文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

「敵国」日本について徹底的に研究したOSSは、1942年6月3日付で「日本計画」(最終草稿)というプロパガンダ戦略を作成している。

2018年10月24日 13時16分25秒 | 日記

江崎道朗氏の著作が歴史的な名著であることは言及して来たとおり。

この章の題名通りの工作が今も日本のメディアや所謂文化人たちに為されている結果が朝日やNHK等や野党政治屋達の態様であると考えれば、物事の真相がたちまち明らかになるのではないか。

見出し以外の文中強調は私。

日本を分裂させ、相互不信を増幅せよ 

加藤哲郎氏の研究によると、OSSは日米開戦の前から日本に関する情報を収集していた。

1942年2月にはその成果を、全40章、378頁におよぶ報告書にまとめあげている。

「日本の戦略的概観」というこの報告書は日本の百科全書とも呼ぶべき網羅的なもので、人口、国内・満洲・中国占領地域・海外の委任統治領などを含めた日本の支配地域に居住するエスニック集団、言語、国民性、生活状態、労働条件、公衆衛生、教育、宗教、公共秩序と警察、新聞、政府、政党、外交、経済など、幅広くかつ詳しく分析していた。

相手国を支配しようと思えば、このように徹底的に相手国について研究するものなのだ。

日本では、アメリカへの対応をめぐって「親米」か「反米」かという議論が長らく行なわれてきたが、その視点の低さに落胆を禁じえない。

なぜ、アメリカを徹底的に研究し、アメリカにどう影響力を行使するのか、という議論が生まれてこなかったのか。

「敵国」日本について徹底的に研究したOSSは、194263日付で「日本計画」(最終草稿)というプロパガンダ戦略を作成している。

加藤哲郎氏によれば、そこでは、次の4つの政策目標が掲げられた。《1 日本の軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷付ける、

 2 日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる、

 3 日本軍当局の信頼をおとしめ、分裂させる、

 4 日本とその同盟国及び中立国を、分裂させる》

 これらを達成するため、「日本計画」は次の8つの宣伝目的を定めている。

《1 日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること、

 2 日本と米国の間に、戦争行動の文明的基準[civilized standards of war conduct」を保

  持すること、

 3 日本の民衆に、彼らの現在の政府は彼らの利益には役に立っていないと確信させ、普通の人々が、政府の敗北が彼ら白身の敗北で        あるとはみなさないようにすること、

 4 日本の指導者と民衆に、永続的勝利は達成できないこと、日本は他のアジア民衆の必要な援助を得ることも保持することもできないことを、確信させること、

 5 日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと

 6 内部の反逆、破壊活動、日本国内のマイノリティ集団による暴力事件・隠密事件への不安をかき立て、それによって、日本人のスパイ活動対策の負担を増大させること、

 7 日本とその枢軸国とを分裂させ、日本と中立諸国との間の困難を促進すること、

 8 日本の現在の経済的困難を利用し、戦争続行による日本経済の悪化を強調すること

 「日本計画」は、「天皇制を廃止せよ」というノーマンやビッソンとは異なり、「天皇制」を活用して日本を解体しようというものだ。また、天皇を直接に非難することは連合軍の戦争遂行のためのプロパガンダとして適切ではないと分析していた。

「日本計画」最終草稿が具体的な宣伝目的として次のような項目を掲げているのは、その現れである。

 《(d)日本の天皇を(慎重に、名前を挙げずに)、平和のシンボルとして利用すること「T0 use the Japanese Emperor(with Caution and not by name) as a peace symbol」

 (e)今日の軍部政権の正統性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む[including the Emperor andhis House]日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること、 

 (g)日本に対して、我々が勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福[post-ear prosperity and happiness] を約束すること》] 

この「日本計画」の基盤にあるのは、マルクス・レーニン主義が唱えた階級闘争に似た、二分法である。

階級闘争史観では、ブルジョワなど支配階級とプロレタリアートなど被支配階級を明確に二分化し、支配階級を「敵」と決めつけ、敵の徹底的な破壊をめざす。

対日戦略でも、日本を二つに「分断」し、その対立を煽って弱体化させ、支配していくことをめざしたのだ。

まさに分断統治(分割統治)である。

ただし「二分」する方法は、ビッソンやノーマンらとOSSとでは異なっていた。

ビッソやノーマンらが、「天皇を中心とした支配層」と一般の人民」を分けているのに対して、「日本計画」は「天皇・一般の国民」対「軍部」に二分しようとしたのである。

「日本計画」では天皇を平和のシンボルとして連合国のプロパガンダに利用するために、明治天皇の立憲君主としての側面を強調し、昭和天皇が満洲事変にも日独伊三国同盟にも反対していた事例を宣伝の根拠として利用する戦略だった。

「日本計画」は天皇への攻撃は避けつつも、前述の8つの宣伝目的の56からは、日本国内のあらゆる勢力を利用して騒擾と分断を引き起こすことをめざしていたことが読み取れる。

この稿続く。


なぜ、アメリカを徹底的に研究し、アメリカにどう影響力を行使するのか、という議論が生まれてこなかったのか。

2018年10月24日 13時14分38秒 | 日記

江崎道朗氏の著作が歴史的な名著であることは言及して来たとおり。

この章の題名通りの工作が今も日本のメディアや所謂文化人たちに為されている結果が朝日やNHK等や野党政治屋達の態様であると考えれば、物事の真相がたちまち明らかになるのではないか。

見出し以外の文中強調は私。

日本を分裂させ、相互不信を増幅せよ 

加藤哲郎氏の研究によると、OSSは日米開戦の前から日本に関する情報を収集していた。

1942年2月にはその成果を、全40章、378頁におよぶ報告書にまとめあげている。

「日本の戦略的概観」というこの報告書は日本の百科全書とも呼ぶべき網羅的なもので、人口、国内・満洲・中国占領地域・海外の委任統治領などを含めた日本の支配地域に居住するエスニック集団、言語、国民性、生活状態、労働条件、公衆衛生、教育、宗教、公共秩序と警察、新聞、政府、政党、外交、経済など、幅広くかつ詳しく分析していた。

相手国を支配しようと思えば、このように徹底的に相手国について研究するものなのだ。

日本では、アメリカへの対応をめぐって「親米」か「反米」かという議論が長らく行なわれてきたが、その視点の低さに落胆を禁じえない。

なぜ、アメリカを徹底的に研究し、アメリカにどう影響力を行使するのか、という議論が生まれてこなかったのか。

「敵国」日本について徹底的に研究したOSSは、194263日付で「日本計画」(最終草稿)というプロパガンダ戦略を作成している。

加藤哲郎氏によれば、そこでは、次の4つの政策目標が掲げられた。《1 日本の軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷付ける、

 2 日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる、

 3 日本軍当局の信頼をおとしめ、分裂させる、

 4 日本とその同盟国及び中立国を、分裂させる》

 これらを達成するため、「日本計画」は次の8つの宣伝目的を定めている。

《1 日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること、

 2 日本と米国の間に、戦争行動の文明的基準[civilized standards of war conduct」を保

  持すること、

 3 日本の民衆に、彼らの現在の政府は彼らの利益には役に立っていないと確信させ、普通の人々が、政府の敗北が彼ら白身の敗北で        あるとはみなさないようにすること、

 4 日本の指導者と民衆に、永続的勝利は達成できないこと、日本は他のアジア民衆の必要な援助を得ることも保持することもできないことを、確信させること、

 5 日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと

 6 内部の反逆、破壊活動、日本国内のマイノリティ集団による暴力事件・隠密事件への不安をかき立て、それによって、日本人のスパイ活動対策の負担を増大させること、

 7 日本とその枢軸国とを分裂させ、日本と中立諸国との間の困難を促進すること、

 8 日本の現在の経済的困難を利用し、戦争続行による日本経済の悪化を強調すること

 「日本計画」は、「天皇制を廃止せよ」というノーマンやビッソンとは異なり、「天皇制」を活用して日本を解体しようというものだ。また、天皇を直接に非難することは連合軍の戦争遂行のためのプロパガンダとして適切ではないと分析していた。

「日本計画」最終草稿が具体的な宣伝目的として次のような項目を掲げているのは、その現れである。

 《(d)日本の天皇を(慎重に、名前を挙げずに)、平和のシンボルとして利用すること「T0 use the Japanese Emperor(with Caution and not by name) as a peace symbol」

 (e)今日の軍部政権の正統性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む[including the Emperor andhis House]日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること、 

 (g)日本に対して、我々が勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福[post-ear prosperity and happiness] を約束すること》] 

この「日本計画」の基盤にあるのは、マルクス・レーニン主義が唱えた階級闘争に似た、二分法である。

階級闘争史観では、ブルジョワなど支配階級とプロレタリアートなど被支配階級を明確に二分化し、支配階級を「敵」と決めつけ、敵の徹底的な破壊をめざす。

対日戦略でも、日本を二つに「分断」し、その対立を煽って弱体化させ、支配していくことをめざしたのだ。

まさに分断統治(分割統治)である。

ただし「二分」する方法は、ビッソンやノーマンらとOSSとでは異なっていた。

ビッソやノーマンらが、「天皇を中心とした支配層」と一般の人民」を分けているのに対して、「日本計画」は「天皇・一般の国民」対「軍部」に二分しようとしたのである。

「日本計画」では天皇を平和のシンボルとして連合国のプロパガンダに利用するために、明治天皇の立憲君主としての側面を強調し、昭和天皇が満洲事変にも日独伊三国同盟にも反対していた事例を宣伝の根拠として利用する戦略だった。

「日本計画」は天皇への攻撃は避けつつも、前述の8つの宣伝目的の56からは、日本国内のあらゆる勢力を利用して騒擾と分断を引き起こすことをめざしていたことが読み取れる。

この稿続く。


日本では、アメリカへの対応をめぐって「親米」か「反米」かという議論が長らく行なわれてきたが、その視点の低さに落胆を禁じえない。

2018年10月24日 13時13分09秒 | 日記

江崎道朗氏の著作が歴史的な名著であることは言及して来たとおり。

この章の題名通りの工作が今も日本のメディアや所謂文化人たちに為されている結果が朝日やNHK等や野党政治屋達の態様であると考えれば、物事の真相がたちまち明らかになるのではないか。

見出し以外の文中強調は私。

日本を分裂させ、相互不信を増幅せよ 

加藤哲郎氏の研究によると、OSSは日米開戦の前から日本に関する情報を収集していた。

1942年2月にはその成果を、全40章、378頁におよぶ報告書にまとめあげている。

「日本の戦略的概観」というこの報告書は日本の百科全書とも呼ぶべき網羅的なもので、人口、国内・満洲・中国占領地域・海外の委任統治領などを含めた日本の支配地域に居住するエスニック集団、言語、国民性、生活状態、労働条件、公衆衛生、教育、宗教、公共秩序と警察、新聞、政府、政党、外交、経済など、幅広くかつ詳しく分析していた。

相手国を支配しようと思えば、このように徹底的に相手国について研究するものなのだ。

日本では、アメリカへの対応をめぐって「親米」か「反米」かという議論が長らく行なわれてきたが、その視点の低さに落胆を禁じえない。

なぜ、アメリカを徹底的に研究し、アメリカにどう影響力を行使するのか、という議論が生まれてこなかったのか。

「敵国」日本について徹底的に研究したOSSは、194263日付で「日本計画」(最終草稿)というプロパガンダ戦略を作成している。

加藤哲郎氏によれば、そこでは、次の4つの政策目標が掲げられた。《1 日本の軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷付ける、

 2 日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる、

 3 日本軍当局の信頼をおとしめ、分裂させる、

 4 日本とその同盟国及び中立国を、分裂させる》

 これらを達成するため、「日本計画」は次の8つの宣伝目的を定めている。

《1 日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること、

 2 日本と米国の間に、戦争行動の文明的基準[civilized standards of war conduct」を保

  持すること、

 3 日本の民衆に、彼らの現在の政府は彼らの利益には役に立っていないと確信させ、普通の人々が、政府の敗北が彼ら白身の敗北で        あるとはみなさないようにすること、

 4 日本の指導者と民衆に、永続的勝利は達成できないこと、日本は他のアジア民衆の必要な援助を得ることも保持することもできないことを、確信させること、

 5 日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと

 6 内部の反逆、破壊活動、日本国内のマイノリティ集団による暴力事件・隠密事件への不安をかき立て、それによって、日本人のスパイ活動対策の負担を増大させること、

 7 日本とその枢軸国とを分裂させ、日本と中立諸国との間の困難を促進すること、

 8 日本の現在の経済的困難を利用し、戦争続行による日本経済の悪化を強調すること

 「日本計画」は、「天皇制を廃止せよ」というノーマンやビッソンとは異なり、「天皇制」を活用して日本を解体しようというものだ。また、天皇を直接に非難することは連合軍の戦争遂行のためのプロパガンダとして適切ではないと分析していた。

「日本計画」最終草稿が具体的な宣伝目的として次のような項目を掲げているのは、その現れである。

 《(d)日本の天皇を(慎重に、名前を挙げずに)、平和のシンボルとして利用すること「T0 use the Japanese Emperor(with Caution and not by name) as a peace symbol」

 (e)今日の軍部政権の正統性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む[including the Emperor andhis House]日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること、 

 (g)日本に対して、我々が勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福[post-ear prosperity and happiness] を約束すること》] 

この「日本計画」の基盤にあるのは、マルクス・レーニン主義が唱えた階級闘争に似た、二分法である。

階級闘争史観では、ブルジョワなど支配階級とプロレタリアートなど被支配階級を明確に二分化し、支配階級を「敵」と決めつけ、敵の徹底的な破壊をめざす。

対日戦略でも、日本を二つに「分断」し、その対立を煽って弱体化させ、支配していくことをめざしたのだ。

まさに分断統治(分割統治)である。

ただし「二分」する方法は、ビッソンやノーマンらとOSSとでは異なっていた。

ビッソやノーマンらが、「天皇を中心とした支配層」と一般の人民」を分けているのに対して、「日本計画」は「天皇・一般の国民」対「軍部」に二分しようとしたのである。

「日本計画」では天皇を平和のシンボルとして連合国のプロパガンダに利用するために、明治天皇の立憲君主としての側面を強調し、昭和天皇が満洲事変にも日独伊三国同盟にも反対していた事例を宣伝の根拠として利用する戦略だった。

「日本計画」は天皇への攻撃は避けつつも、前述の8つの宣伝目的の56からは、日本国内のあらゆる勢力を利用して騒擾と分断を引き起こすことをめざしていたことが読み取れる。

この稿続く。


相手国を支配しようと思えば、このように徹底的に相手国について研究するものなのだ。

2018年10月24日 13時12分07秒 | 日記

江崎道朗氏の著作が歴史的な名著であることは言及して来たとおり。

この章の題名通りの工作が今も日本のメディアや所謂文化人たちに為されている結果が朝日やNHK等や野党政治屋達の態様であると考えれば、物事の真相がたちまち明らかになるのではないか。

見出し以外の文中強調は私。

日本を分裂させ、相互不信を増幅せよ 

加藤哲郎氏の研究によると、OSSは日米開戦の前から日本に関する情報を収集していた。

1942年2月にはその成果を、全40章、378頁におよぶ報告書にまとめあげている。

「日本の戦略的概観」というこの報告書は日本の百科全書とも呼ぶべき網羅的なもので、人口、国内・満洲・中国占領地域・海外の委任統治領などを含めた日本の支配地域に居住するエスニック集団、言語、国民性、生活状態、労働条件、公衆衛生、教育、宗教、公共秩序と警察、新聞、政府、政党、外交、経済など、幅広くかつ詳しく分析していた。

相手国を支配しようと思えば、このように徹底的に相手国について研究するものなのだ。

日本では、アメリカへの対応をめぐって「親米」か「反米」かという議論が長らく行なわれてきたが、その視点の低さに落胆を禁じえない。

なぜ、アメリカを徹底的に研究し、アメリカにどう影響力を行使するのか、という議論が生まれてこなかったのか。

「敵国」日本について徹底的に研究したOSSは、194263日付で「日本計画」(最終草稿)というプロパガンダ戦略を作成している。

加藤哲郎氏によれば、そこでは、次の4つの政策目標が掲げられた。《1 日本の軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷付ける、

 2 日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる、

 3 日本軍当局の信頼をおとしめ、分裂させる、

 4 日本とその同盟国及び中立国を、分裂させる》

 これらを達成するため、「日本計画」は次の8つの宣伝目的を定めている。

《1 日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること、

 2 日本と米国の間に、戦争行動の文明的基準[civilized standards of war conduct」を保

  持すること、

 3 日本の民衆に、彼らの現在の政府は彼らの利益には役に立っていないと確信させ、普通の人々が、政府の敗北が彼ら白身の敗北で        あるとはみなさないようにすること、

 4 日本の指導者と民衆に、永続的勝利は達成できないこと、日本は他のアジア民衆の必要な援助を得ることも保持することもできないことを、確信させること、

 5 日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと

 6 内部の反逆、破壊活動、日本国内のマイノリティ集団による暴力事件・隠密事件への不安をかき立て、それによって、日本人のスパイ活動対策の負担を増大させること、

 7 日本とその枢軸国とを分裂させ、日本と中立諸国との間の困難を促進すること、

 8 日本の現在の経済的困難を利用し、戦争続行による日本経済の悪化を強調すること

 「日本計画」は、「天皇制を廃止せよ」というノーマンやビッソンとは異なり、「天皇制」を活用して日本を解体しようというものだ。また、天皇を直接に非難することは連合軍の戦争遂行のためのプロパガンダとして適切ではないと分析していた。

「日本計画」最終草稿が具体的な宣伝目的として次のような項目を掲げているのは、その現れである。

 《(d)日本の天皇を(慎重に、名前を挙げずに)、平和のシンボルとして利用すること「T0 use the Japanese Emperor(with Caution and not by name) as a peace symbol」

 (e)今日の軍部政権の正統性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む[including the Emperor andhis House]日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること、 

 (g)日本に対して、我々が勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福[post-ear prosperity and happiness] を約束すること》] 

この「日本計画」の基盤にあるのは、マルクス・レーニン主義が唱えた階級闘争に似た、二分法である。

階級闘争史観では、ブルジョワなど支配階級とプロレタリアートなど被支配階級を明確に二分化し、支配階級を「敵」と決めつけ、敵の徹底的な破壊をめざす。

対日戦略でも、日本を二つに「分断」し、その対立を煽って弱体化させ、支配していくことをめざしたのだ。

まさに分断統治(分割統治)である。

ただし「二分」する方法は、ビッソンやノーマンらとOSSとでは異なっていた。

ビッソやノーマンらが、「天皇を中心とした支配層」と一般の人民」を分けているのに対して、「日本計画」は「天皇・一般の国民」対「軍部」に二分しようとしたのである。

「日本計画」では天皇を平和のシンボルとして連合国のプロパガンダに利用するために、明治天皇の立憲君主としての側面を強調し、昭和天皇が満洲事変にも日独伊三国同盟にも反対していた事例を宣伝の根拠として利用する戦略だった。

「日本計画」は天皇への攻撃は避けつつも、前述の8つの宣伝目的の56からは、日本国内のあらゆる勢力を利用して騒擾と分断を引き起こすことをめざしていたことが読み取れる。

この稿続く。


日本を分裂させ、相互不信を増幅せよ

2018年10月24日 13時10分50秒 | 日記

江崎道朗氏の著作が歴史的な名著であることは言及して来たとおり。

この章の題名通りの工作が今も日本のメディアや所謂文化人たちに為されている結果が朝日やNHK等や野党政治屋達の態様であると考えれば、物事の真相がたちまち明らかになるのではないか。

見出し以外の文中強調は私。

日本を分裂させ、相互不信を増幅せよ 

加藤哲郎氏の研究によると、OSSは日米開戦の前から日本に関する情報を収集していた。

1942年2月にはその成果を、全40章、378頁におよぶ報告書にまとめあげている。

「日本の戦略的概観」というこの報告書は日本の百科全書とも呼ぶべき網羅的なもので、人口、国内・満洲・中国占領地域・海外の委任統治領などを含めた日本の支配地域に居住するエスニック集団、言語、国民性、生活状態、労働条件、公衆衛生、教育、宗教、公共秩序と警察、新聞、政府、政党、外交、経済など、幅広くかつ詳しく分析していた。

相手国を支配しようと思えば、このように徹底的に相手国について研究するものなのだ。

日本では、アメリカへの対応をめぐって「親米」か「反米」かという議論が長らく行なわれてきたが、その視点の低さに落胆を禁じえない。

なぜ、アメリカを徹底的に研究し、アメリカにどう影響力を行使するのか、という議論が生まれてこなかったのか。

「敵国」日本について徹底的に研究したOSSは、194263日付で「日本計画」(最終草稿)というプロパガンダ戦略を作成している。

加藤哲郎氏によれば、そこでは、次の4つの政策目標が掲げられた。《1 日本の軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷付ける、

 2 日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる、

 3 日本軍当局の信頼をおとしめ、分裂させる、

 4 日本とその同盟国及び中立国を、分裂させる》

 これらを達成するため、「日本計画」は次の8つの宣伝目的を定めている。

《1 日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること、

 2 日本と米国の間に、戦争行動の文明的基準[civilized standards of war conduct」を保

  持すること、

 3 日本の民衆に、彼らの現在の政府は彼らの利益には役に立っていないと確信させ、普通の人々が、政府の敗北が彼ら白身の敗北で        あるとはみなさないようにすること、

 4 日本の指導者と民衆に、永続的勝利は達成できないこと、日本は他のアジア民衆の必要な援助を得ることも保持することもできないことを、確信させること、

 5 日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと

 6 内部の反逆、破壊活動、日本国内のマイノリティ集団による暴力事件・隠密事件への不安をかき立て、それによって、日本人のスパイ活動対策の負担を増大させること、

 7 日本とその枢軸国とを分裂させ、日本と中立諸国との間の困難を促進すること、

 8 日本の現在の経済的困難を利用し、戦争続行による日本経済の悪化を強調すること

 「日本計画」は、「天皇制を廃止せよ」というノーマンやビッソンとは異なり、「天皇制」を活用して日本を解体しようというものだ。また、天皇を直接に非難することは連合軍の戦争遂行のためのプロパガンダとして適切ではないと分析していた。

「日本計画」最終草稿が具体的な宣伝目的として次のような項目を掲げているのは、その現れである。

 《(d)日本の天皇を(慎重に、名前を挙げずに)、平和のシンボルとして利用すること「T0 use the Japanese Emperor(with Caution and not by name) as a peace symbol」

 (e)今日の軍部政権の正統性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む[including the Emperor andhis House]日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること、 

 (g)日本に対して、我々が勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福[post-ear prosperity and happiness] を約束すること》] 

この「日本計画」の基盤にあるのは、マルクス・レーニン主義が唱えた階級闘争に似た、二分法である。

階級闘争史観では、ブルジョワなど支配階級とプロレタリアートなど被支配階級を明確に二分化し、支配階級を「敵」と決めつけ、敵の徹底的な破壊をめざす。

対日戦略でも、日本を二つに「分断」し、その対立を煽って弱体化させ、支配していくことをめざしたのだ。

まさに分断統治(分割統治)である。

ただし「二分」する方法は、ビッソンやノーマンらとOSSとでは異なっていた。

ビッソやノーマンらが、「天皇を中心とした支配層」と一般の人民」を分けているのに対して、「日本計画」は「天皇・一般の国民」対「軍部」に二分しようとしたのである。

「日本計画」では天皇を平和のシンボルとして連合国のプロパガンダに利用するために、明治天皇の立憲君主としての側面を強調し、昭和天皇が満洲事変にも日独伊三国同盟にも反対していた事例を宣伝の根拠として利用する戦略だった。

「日本計画」は天皇への攻撃は避けつつも、前述の8つの宣伝目的の56からは、日本国内のあらゆる勢力を利用して騒擾と分断を引き起こすことをめざしていたことが読み取れる。

この稿続く。


この章の題名通りの工作が今も日本のメディアや所謂文化人たちに為されている結果が朝日やNHK等や野党政治屋達の態様であると考えれば、

2018年10月24日 13時09分27秒 | 日記

江崎道朗氏の著作が歴史的な名著であることは言及して来たとおり。

この章の題名通りの工作が今も日本のメディアや所謂文化人たちに為されている結果が朝日やNHK等や野党政治屋達の態様であると考えれば、物事の真相がたちまち明らかになるのではないか。

見出し以外の文中強調は私。

日本を分裂させ、相互不信を増幅せよ 

加藤哲郎氏の研究によると、OSSは日米開戦の前から日本に関する情報を収集していた。

1942年2月にはその成果を、全40章、378頁におよぶ報告書にまとめあげている。

「日本の戦略的概観」というこの報告書は日本の百科全書とも呼ぶべき網羅的なもので、人口、国内・満洲・中国占領地域・海外の委任統治領などを含めた日本の支配地域に居住するエスニック集団、言語、国民性、生活状態、労働条件、公衆衛生、教育、宗教、公共秩序と警察、新聞、政府、政党、外交、経済など、幅広くかつ詳しく分析していた。

相手国を支配しようと思えば、このように徹底的に相手国について研究するものなのだ。

日本では、アメリカへの対応をめぐって「親米」か「反米」かという議論が長らく行なわれてきたが、その視点の低さに落胆を禁じえない。

なぜ、アメリカを徹底的に研究し、アメリカにどう影響力を行使するのか、という議論が生まれてこなかったのか。

「敵国」日本について徹底的に研究したOSSは、194263日付で「日本計画」(最終草稿)というプロパガンダ戦略を作成している。

加藤哲郎氏によれば、そこでは、次の4つの政策目標が掲げられた。《1 日本の軍事作戦を妨害し、日本軍の士気を傷付ける、

 2 日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる、

 3 日本軍当局の信頼をおとしめ、分裂させる、

 4 日本とその同盟国及び中立国を、分裂させる》

 これらを達成するため、「日本計画」は次の8つの宣伝目的を定めている。

《1 日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること、

 2 日本と米国の間に、戦争行動の文明的基準[civilized standards of war conduct」を保

  持すること、

 3 日本の民衆に、彼らの現在の政府は彼らの利益には役に立っていないと確信させ、普通の人々が、政府の敗北が彼ら白身の敗北で        あるとはみなさないようにすること、

 4 日本の指導者と民衆に、永続的勝利は達成できないこと、日本は他のアジア民衆の必要な援助を得ることも保持することもできないことを、確信させること、

 5 日本の諸階級・諸集団間の亀裂を促すこと

 6 内部の反逆、破壊活動、日本国内のマイノリティ集団による暴力事件・隠密事件への不安をかき立て、それによって、日本人のスパイ活動対策の負担を増大させること、

 7 日本とその枢軸国とを分裂させ、日本と中立諸国との間の困難を促進すること、

 8 日本の現在の経済的困難を利用し、戦争続行による日本経済の悪化を強調すること

 「日本計画」は、「天皇制を廃止せよ」というノーマンやビッソンとは異なり、「天皇制」を活用して日本を解体しようというものだ。また、天皇を直接に非難することは連合軍の戦争遂行のためのプロパガンダとして適切ではないと分析していた。

「日本計画」最終草稿が具体的な宣伝目的として次のような項目を掲げているのは、その現れである。

 《(d)日本の天皇を(慎重に、名前を挙げずに)、平和のシンボルとして利用すること「T0 use the Japanese Emperor(with Caution and not by name) as a peace symbol」

 (e)今日の軍部政権の正統性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む[including the Emperor andhis House]日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること、 

 (g)日本に対して、我々が勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福[post-ear prosperity and happiness] を約束すること》] 

この「日本計画」の基盤にあるのは、マルクス・レーニン主義が唱えた階級闘争に似た、二分法である。

階級闘争史観では、ブルジョワなど支配階級とプロレタリアートなど被支配階級を明確に二分化し、支配階級を「敵」と決めつけ、敵の徹底的な破壊をめざす。

対日戦略でも、日本を二つに「分断」し、その対立を煽って弱体化させ、支配していくことをめざしたのだ。

まさに分断統治(分割統治)である。

ただし「二分」する方法は、ビッソンやノーマンらとOSSとでは異なっていた。

ビッソやノーマンらが、「天皇を中心とした支配層」と一般の人民」を分けているのに対して、「日本計画」は「天皇・一般の国民」対「軍部」に二分しようとしたのである。

「日本計画」では天皇を平和のシンボルとして連合国のプロパガンダに利用するために、明治天皇の立憲君主としての側面を強調し、昭和天皇が満洲事変にも日独伊三国同盟にも反対していた事例を宣伝の根拠として利用する戦略だった。

「日本計画」は天皇への攻撃は避けつつも、前述の8つの宣伝目的の56からは、日本国内のあらゆる勢力を利用して騒擾と分断を引き起こすことをめざしていたことが読み取れる。

この稿続く。


A young researcher who was in the limelight as a leading researcher of ‘Japan’ research

2018年10月24日 11時59分35秒 | 日記

When I was a high school student, I was ordered to write in LIBRARIA, a wonderful brochure that my alma mater's library had published.

All my classmates were talented people who would be representative of Japan, so all the papers whose purpose was to apply for a reading competition in Miyagi prefecture were all splendid.

There was 'Ando Shoeki' (by Herbert Norman) in it.

That was the first time I saw the name Herbert Norman.

The following is an excerpt from Mr. Ezaki Michio's historical masterpiece.

I am emphasizing the sentence except the headline.

Trumpeter Herbert Norman of historical view of Comintern

Among IPR officials, another key person who is in line with Bisson is Herbert Norman.

Norman was a Canadian, born in Karuizawa as a son of a pastor of Canada Methodist who took office in 1909, and grew up in Japan until 17 years old. After that, he studied at the University of Toronto, Cambridge University and Harvard University.

Japanese history research was his field.

Norman has joined the Communist Party of Britain while studying at Cambridge University.

Looking at the movement after that, Norman has various relations with the Communist front organization in Canada, ‘Amerasia’ and IPR.

In 1936 he took office as a secretary of the Canadian Chinese People Friends Club, visited New York at the end of the year and was ‘introduced several people including the Chinese and his wife of China Today editor at the Phillips', he was writing it in his letter to his wife.

As mentioned earlier, ‘China Today’ is a front organization of the Communist Party of the United States which is the local agency of Comintern, an agency magazine of the American Chinese People Friendship Association.

And the sister organization ‘Amerasia’ of IPR was also the advertising maneuvering agency of the Soviet Union / Comintern.

Norman says that he wrote an article in 'Amerasia' with the letter with April 18th.

Norman entered the Canadian Ministry of Foreign Affairs in 1939 and when he received a doctorate in next May 1940, he immediately took office as a language officer to Japan before US-Japan War began.

Norman's doctoral dissertation ‘The formation of a modern state in Japan’ was published in February 1940 as ‘IPR survey series’.

In this paper, Norman argues as follows.

The Japanese rule system after the Meiji Restoration is formed by linking the absolutely emperor system with landowners, large merchants and clan faction forces, and there is no room for liberalism in the ideology of the ruling layer.

Since the Meiji Restoration did not cast the emperor on the guillotine like the British Revolution and the French Revolution and did not experience the bourgeois revolution, the common people continued to be abused and became a fascism nation while the emperor and the feudal ruling class were collocated it was.

This paper was widely read by governments and military executives involved in the occupation policy toward Japan.

Since MacArthur also liked to read this paper, he had a history of pulling out Canadian Norman as a staff member of GHQ.

The framework of Norman's claim is almost in agreement with '32 years Theses' adopted in Comintern in 1932 and argument of the theorists in the Japanese Communist Party Kōza faction.

In fact, Norman later gave lectures one by one from Hani Goro himself to learn more about the analysis of the Meiji Restoration of 'Iwanami lecture / Japanese history' written by Hani Goro of Kōza faction from July to September 1941 is receiving.

Norman who refined the theory of Kōza faction thus attended the 8th IPR conference held at Mont-Tremblant (Quebec State, Canada) from 4th to 14th December 1942.

Miyoko Kudo, a nonfiction writer, said, ‘Norman has been able to describe the position that is described as 'face' as it was to say, when the Canadian Ministry of Foreign Affairs makes remarks on international relations on Japanese relations, the image of Speaking of Japan, it is Norman, Speaking of Norman, it is Japan was becoming established both inside and outside.’

A young researcher who was in the limelight as a leading researcher of ‘Japan’ research in the international community was an agent of Comintern.

It still wants to be aware of the left-wing party, because they are good at using such human resources.

This draft continues.

 


以下は昨日の検索数ベスト50である。

2018年10月24日 08時43分39秒 | 日記

順位

ページ名

1

Do not gathering evidence of articles Continue to keep posting lies with awareness

2

Then, let's leave a lie. It is the same as Shina's report.

3

It is not a kind of misinformation or the like, it can be said as

4

Such a wicked poison is making it lurk in the column with warmly seeming, too.

5

It does the report which has an intention while knowing that it is a lie.

6

では嘘を残そう。支那の報道と同じ。事実はどうでもいいということだ。朝日新聞とはそんな新聞なのだ。       

8

In 50, it doesn't change, and it continues the same words. It is easy.

9

She will develop a story that she will go to private school with that, but private school will be

10

Asahi Shimbun did not collect evidence work since Yoshida Seiji.

11

This interview article is the same.It tells love and it says a pacifist and peace.

12

The fact is that it does not matter. The Asahi Shimbun is such a newspaper.

13

I often listened to the story that ‘children of mistress were well-made’.

14

A fact is said to be insignificant. Asahi Shimbun is such a newspaper.

15

oversees reporters, but the reason why she did not point out a lie by examining it.

16

この本を読まなければ戦後から今日に至る日本の事は分からないと言っても過言ではない。

17

そのほか、米軍は士官の戦死があまりにも多くて、着任した士官の名前を覚える暇もなかったほどだったという。 

18

Nonetheless, she says ‘public school had to submit family register’.

19

硫黄島と沖縄は、1945年秋に予定されていた米軍の日本本土侵攻計画の成否を握る重要な攻略目標だった。

20

It also leads to Yoshida Seiji's great misinformation

21

Even now, to enter public, we only issue a resident card that lets the school district know.

22

特に首里攻防戦初期の戦闘である「嘉数の戦い」は、普天間の近くにある喜数高台という丘陵地を日本軍が4月8日から16日間守り抜き、一説によれば

23

以下は昨日の検索数ベスト50である。

24

現在の日本には、沖縄や硫黄島、ペリリューの戦いなどで亡くなった日本兵たちは「無駄死に」だったと冷たく言い放つ論者もいる。

25

攻略開始から5日間で島を占領する計画だった米軍は、結局、1ヵ月以上も死闘を繰り広げることになった。

26

剛勇を誇るアメリカ海兵隊指揮官たちですら、空中偵察写真で日本軍の周到な準備を見て舌を巻いたという。 

27

a malicious anti-Japanese act of terrorism carrying the name of the press.

28

Battle of Okinawa is also a fierce battle that British prime minister Winston Churchill called

29

沖縄戦も、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが「軍事史上もっとも苛烈でもっとも有名な戦いである」と評した激戦であり、

30

アメリカ側が認めているように、沖縄や硫黄島での勇猛果敢な戦いが、アメリカの無条件降伏政策を大きく押し戻したのである。

31

‘the fiercest and most famous battle in the history of military history’

32

中国共産党軍が日本に対して行っていた情報工作活動の根幹は二分論(米国も採用)…政府と人民を区別し、人民は正しく政府は悪いとする…

33

The fierce battle in Iwo Jima and Okinawa pushed back the ‘unconditional surrender policy

34

the Japanese side also sticks to do-or-die resistance and collaboration with the Soviet Union

35

国際社会における「日本」研究の第一人者として脚光を浴びた若き研究者が、実はコミテルンの工作員であったわけだ。

37

History is pretty much something to see with a fixed idea.

38

The one to have broken through this crisis was the fight of the officers and men and the civilian

39

In contrast to the United States adhering to the unconditional surrender policy as it is,

40

朝日では吉田清治のころからウラを取る作業をしなかった。それで大誤報をやり木村伊量がクビを差し出した。

41

左派は、いまもこうした人材活用が得意なので、気をつけておきたい。

42

思うに、もし記者がこの大きな嘘を見つけて正したら、落合恵子の話は途端につまらなくなる。 

43

担当は高橋美佐子記者と記事にはあるが、彼女はなぜそれを調べて嘘を指摘しなかったのか。

44

神戸市須磨区の斜面に設置された太陽光パネルが、約400平方メートルにわたって崩れ、すぐ下を通る山陽新幹線が一時

45

そのほか、米軍は士官の戦死があまりにも多くて、着任した士官の名前を覚える暇もなかったほどだったという。 

46

以下は、辻本の以前の「私は国壊議員や…」発言の全文を確認しようとして検索中に発見した記事である。

47

嘘と知りつつ、意図を持った報道をする。それは誤報とかの類ではない、報道の名をもってやる悪質な反日テロ行為といっていい

48

そんな毛を桑原武夫や朝日新聞の広岡知男は神のように崇めた。毛だけじゃない。唐も漢も明も目がくらむほどの大国だったと思い込んできた

49

朝日や毎日はこうした根拠のない支那人のいい分に迎合して結局は60兆円もの遺棄毒ガス兵器の処理費を日本政府、つまりは日本人の血税に出すよう仕向けて

50

落合恵子の記事にみる『朝日新聞』の堕落を斬る 記事のウラ取りもせず嘘を承知で掲載する汚さが続く

   

 


Trumpeter Herbert Norman of historical view of Comintern

2018年10月24日 08時26分44秒 | 日記

When I was a high school student, I was ordered to write in LIBRARIA, a wonderful brochure that my alma mater's library had published.

All my classmates were talented people who would be representative of Japan, so all the papers whose purpose was to apply for a reading competition in Miyagi prefecture were all splendid.

There was 'Ando Shoeki' (by Herbert Norman) in it.

That was the first time I saw the name Herbert Norman.

The following is an excerpt from Mr. Ezaki Michio's historical masterpiece.

I am emphasizing the sentence except the headline.

Trumpeter Herbert Norman of historical view of Comintern

Among IPR officials, another key person who is in line with Bisson is Herbert Norman.

Norman was a Canadian, born in Karuizawa as a son of a pastor of Canada Methodist who took office in 1909, and grew up in Japan until 17 years old. After that, I studied at the University of Toronto, Cambridge University and Harvard University.

Specialty is Japanese history research.

Norman has joined the Communist Party of Britain while studying at Cambridge University.

Looking at the movement after that, Norman has various relations with the Communist front organization in Canada, ‘Amerasia’ and IPR.

In 1936 he took office as a secretary of the Canadian Chinese People Friends Club, visited New York at the end of the year and was ‘introduced several people including the Chinese and his wife of China Today editor at the Phillips', he was writing it in his letter to his wife.

As mentioned earlier, ‘China Today’ is a front organization of the Communist Party of the United States which is the local agency of Comintern, an agency magazine of the American Chinese People Friendship Association.

And the sister organization ‘Amerasia’ of IPR was also the advertising maneuvering agency of the Soviet Union / Comintern.

Norman says that he wrote an article in 'Amerasia' with the letter with April 18th.

Norman entered the Canadian Ministry of Foreign Affairs in 1939 and when he received a doctorate in next May 1940, he immediately took office as a language officer to Japan before US-Japan War began.

Norman's doctoral dissertation ‘The formation of a modern state in Japan’ was published in February 1940 as ‘IPR survey series’.

In this paper, Norman argues as follows.

The Japanese rule system after the Meiji Restoration is formed by linking the absolutely emperor system with landowners, large merchants and clan faction forces, and there is no room for liberalism in the ideology of the ruling layer.

Since the Meiji Restoration did not cast the emperor on the guillotine like the British Revolution and the French Revolution and did not experience the bourgeois revolution, the common people continued to be abused and became a fascism nation while the emperor and the feudal ruling class were collocated it was.

This paper was widely read by governments and military executives involved in the occupation policy toward Japan.

Since MacArthur also liked to read this paper, he had a history of pulling out Canadian Norman as a staff member of GHQ.

The framework of Norman's claim is almost in agreement with '32 years Theses' adopted in Comintern in 1932 and argument of the theorists in the Japanese Communist Party Kōza faction.

In fact, Norman later gave lectures one by one from Hani Goro himself to learn more about the analysis of the Meiji Restoration of 'Iwanami lecture / Japanese history' written by Hani Goro of Kōza faction from July to September 1941 is receiving.

Norman who refined the theory of Kōza faction thus attended the 8th IPR conference held at Mont-Tremblant (Quebec State, Canada) from 4th to 14th December 1942.

Miyoko Kudo, a nonfiction writer, said, ‘Norman has been able to describe the position that is described as 'face' as it was to say, when the Canadian Ministry of Foreign Affairs makes remarks on international relations on Japanese relations, international relationships on Japanese relations, the image of Speaking of Japan, it is Norman, Speaking of Norman, it is Japan was becoming established both inside and outside.’

A young researcher who was in the limelight as a leading researcher of ‘Japan’ research in the international community was an agent of Comintern.

It still wants to be aware of the left-wing party, because they are good at using such human resources.

This draft continues.

 


be aware of the left-wing party, because they are good at using such human resources

2018年10月24日 08時13分02秒 | 日記

When I was a high school student, I was ordered to write in LIBRARIA, a wonderful brochure that my alma mater's library had published.

All my classmates were talented people who would be representative of Japan, so all the papers whose purpose was to apply for a reading competition in Miyagi prefecture were all splendid.

There was 'Ando Shoeki' (by Herbert Norman) in it.

That was the first time I saw the name Herbert Norman.

The following is an excerpt from Mr. Ezaki Michio's historical masterpiece.

I am emphasizing the sentence except the headline.

Herbert Norman is a man who spread historical view of Comintern around the world

Among IPR officials, another key person who is in line with Bisson is Herbert Norman.

Norman was a Canadian, born in Karuizawa as a son of a pastor of Canada Methodist who took office in 1909, and grew up in Japan until 17 years old. After that, I studied at the University of Toronto, Cambridge University and Harvard University.

Specialty is Japanese history research.

Norman has joined the Communist Party of Britain while studying at Cambridge University.

Looking at the movement after that, Norman has various relations with the Communist front organization in Canada, ‘Amerasia’ and IPR.

In 1936 he took office as a secretary of the Canadian Chinese People Friends Club, visited New York at the end of the year and was ‘introduced several people including the Chinese and his wife of China Today editor at the Phillips', he was writing it in his letter to his wife.

As mentioned earlier, ‘China Today’ is a front organization of the Communist Party of the United States which is the local agency of Comintern, an agency magazine of the American Chinese People Friendship Association.

And the sister organization ‘Amerasia’ of IPR was also the advertising maneuvering agency of the Soviet Union / Comintern.

Norman says that he wrote an article in 'Amerasia' with the letter with April 18th.

Norman entered the Canadian Ministry of Foreign Affairs in 1939 and when he received a doctorate in next May 1940, he immediately took office as a language officer to Japan before US-Japan War began.

Norman's doctoral dissertation ‘The formation of a modern state in Japan’ was published in February 1940 as ‘IPR survey series’.

In this paper, Norman argues as follows.

The Japanese rule system after the Meiji Restoration is formed by linking the absolutely emperor system with landowners, large merchants and clan faction forces, and there is no room for liberalism in the ideology of the ruling layer.

Since the Meiji Restoration did not cast the emperor on the guillotine like the British Revolution and the French Revolution and did not experience the bourgeois revolution, the common people continued to be abused and became a fascism nation while the emperor and the feudal ruling class were collocated it was.

This paper was widely read by governments and military executives involved in the occupation policy toward Japan.

Since MacArthur also liked to read this paper, he had a history of pulling out Canadian Norman as a staff member of GHQ.

The framework of Norman's claim is almost in agreement with '32 years Theses' adopted in Comintern in 1932 and argument of the theorists in the Japanese Communist Party Kōza faction.

In fact, Norman later gave lectures one by one from Hani Goro himself to learn more about the analysis of the Meiji Restoration of 'Iwanami lecture / Japanese history' written by Hani Goro of Kōza faction from July to September 1941 is receiving.

Norman who refined the theory of Kōza faction thus attended the 8th IPR conference held at Mont-Tremblant (Quebec State, Canada) from 4th to 14th December 1942.

Miyoko Kudo, a nonfiction writer, said, ‘Norman has been able to describe the position that is described as 'face' as it was to say, when the Canadian Ministry of Foreign Affairs makes remarks on international relations on Japanese relations, international relationships on Japanese relations, the image of Speaking of Japan, it is Norman, Speaking of Norman, it is Japan was becoming established both inside and outside.’

A young researcher who took the spotlight as a leading researcher of ‘Japan’ research in the international community was an agent of Comintern.

It still wants to be aware of the left-wing party, because they are good at using such human resources.

This draft continues.


leading researcher of ‘Japan’ research in the international community was an agent of Comintern

2018年10月24日 08時12分13秒 | 日記

When I was a high school student, I was ordered to write in LIBRARIA, a wonderful brochure that my alma mater's library had published.

All my classmates were talented people who would be representative of Japan, so all the papers whose purpose was to apply for a reading competition in Miyagi prefecture were all splendid.

There was 'Ando Shoeki' (by Herbert Norman) in it.

That was the first time I saw the name Herbert Norman.

The following is an excerpt from Mr. Ezaki Michio's historical masterpiece.

I am emphasizing the sentence except the headline.

Herbert Norman is a man who spread historical view of Comintern around the world

Among IPR officials, another key person who is in line with Bisson is Herbert Norman.

Norman was a Canadian, born in Karuizawa as a son of a pastor of Canada Methodist who took office in 1909, and grew up in Japan until 17 years old. After that, I studied at the University of Toronto, Cambridge University and Harvard University.

Specialty is Japanese history research.

Norman has joined the Communist Party of Britain while studying at Cambridge University.

Looking at the movement after that, Norman has various relations with the Communist front organization in Canada, ‘Amerasia’ and IPR.

In 1936 he took office as a secretary of the Canadian Chinese People Friends Club, visited New York at the end of the year and was ‘introduced several people including the Chinese and his wife of China Today editor at the Phillips', he was writing it in his letter to his wife.

As mentioned earlier, ‘China Today’ is a front organization of the Communist Party of the United States which is the local agency of Comintern, an agency magazine of the American Chinese People Friendship Association.

And the sister organization ‘Amerasia’ of IPR was also the advertising maneuvering agency of the Soviet Union / Comintern.

Norman says that he wrote an article in 'Amerasia' with the letter with April 18th.

Norman entered the Canadian Ministry of Foreign Affairs in 1939 and when he received a doctorate in next May 1940, he immediately took office as a language officer to Japan before US-Japan War began.

Norman's doctoral dissertation ‘The formation of a modern state in Japan’ was published in February 1940 as ‘IPR survey series’.

In this paper, Norman argues as follows.

The Japanese rule system after the Meiji Restoration is formed by linking the absolutely emperor system with landowners, large merchants and clan faction forces, and there is no room for liberalism in the ideology of the ruling layer.

Since the Meiji Restoration did not cast the emperor on the guillotine like the British Revolution and the French Revolution and did not experience the bourgeois revolution, the common people continued to be abused and became a fascism nation while the emperor and the feudal ruling class were collocated it was.

This paper was widely read by governments and military executives involved in the occupation policy toward Japan.

Since MacArthur also liked to read this paper, he had a history of pulling out Canadian Norman as a staff member of GHQ.

The framework of Norman's claim is almost in agreement with '32 years Theses' adopted in Comintern in 1932 and argument of the theorists in the Japanese Communist Party Kōza faction.

In fact, Norman later gave lectures one by one from Hani Goro himself to learn more about the analysis of the Meiji Restoration of 'Iwanami lecture / Japanese history' written by Hani Goro of Kōza faction from July to September 1941 is receiving.

Norman who refined the theory of Kōza faction thus attended the 8th IPR conference held at Mont-Tremblant (Quebec State, Canada) from 4th to 14th December 1942.

Miyoko Kudo, a nonfiction writer, said, ‘Norman has been able to describe the position that is described as 'face' as it was to say, when the Canadian Ministry of Foreign Affairs makes remarks on international relations on Japanese relations, international relationships on Japanese relations, the image of Speaking of Japan, it is Norman, Speaking of Norman, it is Japan was becoming established both inside and outside.’

A young researcher who took the spotlight as a leading researcher of ‘Japan’ research in the international community was an agent of Comintern.

It still wants to be aware of the left-wing party, because they are good at using such human resources.

This draft continues.


Herbert Norman is a man who spread historical view of Comintern around the world

2018年10月24日 08時08分47秒 | 日記

When I was a high school student, I was ordered to write in LIBRARIA, a wonderful brochure that my alma mater's library had published.

All my classmates were talented people who would be representative of Japan, so all the papers whose purpose was to apply for a reading competition in Miyagi prefecture were all splendid.

There was 'Ando Shoeki' (by Herbert Norman) in it.

That was the first time I saw the name Herbert Norman.

The following is an excerpt from Mr. Ezaki Michio's historical masterpiece.

I am emphasizing the sentence except the headline.

Herbert Norman is a man who spread historical view of Comintern around the world

Among IPR officials, another key person who is in line with Bisson is Herbert Norman.

Norman was a Canadian, born in Karuizawa as a son of a pastor of Canada Methodist who took office in 1909, and grew up in Japan until 17 years old. After that, I studied at the University of Toronto, Cambridge University and Harvard University.

Specialty is Japanese history research.

Norman has joined the Communist Party of Britain while studying at Cambridge University.

Looking at the movement after that, Norman has various relations with the Communist front organization in Canada, ‘Amerasia’ and IPR.

In 1936 he took office as a secretary of the Canadian Chinese People Friends Club, visited New York at the end of the year and was ‘introduced several people including the Chinese and his wife of China Today editor at the Phillips', he was writing it in his letter to his wife.

As mentioned earlier, ‘China Today’ is a front organization of the Communist Party of the United States which is the local agency of Comintern, an agency magazine of the American Chinese People Friendship Association.

And the sister organization ‘Amerasia’ of IPR was also the advertising maneuvering agency of the Soviet Union / Comintern.

Norman says that he wrote an article in 'Amerasia' with the letter with April 18th.

Norman entered the Canadian Ministry of Foreign Affairs in 1939 and when he received a doctorate in next May 1940, he immediately took office as a language officer to Japan before US-Japan War began.

Norman's doctoral dissertation ‘The formation of a modern state in Japan’ was published in February 1940 as ‘IPR survey series’.

In this paper, Norman argues as follows.

The Japanese rule system after the Meiji Restoration is formed by linking the absolutely emperor system with landowners, large merchants and clan faction forces, and there is no room for liberalism in the ideology of the ruling layer.

Since the Meiji Restoration did not cast the emperor on the guillotine like the British Revolution and the French Revolution and did not experience the bourgeois revolution, the common people continued to be abused and became a fascism nation while the emperor and the feudal ruling class were collocated it was.

This paper was widely read by governments and military executives involved in the occupation policy toward Japan.

Since MacArthur also liked to read this paper, he had a history of pulling out Canadian Norman as a staff member of GHQ.

The framework of Norman's claim is almost in agreement with '32 years Theses' adopted in Comintern in 1932 and argument of the theorists in the Japanese Communist Party Kōza faction.

In fact, Norman later gave lectures one by one from Hani Goro himself to learn more about the analysis of the Meiji Restoration of 'Iwanami lecture / Japanese history' written by Hani Goro of Kōza faction from July to September 1941 is receiving.

Norman who refined the theory of Kōza faction thus attended the 8th IPR conference held at Mont-Tremblant (Quebec State, Canada) from 4th to 14th December 1942.

Miyoko Kudo, a nonfiction writer, said, ‘Norman has been able to describe the position that is described as 'face' as it was to say, when the Canadian Ministry of Foreign Affairs makes remarks on international relations on Japanese relations, international relationships on Japanese relations, the image of Speaking of Japan, it is Norman, Speaking of Norman, it is Japan was becoming established both inside and outside.’

A young researcher who took the spotlight as a leading researcher of ‘Japan’ research in the international community was an agent of Comintern.

It still wants to be aware of the left-wing party, because they are good at using such human resources.

This draft continues.

 


左派は、いまもこうした人材活用が得意なので、気をつけておきたい。

2018年10月24日 07時36分34秒 | 日記

私が高校生だった時、母校の図書館が発行していた素晴らしい冊子、LIBRARIAに執筆を命じられた。

私の同級生たちは皆、日本を代表することになる様な俊秀達だったから、宮城県の読書感想コンクールに応募するのが趣旨の論文は、どれも見事なものだった。

その中に「安藤昌益」(ハーバート・ノーマン)があった。

それが、私がハーバート・ノーマンという名前を目にした最初だった。

以下は江崎道朗氏の歴史的な名著からの抜粋である。

見出し以外の文中強調は私。

コミンテルン史観の吹聴者ハーバート・ノーマン 

IPR関係者のなかで、ビッソンと並ぶもう一人のキーパーソンがハーバート・ノーマンである。 

ノーマンはカナダ人で、1909年、日本に赴任したカナダ・メソジスト教会牧師の息子として軽井沢で生まれ、17歳まで日本で育った。その後、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーヴァード大学で学んだ。

専門は日本史研究である。

ノーマンはケンブリッジ大学在学中にイギリス共産党に入党している。

それ以後の動きを見ると、ノーマンは、カナダ国内の共産党フロント組織や『アメラジア』やIPRと様々な関わりを持っている。 

1936年にはカナダ中国人民友の会の書記に就任、その年末にニューヨークを訪問して「フィリップス夫妻のところで『チャイナ・トゥデイ』のエディターの中国人夫妻など数人を紹介された」ことを妻宛の手紙に書いている。 

『チャイナ・トゥデイ』は先に述べたように、コミンテルンの出先機関であるアメリカ共産党のフロント組織、アメリカ中国人民友の会の機関誌である。

そして、IPRの姉妹組織の『アメラジア』もソ連・コミンテルンの宣伝工作機関だった。

ノーマンは4月18日付の手紙で『アメラジア』に記事を執筆したと書いている。 

ノーマンは1939年にカナダ外務省に入り、翌1940年5月に博士号を取得すると、その直後に語学官として日米開戦前の日本に赴任した。 

ノーマンの博士論文『日本における近代国家の成立』は、1940年2月にIPRの「調査シリーズ」として刊行された。

この論文で、ノーマンは次のように主張する。 

明治維新以後の日本の支配体制は、絶対主義的な天皇制と、地主や大商人や藩閥勢力とが結びついて形成されており、支配層のイデオロギーには自由主義が入る余地がない。

明治維新はイギリス革命やフランス革命のように天皇をギロチンにかけておらず、ブルジョア革命を経験しなかったから、天皇と封建的な支配階級が結託したまま、一般の庶民が虐待され続け、ファシズム国家になった―。

この論文は対日占領政策に関わる政府や軍の幹部たちに広く読まれた。

マッカーサーもこの論文を愛読していたことから、カナダ人のノーマンをGHQのスタッフとして引き抜いたという経緯がある。 

ノーマンの主張の枠組みは、1932年にコミンテルンで採択された「32年テーゼ」や、講座派という日本共産党員の理論家集団の議論とほぼ一致している。

事実、ノーマンはその後、1941年7月から9月にかけて、講座派の羽仁五郎が書いた『岩波講座・日本史』の明治維新の分析をさらに深く学ぶため、羽仁五郎自身から一対一で講義を受けている。 

こうして講座派の理論に磨きをかけたノーマンは、1942年12月4日から14日まで、モン・トンブラン(カナダのケベック州)で開催された第8回IPR会議に出席した。

ノンフィクション作家の工藤美代子氏は、「この会議の頃から、ノーマンはカナダ外務省が、日本関係について国際的な場で発言する際の、いわば『顔』とも形容できる地位につき、日本といえばノーマン、ノーマンといえば日本というイメージが、内外ともに定着しつつあった」と述べている。 

国際社会における「日本」研究の第一人者として脚光を浴びた若き研究者が、実はコミテルンの工作員であったわけだ。

左派は、いまもこうした人材活用が得意なので、気をつけておきたい。

この稿続く。


国際社会における「日本」研究の第一人者として脚光を浴びた若き研究者が、実はコミテルンの工作員であったわけだ。

2018年10月24日 07時35分52秒 | 日記

私が高校生だった時、母校の図書館が発行していた素晴らしい冊子、LIBRARIAに執筆を命じられた。

私の同級生たちは皆、日本を代表することになる様な俊秀達だったから、宮城県の読書感想コンクールに応募するのが趣旨の論文は、どれも見事なものだった。

その中に「安藤昌益」(ハーバート・ノーマン)があった。

それが、私がハーバート・ノーマンという名前を目にした最初だった。

以下は江崎道朗氏の歴史的な名著からの抜粋である。

見出し以外の文中強調は私。

コミンテルン史観の吹聴者ハーバート・ノーマン 

IPR関係者のなかで、ビッソンと並ぶもう一人のキーパーソンがハーバート・ノーマンである。 

ノーマンはカナダ人で、1909年、日本に赴任したカナダ・メソジスト教会牧師の息子として軽井沢で生まれ、17歳まで日本で育った。その後、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーヴァード大学で学んだ。

専門は日本史研究である。

ノーマンはケンブリッジ大学在学中にイギリス共産党に入党している。

それ以後の動きを見ると、ノーマンは、カナダ国内の共産党フロント組織や『アメラジア』やIPRと様々な関わりを持っている。 

1936年にはカナダ中国人民友の会の書記に就任、その年末にニューヨークを訪問して「フィリップス夫妻のところで『チャイナ・トゥデイ』のエディターの中国人夫妻など数人を紹介された」ことを妻宛の手紙に書いている。 

『チャイナ・トゥデイ』は先に述べたように、コミンテルンの出先機関であるアメリカ共産党のフロント組織、アメリカ中国人民友の会の機関誌である。

そして、IPRの姉妹組織の『アメラジア』もソ連・コミンテルンの宣伝工作機関だった。

ノーマンは4月18日付の手紙で『アメラジア』に記事を執筆したと書いている。 

ノーマンは1939年にカナダ外務省に入り、翌1940年5月に博士号を取得すると、その直後に語学官として日米開戦前の日本に赴任した。 

ノーマンの博士論文『日本における近代国家の成立』は、1940年2月にIPRの「調査シリーズ」として刊行された。

この論文で、ノーマンは次のように主張する。 

明治維新以後の日本の支配体制は、絶対主義的な天皇制と、地主や大商人や藩閥勢力とが結びついて形成されており、支配層のイデオロギーには自由主義が入る余地がない。

明治維新はイギリス革命やフランス革命のように天皇をギロチンにかけておらず、ブルジョア革命を経験しなかったから、天皇と封建的な支配階級が結託したまま、一般の庶民が虐待され続け、ファシズム国家になった―。

この論文は対日占領政策に関わる政府や軍の幹部たちに広く読まれた。

マッカーサーもこの論文を愛読していたことから、カナダ人のノーマンをGHQのスタッフとして引き抜いたという経緯がある。 

ノーマンの主張の枠組みは、1932年にコミンテルンで採択された「32年テーゼ」や、講座派という日本共産党員の理論家集団の議論とほぼ一致している。

事実、ノーマンはその後、1941年7月から9月にかけて、講座派の羽仁五郎が書いた『岩波講座・日本史』の明治維新の分析をさらに深く学ぶため、羽仁五郎自身から一対一で講義を受けている。 

こうして講座派の理論に磨きをかけたノーマンは、1942年12月4日から14日まで、モン・トンブラン(カナダのケベック州)で開催された第8回IPR会議に出席した。

ノンフィクション作家の工藤美代子氏は、「この会議の頃から、ノーマンはカナダ外務省が、日本関係について国際的な場で発言する際の、いわば『顔』とも形容できる地位につき、日本といえばノーマン、ノーマンといえば日本というイメージが、内外ともに定着しつつあった」と述べている。 

国際社会における「日本」研究の第一人者として脚光を浴びた若き研究者が、実はコミテルンの工作員であったわけだ。

左派は、いまもこうした人材活用が得意なので、気をつけておきたい。

この稿続く。


明治維新はイギリス革命やフランス革命のように天皇をギロチンにかけておらず、ブルジョア革命を経験しなかったから、

2018年10月24日 07時32分49秒 | 日記

私が高校生だった時、母校の図書館が発行していた素晴らしい冊子、LIBRARIAに執筆を命じられた。

私の同級生たちは皆、日本を代表することになる様な俊秀達だったから、宮城県の読書感想コンクールに応募するのが趣旨の論文は、どれも見事なものだった。

その中に「安藤昌益」(ハーバート・ノーマン)があった。

それが、私がハーバート・ノーマンという名前を目にした最初だった。

以下は江崎道朗氏の歴史的な名著からの抜粋である。

見出し以外の文中強調は私。

コミンテルン史観の吹聴者ハーバート・ノーマン 

IPR関係者のなかで、ビッソンと並ぶもう一人のキーパーソンがハーバート・ノーマンである。 

ノーマンはカナダ人で、1909年、日本に赴任したカナダ・メソジスト教会牧師の息子として軽井沢で生まれ、17歳まで日本で育った。その後、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーヴァード大学で学んだ。

専門は日本史研究である。

ノーマンはケンブリッジ大学在学中にイギリス共産党に入党している。

それ以後の動きを見ると、ノーマンは、カナダ国内の共産党フロント組織や『アメラジア』やIPRと様々な関わりを持っている。 

1936年にはカナダ中国人民友の会の書記に就任、その年末にニューヨークを訪問して「フィリップス夫妻のところで『チャイナ・トゥデイ』のエディターの中国人夫妻など数人を紹介された」ことを妻宛の手紙に書いている。 

『チャイナ・トゥデイ』は先に述べたように、コミンテルンの出先機関であるアメリカ共産党のフロント組織、アメリカ中国人民友の会の機関誌である。

そして、IPRの姉妹組織の『アメラジア』もソ連・コミンテルンの宣伝工作機関だった。

ノーマンは4月18日付の手紙で『アメラジア』に記事を執筆したと書いている。 

ノーマンは1939年にカナダ外務省に入り、翌1940年5月に博士号を取得すると、その直後に語学官として日米開戦前の日本に赴任した。 

ノーマンの博士論文『日本における近代国家の成立』は、1940年2月にIPRの「調査シリーズ」として刊行された。

この論文で、ノーマンは次のように主張する。 

明治維新以後の日本の支配体制は、絶対主義的な天皇制と、地主や大商人や藩閥勢力とが結びついて形成されており、支配層のイデオロギーには自由主義が入る余地がない。

明治維新はイギリス革命やフランス革命のように天皇をギロチンにかけておらず、ブルジョア革命を経験しなかったから、天皇と封建的な支配階級が結託したまま、一般の庶民が虐待され続け、ファシズム国家になった―。

この論文は対日占領政策に関わる政府や軍の幹部たちに広く読まれた。

マッカーサーもこの論文を愛読していたことから、カナダ人のノーマンをGHQのスタッフとして引き抜いたという経緯がある。 

ノーマンの主張の枠組みは、1932年にコミンテルンで採択された「32年テーゼ」や、講座派という日本共産党員の理論家集団の議論とほぼ一致している。

事実、ノーマンはその後、1941年7月から9月にかけて、講座派の羽仁五郎が書いた『岩波講座・日本史』の明治維新の分析をさらに深く学ぶため、羽仁五郎自身から一対一で講義を受けている。 

こうして講座派の理論に磨きをかけたノーマンは、1942年12月4日から14日まで、モン・トンブラン(カナダのケベック州)で開催された第8回IPR会議に出席した。

ノンフィクション作家の工藤美代子氏は、「この会議の頃から、ノーマンはカナダ外務省が、日本関係について国際的な場で発言する際の、いわば『顔』とも形容できる地位につき、日本といえばノーマン、ノーマンといえば日本というイメージが、内外ともに定着しつつあった」と述べている。 

国際社会における「日本」研究の第一人者として脚光を浴びた若き研究者が、実はコミテルンの工作員であったわけだ。

左派は、いまもこうした人材活用が得意なので、気をつけておきたい。

この稿続く。