日常がわずかではあるが描かれる点、(2)のようにテロの元凶が自分たちにあることを明確に語るところなど、アメリカ映画界のタブーに挑んだ野心的社会派エンターテインメントとして、2008年現在においても評価できる部分がある。
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イスラム圏でのテロと米軍の軍事介入をネタにした作品ではもう一本「英雄の条件」(ウィリアム・フリードキン監督)がある。
「マーシャル・ロー」とは対照的に、アメリカの歴史的責任に目をつぶり、現実におこった破壊・攻撃行為のみを描いてそれに「適切に対処」した米軍を弁護する内容である。
しかしこの映画は逆に戦争の真実をあぶりだしてしまい、作り手の意思とはおそらく関係なく、戦争の非人道性を浮き彫りにした気がする。
この映画ではイエメンのアメリカ領事館を暴徒化した市民が包囲し、領事を救出にきた米軍が大勢の一般市民を射殺した事件が描かれる。
射殺されたイエメンの市民の中には幼い少女も含まれている。
軍事裁判が開かれ、射殺を命じた指揮官が被告となる。
映画ではなぜ一般市民が暴徒化したかは一切説明されないし、米国とイエメンのこれまでの関係も、米国の中東政策も一切語られず、ひたすら現場での発砲行為の是非に限定して物語は進む。
そして結論から言えば、幼い少女も含め暴徒たちは銃器で武装して米兵を攻撃しており、発砲命令は戦闘指揮官として当然のことであったと映画は結論付ける。
それを「アメリカの軍事行動を肯定するものだ」、「アラブ人の人格が何も描かれずテロリスト集団のように描かれている」などといくらでも批判はできるし、そのような批判も別に間違いではない。
だが、それでもなおこの映画は兵士の目から見た真実を描いているように思えるし、それゆえ軍の行動を批判することも可能なのである。
たとえ指揮官として正しい行動だったにせよ、少女が撃ち殺される姿はなんとも後味が悪い。
それでも兵たちは感情を押し殺して、軍の行動規範に基づいて時には引き金を引かねばならない。
サイコガンダムで市街地もろともガンダムMk.2を攻撃するフォウ・ムラサメを涙ながらに説得するカミーユ・ビダンなど現実の戦場にはいるはずもないのだ。
自らの命を危険にさらした上、女殺し、子供殺しと罵られ、殺した少女の姿が脳裏に刻まれようとも、行動規範を遵守し、命令に従わねばならない兵たち。彼らは銃後の自国民から見れば「英雄」であろう。
だが(この映画の)兵たちは、前線においては自分の命や仲間の命を守るために精一杯で、英雄的愛国行為をしようなどと崇高な考えに頭を回している余裕はない。もちろんアメリカと中東の歴史や、敵の人格など考える余裕があるはずもない。
少なくとも私は、本作での米兵に向け銃を撃ってしまうまでになってしまった少女から、その少女を殺さざるを得ない兵たちの姿から、中東に軍隊を次々と送り込んでテロリストを殲滅すべしとは考えさせられない。国の政策で犠牲になる市民や恐怖と苦痛を味わう兵士たちに同情するしかない。そこまでの意図があって作ったかはわからないし、なんだかんだでサミュエル・L・ジャクソンの熱い軍人魂に酔う映画なのだが。
好対照な2作の作品が9.11の一年前に公開されていたことが今となっては興味深い。
「マーシャル・ロー」は9.11を、「英雄の条件」はアフガン戦争、イラク戦争をあるいは予感していたのかもしれない。
だが、映画で描かれたテロはその後の未曾有の惨劇までは予測できなかった。
そしてアメリカ国民は中東への軍隊派遣と戦争を熱狂的に支持した。
あの日、現実は映画を超えた。
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2001年9月11日の約1年前に公開されたエドワード・ズウィック監督の「マーシャル・ロー」が興味深い。
この映画は1年後のあの事件を予感しているようでもあり、また一方ではあれほど想像を絶する惨劇が現実に起こるとまでは予感し切れなかった映画である。
(1)「マーシャル・ロー」はアラブ人のテロリストがN.Y.で自爆テロを起こす。バスの破壊から始まり、やがてはFBI本部に爆弾を積んだトラックで特攻をかける。
(2)FBIはテロ犯を追う。その過程でFBIのリーダは元情報部で今はテロ組織にもぐりこんでいる女性と接触。彼女は、今世界を脅かすテロリストの多くはかつてCIAが対ソ、対イラン戦略のために育成された人たちであると語る。
(3)軍は暴走し、FBIの捜査におかまいなく、N.Y.に戒厳令を敷き、アラブ系住民を手当たり次第に強制収用施設に送り込む。
(1)は1年後あまりにスケールアップされた形で現実のこととなる。
(3)は1年後強制収用ではなく、人権を無視したアラブ系住民、イスラム教徒への監視に形を変える。
2000年の映画マーシャル・ローと2001年のあの事件とを比較すると、映画の力の無さを痛感してしまう。
映画は戒厳令が、司令官の作戦失敗隠蔽を目的としたカモフラージュであることを知ったFBIのリーダが、アメリカ憲法の理念を司令官と兵士たちに語り、武装解除させる感動的なエンディングを迎える。
しかし現実はそんなに甘くなく、軍は国民の熱狂的な支持を得て、アフガンに爆弾の雨を降らし、さらに勢いに乗って無関係のイラクにまで攻撃の手を広げる。
この辺も映画の理想主義が現実に敗北した感を強くしたのであった。
それでも、この映画はアメリカ映画にはめずらしく、善良なイスラム教徒の市民たちの普通の日常がわずかではあるが描かれる点、(2)のようにテロの元凶が自分たちにあることを明確に語るところなど、アメリカ映画界のタブーに挑んだ野心的社会派エンターテインメントとして、2008年現在においても評価できる部分がある。
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イスラム圏でのテロと米軍の軍事介入をネタにした作品ではもう一本「英雄の条件」(ウィリアム・フリードキン監督)がある。
「マーシャル・ロー」とは対照的に、アメリカの歴史的責任に目をつぶり、現実におこった破壊・攻撃行為のみを描いてそれに「適切に対処」した米軍を弁護する内容である。
しかしこの映画は逆に戦争の真実をあぶりだしてしまい、作り手の意思とはおそらく関係なく、戦争の非人道性を浮き彫りにした気がする。
この映画ではイエメンのアメリカ領事館を暴徒化した市民が包囲し、領事を救出にきた米軍が大勢の一般市民を射殺した事件が描かれる。
射殺されたイエメンの市民の中には幼い少女も含まれている。
軍事裁判が開かれ、射殺を命じた指揮官が被告となる。
映画ではなぜ一般市民が暴徒化したかは一切説明されないし、米国とイエメンのこれまでの関係も、米国の中東政策も一切語られず、ひたすら現場での発砲行為の是非に限定して物語は進む。
そして結論から言えば、幼い少女も含め暴徒たちは銃器で武装して米兵を攻撃しており、発砲命令は戦闘指揮官として当然のことであったと映画は結論付ける。
それを「アメリカの軍事行動を肯定するものだ」、「アラブ人の人格が何も描かれずテロリスト集団のように描かれている」などといくらでも批判はできるし、そのような批判も別に間違いではない。
だが、それでもなおこの映画は兵士の目から見た真実を描いているように思えるし、それゆえ軍の行動を批判することも可能なのである。
たとえ指揮官として正しい行動だったにせよ、少女が撃ち殺される姿はなんとも後味が悪い。
それでも兵たちは感情を押し殺して、軍の行動規範に基づいて時には引き金を引かねばならない。
サイコガンダムで市街地もろともガンダムMk.2を攻撃するフォウ・ムラサメを涙ながらに説得するカミーユ・ビダンなど現実の戦場にはいるはずもないのだ。
自らの命を危険にさらした上、女殺し、子供殺しと罵られ、殺した少女の姿が脳裏に刻まれようとも、行動規範を遵守し、命令に従わねばならない兵たち。彼らは銃後の自国民から見れば「英雄」であろう。
だが(この映画の)兵たちは、前線においては自分の命や仲間の命を守るために精一杯で、英雄的愛国行為をしようなどと崇高な考えに頭を回している余裕はない。もちろんアメリカと中東の歴史や、敵の人格など考える余裕があるはずもない。
少なくとも私は、本作での米兵に向け銃を撃ってしまうまでになってしまった少女から、その少女を殺さざるを得ない兵たちの姿から、中東に軍隊を次々と送り込んでテロリストを殲滅すべしとは考えさせられない。国の政策で犠牲になる市民や恐怖と苦痛を味わう兵士たちに同情するしかない。そこまでの意図があって作ったかはわからないし、なんだかんだでサミュエル・L・ジャクソンの熱い軍人魂に酔う映画なのだが。
好対照な2作の作品が9.11の一年前に公開されていたことが今となっては興味深い。
「マーシャル・ロー」は9.11を、「英雄の条件」はアフガン戦争、イラク戦争をあるいは予感していたのかもしれない。
だが、映画で描かれたテロはその後の未曾有の惨劇までは予測できなかった。
そしてアメリカ国民は中東への軍隊派遣と戦争を熱狂的に支持した。
あの日、現実は映画を超えた。
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